2021年12月15日水曜日

イエス・キリストとは誰ですか

イエス・キリストとは誰ですか
2021年12月15日、国立谷保家庭集会
黒田 禮吉

ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

今日は、『イエス・キリストとは誰ですか』と言うタイトルで、お話しをさせていただきたいと思います。

さて、今日、イエス・キリストの歴史的存在を疑う人はいません。しかしながら、イエス・キリストに関して、大きな誤解があります。多くの人がこのように言います。イエス・キリストは、キリスト教の創始者である。これは、明らかな間違いです。キリスト教とは、ローマ帝国が作った宗教であります。また時々、こういうふうにおっしゃる方がいます。イエス・キリストは、偉大な預言者、偉大な教師、世界四大聖人の一人である。その方は、イエス様を褒め称えているつもりですが、その評価は完全に間違っています。

2021年12月14日火曜日

ベックさんの日曜のお祈り

2015年12月20日、吉祥寺

イザヤ
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

ミカ
7:18 あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは、咎を赦し、ご自分のものである残りの者のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。
7:19 もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れてください。

感謝します。愛する主よ、あなた様は当時も、今日も、このような願いを、祈りを聞いてくださる。告白した罪は、赦されているだけではない。もう思い出さないと、あなた様は約束してくださいました。確かに私たちは、そういうことを想像できませんし、できません。けど、あなた様は、忠実なるお方です。私たちに恵んでくださるお方であり、イエス様が代わりに犠牲になられたことを、本当にどういうふうに感謝したらいいか、さっぱり分かりません。十字架の上であなた様は、『すべ全てが終わった、完了した』と叫ばれたのです。あなた様は、勝利者となられただけではなく、今も、勝利者であられ、我々の中で、心から礼拝する人々を探し求めておられます。どうか、今日も、自分のこと、まわりのものを見ないで、十字架につけられた、勝利者となられたあなた様を、新たにあがめる恵みを与えてください。尊い御名によってお祈りもうしあげします。アーメン。

2021年11月22日月曜日

私たちも盲目なのですか

私たちも盲目なのですか
2021年11月21日、市川福音集会
黒田 禮吉

ヨハネ
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

初めに、ヨハネの福音書の九章から、読んでみたいと思います。

ヨハネ
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」

2021年11月21日日曜日

隠れている罪と開かれた門

隠れている罪と開かれた門
2021年11月21日、秋田福音集会
岡本 雅文

詩篇
19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

マタイ
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』

2021年11月6日土曜日

わたしは集会を愛している

わたしは集会を愛している
2021年11月6日、11月の御代田よろこびの集い
岡本 雅文

エペソ
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

2021年10月31日日曜日

ヨルダン川の東側

ヨルダン川の東側
2021年10月31日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

民数記
32:1 ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、
32:2 ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。
32:3 「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。
32:4 これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」
32:5 また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

モーセは、主からイスラエルの民に相続地を割り当てることを命じられています。その相続地は、もちろん、ヨルダン川を渡ったところ、西側にあります。神が約束されたのは、西は地中海、そして、東はヨルダン川を境界とする地であります。ところが、今、読んでいただきましたように、ルベン族とガド族が、モーセに願います。『ヨルダン川の東側に所有地を与えてください』という願いです。

2021年10月24日日曜日

信者に残された最上にして最後のわざは祈り

信者に残された最上にして最後のわざは祈り
2021年10月24日、吉祥寺福音集会
重田 定義

エペソ
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

だいぶ前になりますけれども、年老いたひとりのドイツのキリスト者が作った『最上のわざ』と題する詩を読んで、同じように年老いた私は、たいへん感動し、深い共感を覚えましたので、その詩を書き留めておきました。その詩とは、次のようなものであります。お読みします。

2021年10月13日水曜日

なぜ過去のことが思い出されるのか

なぜ過去のことが思い出されるのか
2021年10月13日、国立谷保家庭集会
古田公人

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

聖書には、十字架の言葉は救いを受ける私たちには神の力ですと記されています。自分の罪に苦しんでいて、救いを求めているなら、福音を聞くと、すぐに、イエス様を信じ、提供されている救いを、感謝して受け入れるのではないかと思います。 

2021年10月4日月曜日

満ち満ちたキリストの身体

満ち満ちたキリストの身体
2021年10月3日、吉祥寺福音集会
古田公人

第一コリント
1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。
1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。
1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

しばらくのあいだ、第一コリントのこのみ言葉から、ご一緒に考えたいと思います。

2021年10月3日日曜日

わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い

わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い
2021年10月3日、町田福音集会
重田定義

ヨシュア
55:8  「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イエス様を信じる私たちは、日々の歩みの中で、しばしば、主のみ心がわからない。いったい、主のお考えはなんだろうと、思い悩んでしまうことがあるのではないでしょうか?しかし、それは今、読んでいただいたみ言葉にありますように、主のお考えは目先のことしか見えない、わからない、私たち人間の考えの及ばないほどの高いものであって、人の頭では到底、主のご計画、お考えを知ることなどできないからなのであります。

2021年8月15日日曜日

ヨルダン川を渡る(吉祥寺)

ヨルダン川を渡る(吉祥寺)
2021年8月15日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

ヨシュア
3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

2021年8月1日日曜日

原罪

原罪
2021年8月1日、秋田福音集会
岡本 雅文

ヨブ
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

先程、原罪というタイトルにさせていただきましたけれども、副題としては、『裸で生きよ』というテーマにしたほうがいいかもしれません。

ヨブ記は、1章の1節で、『この人(ヨブ)は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた』と始まっています。この1節を読むと、神は何か特別なことを告げようとしておられるのではないかと思わされます。なぜなら、ルカの5章の32説では、イエス様は、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです』と、告げておられるからです。正しい人、義人、ヨブ――この箇所は、ルカの5章の32節から見ると、どのような展開になるのか・・・・初めから、興味がわいてまいります。

2021年7月25日日曜日

ヨルダン川を渡る(市川)

ヨルダン川を渡る(市川)
2021年7月25日、市川福音集会
黒田禮吉

ヨシュア
1:2わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

聖書では、ヨルダン川を渡るということが、大きな意味を持っています。イスラエルの民が、約束の地に入るためには、ヨルダン川を渡る必要があったのです。エジプトの地から出た時以来、約束の地に入ることが、イスラエルにとっての夢でした。けれども、それは、四十年間も閉ざされました。何が、彼らをこれまで阻んでいたのでしょうか?

2021年7月4日日曜日

神を誇る人間と自分を誇る人間

神を誇る人間と自分を誇る人間
2021年7月4日、町田福音集会
重田 定義

詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

こんにちわ。あらためて、このようにして、本当に久しぶりに、皆さんと一緒に礼拝を守ることができたこと、心から感謝しております。一年六カ月ぶりくらいだと思うんです。普段は、家内と一緒に、家庭で礼拝を捧げ、聖餐にあずかっておりました。また、毎日、朝晩、賛美と祈りを二人でしておりました。

コロナが、こんなに長引くとは考えもしなかったんですけども、この新しいコロナ・ウイルスというのは、未だかつて全人類があったことがないウィルスだと思うんです。それは、変異がきわめて速い。新しい変異の株が出現したと思ったら、もうすぐにまた、その次の変異株が来る・・・・こういう経験はおそらく、全人類がしたことがないのではないかと思います。そういうコロナの禍(か)――わざわいといいますが――によって、私たちは、全人類がですね、大変な目に遭っておりますけれども、本当にそのコロナによって、私たちの生活が、大きく変わったことは事実なんです。

2021年6月7日月曜日

自分の十字架を負う

自分の十字架を負う
2021年6月6日、静岡集会
黒田 禮吉

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

自分の十字架を負うとは、どういう意味でしょうか?世間で言われているように、自分の暗い過去や、罪などを背負うことなのでしょうか?イエス様は、そんなことを言っておられるのではありません。もしそうなら、『自分を捨て、十字架を負え』とは救いではなく、絶望へと突き進む命令ではないでしょうか?そこには喜び、希望はありません。

自分の十字架とはなんでしょうか?十字架とは、一般的には、運命や重荷のことと理解されているかもしれません。しかし、聖書で言っている十字架は、自分の運命のことではありません。

2021年6月6日日曜日

祈り

祈り
2021年6月6日、札幌集会
岡本 雅文

ピリピ
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

今、読んでいただいたみ言葉の、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば・・・・』と書いてある、この短い、三節の短いみ言葉ですけれども、この中に、信じている私たちがなすべき、ほとんどのことが語られているのではないかと思わされます。

2021年5月30日日曜日

三つのうめき

三つのうめき
2021年5月30日、吉祥寺(Zoom礼拝)
重田 定義

ローマ
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

今日は、このローマ人への手紙のみ言葉の中にある三つのうめきということについて、ご一緒に学んでみたいと思います。

2021年5月23日日曜日

金のように、銀のように

金のように、銀のように
2021年5月23日、吉祥寺(ZOOM)福音集会
岡本 雅文

創世記
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

2021年5月22日土曜日

どんなことでも、神にはできるのです

どんなことでも、神にはできるのです
2021年5月23日、秋田福音集会
藤田 匡

マルコ
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

これは、イエス様が語られた言葉でございます。これは、弟子たちに、イエス様が語られた言葉ですけれども、この直前に、イエス様を一人の青年が訪ねてまいりました。その会話の後で、この言葉をイエス様が語られました。この青年とイエス様のやりとりの場面につきまして、少し見させていただきたいと思います。

2021年5月17日月曜日

木には望みがある

木には望みがある
2021年5月17日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

ヨブ
14:7 木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。
14:8 たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、
14:9 水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。

木には望みがある。私は若い頃、よく山歩きをしました。ですから、このみ言葉に出会ったとき、霊的な意味は分かりませんでしたが、本当にその通りだと思いました。以来、私の心の中にあったみ言葉でありました。そして、最近になって、『木には望みがある』とは、救われた私たちには、主にある希望がある――そういう意味ではないかと思うようになりました。ヨブ記を通して、ご一緒に考えてみたいと思います

2021年5月9日日曜日

もっとも大切なこと

もっとも大切なこと
2021年5月9日、秋田福音集会
岡本 雅文

第一ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

この二、三週間のあいだに、私が知っている四人の兄弟姉妹が天の故郷に帰っていかれました。旧約聖書が告げる――皆さんがもうよくご存知の――『死の日は生まれる日にまさる』という神の御心に、特別に深くふれる、そういう時が与えられました。

2021年4月26日月曜日

あなたは隣人になりましたか

あなたは隣人になりましたか 
2021年4月25日、御代田福音集会
菊池 有恒

ルカ
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

2021年4月25日日曜日

神の沈黙

神の沈黙
2021年4月25日、市川福音集会
黒田 禮吉

ヨブ
2:1 ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。
2:2 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
2:3 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」
2:4 サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
2:6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。

2021年4月24日土曜日

病気の苦しみを通して与えられるもの

病気の苦しみを通して与えられるもの
2021年4月25日、秋田福音集会
翻訳虫

哀歌
3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。
3:32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
3:33 主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。

はじめに

昨年を振り返ってみますと、病気というものについて考える一年であったように思います。

まずは、約一年前に初めての感染者が出てから、またたく間に全世界に広がったコロナ・ウィルスの問題がありました。また個人的にも、身近にいる何人かの方が大変な重病にかかりました。今も苦しんでいる姉妹、天に召された方もいました。

2021年4月4日日曜日

みことばを食べる

みことばを食べる
2021年4月4日、町田福音集会
重田 定義

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

『私はあなたのみことばを見つけ、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。』エレミヤ書15章の16節。今日は、聖書のこの箇所から、『みことばを食べる』ということについて、ご一緒に考えたいと思います。

2021年4月3日土曜日

苦しみを通して用いられる

苦しみを通して用いられる
2021年4月4日、吉祥寺福音集会
古田公人

第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

本当に感謝な礼拝だと思って、参加させていただきました。

真の教会はイエス様の体にたとえられています。エペソ書の1章の20節、21節は、そのことをもっとも良く記しているところだと思います。

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

2021年4月1日木曜日

イエスの救い(五)進歩への道「ささげること」

イエスの救い(五)進歩への道「ささげること」
主は生きておられる、56号、2021年
ゴットホルド・ベック

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。(ローマ6:22)

今回はローマ人への手紙6章6節および11節から23節までを、ご一緒に考えてみたいと思います。主題は進歩への道、すなわち、「ささげること」です。

今まで考えてきた問いは、どうすれば、実際に、主イエス様の似姿が私たちのうちに形造られてくるのか、どうすれば、実際に私たちのあこがれの勝利の生活に達することができるのか、また、どうすれば、私たちの信仰生活が前進するのかということでした。

これらの問いに対する答えは、一番目に「霊的に知ること」、二番目に「信仰の計算をすること」、この二つでした。

2021年3月28日日曜日

いのちのことばと救い

いのちのことばと救い
2021年3月28日、御代田福音集会
古田 公人

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

救いとは、何でしょうか。救いとは、よく言われることですけど、罪の赦し、主なる神との和解、永遠のいのち、この三つがそろって、救いを受けるということだと言われています。言うまでもなく、罪の赦し、主なる神との和解、永遠のいのちは、それぞれ、違うものですけれども、順序があります。罪の赦しがなければ、主なる神との和解はなく、また、主なる神との和解がなければ、永遠のいのちを受けることはありません。ですから、あえて言うならば、救いとは、永遠のいのちを受けることだと、言うことができるのではないかと思います。

2021年3月14日日曜日

静かなぶどう酒の奇蹟

静かなぶどう酒の奇蹟
2021年3月14日、ZOOMよろこびの集い
翻訳虫

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

はじめに

今、読んでいただいたカナの婚礼は、ヨハネの福音書に出てくる第一番目の奇蹟であります。イエス様の一行が招かれた婚礼の席で、まだ宴が続いている中、ぶどう酒がなくなってしまった。そこで、イエス様がその御力によって、水をぶどう酒に変え、それによって、この宴も続けることができたというはなしであります。

2021年2月7日日曜日

パウロの異言

パウロの異言
2021年2月7日、秋田福音集会
岡本 雅文

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

イエス様を心から信じるようになって、そして、イエス様を受け入れたときから、理解しにくい聖書の箇所に、たくさん出会いました。そのような箇所の中には、聖書が書かれた時代と現代の風習や様々な背景の違い、また、御言葉の現代訳と言語の意味の違いなどの情報が与えられることによって、理解が進むことも確かにあります。ですけれども、聖書が伝えるもっとも大切な神ご自身との交わりは、そのような情報のあるなしにかかわらず、最後の晩餐でイエス様が約束してくださった、もう一人の助け主、すなわち、聖霊、御霊によって、私たちを導いてくださるということが分かります。

2021年1月24日日曜日

奇蹟の起きるとき

奇蹟の起きるとき
2021年1月24日、御代田福音集会
菊池 有恒

ヨハネ
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。・・・・

本題に入る前に、ちょっと、私ごとを述べさせていただきたいと思いますが、お祈りのうちに無事に、一月の五日、それからこの十九日に、左右の白内障の手術を無事に終えることができました。今かけているメガネは、保護メガネなんです。ちょっと色が付いていて、度数が入ってないんですが、とても、ものがきれいに見えるようになって、『よかったな』と思っています。目にメスを入れるなんて言うと、ものすごく怖い気がするんですけども――怖いのは事実なんですが――全く、痛みはありませんでした。この中にも既にご経験の方がいるかも分かりませんし、これからおやりになる方は、ぜんぜん痛くありませんので、そのことだけはお伝えしておきたいと思います。

2021年1月23日土曜日

苦しみを通して得たもの

苦しみを通して得たもの
2021年1月23日、芦屋ZOOM家庭集会
古田 公人

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

主イエス様は、恵みとまことに富むお方です。今日は、イエス様の栄光を、個人的に体験した人々について、彼らが、どのような気持ちで、イエス様のところへ行ったのか、イエス様は、どのように対応されたか、そして、イエス様は、それぞれの出来事を通して、私たちに何を教えようとなさっているか、これらの点について、ご一緒に考えたいと思います。

最初は、よく知られている中風の人の場合です。

2021年1月2日土曜日

今年は患難、忍耐、そして、希望の年

今年は患難、忍耐、そして、希望の年
2021年1月2日、町田福音集会
重田 定義

ローマ
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

まず初めに、新しい年の最初の聖日礼拝を、主にある兄妹姉妹と共に捧げ、メッセージをさせていただこうと、楽しみにしておりましたが、コロナ再拡大による感染防止のためにできなくなったことを、心から残念に思っております。では、本題に入ります。