2010年9月18日土曜日

洗礼の証し(2010年)

洗礼の証し(2010年)
2010年9月18日、御代田
ゴットホルド・ベック

マタイ
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

ときどき、「どうして、洗礼を受けるの?」、あるいは、「どうして洗礼を受けたの?」と、きかれます。聖書の答えは、救われるためではない。けれど、用いられるために必要なのではないかと。

2010年7月14日水曜日

走っているパウロ

走っているパウロ
ベック兄の暦年ファイル
第六期、教会を建て上げる秘訣、他(DVD6~7)
散歩道ではないよ、ほか(CD#70)より
ゴットホルド・ベック

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
3:15 ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。もし、あなたがたがどこかでこれと違った考え方をしているなら、神はそのこともあなたがたに明らかにしてくださいます。
3:16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
3:17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
3:18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
3:19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

前回に引き続いて、『走っているパウロ』について考えたいと思います。

パウロは証しとして言いました、『私は主イエス様によって捕えられてしまった。』イエス様は、はっきりとした目的を持っていた。そして、その目的を目指して走ることが、自分のすべてのすべてであると、パウロは喜んで言うことができたのです。

2010年4月2日金曜日

Need for the Revival: Lord, Give me New Life!

Need for the Revival: Lord, Give me New Life!
Unser Herr lebt, Issue 17, 2010
Gotthold Beck

Wherever believers of the Lord come into one place, there is a “gathering of joy,” because they all have a chance to repent in there.

“Repentance is the most wonderful thing to do,” said Martin Luther, who led the Protestant Reformation. While those who have been led to repentance bring joy to others, those who refuse to repent will bring nothing but pain to people.

In his letter to the churches of his time, Paul referred to some believers and mentioned, “We always thank God for all of you when we mention you in our prayers” (1 Thessalonians1:2). But in the same letter, he had to write about other kinds believers whom he was troubled by and worried about. We can see here that there are two kinds of believers.

2010年4月1日木曜日

リバイバルの必要性–主よ、私を新たに生かしてください![主は生きておられる17号]

リバイバルの必要性–主よ、私を新たに生かしてください!
主は生きておられる17号
ゴットホルド・ベック

主を信じる人々の集いは、いつも「喜びの集い」です。なぜなら、いつでも悔い改めることができるからです。

「悔い改めることはもっともすばらしい仕事だ」と宗教改革者マルティン・ルターは言っています。悔い改めに導かれた人々は、みなに喜びをもたらし、逆に、悔い改めようとしない人々はみなにとって悩みの種となります。

パウロは当時の教会に宛てた手紙の中で、ある信者たちに対しては「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝しています」(1テサロニケ1:2)と書いていますが、別の信者たちに関して「私は困っている、悩んでいる」と書かなければなりませんでした。ここに、「二種類の信者」がいることが分かります。

2010年3月24日水曜日

人間にとっていちばん大切なのは、イエス様をよりよく知ること(仮題)

人間にとっていちばん大切なのは、イエス様をよりよく知ること(仮題)
2010年3月24日、茅ヶ崎家庭集会
ゴットホルド・ベック

マルコ
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

人間にとってもっとも大切なのはイエス様を知ること、イエス様をよりよく知ることなのではないでしょうか。十字架に付けられたお方として、復活なさったお方として、全てを支配しておられるお方として、そして――前に歌いましたように――また、再臨なさるお方としてです。

2010年2月20日土曜日

試練すなわち愛の証拠

試練すなわち愛の証拠
ろばのこ暦年ファイル、DVD2-CD27-380
ゴットホルド・ベック

黙示録
3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
3:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

3:13 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」

いま、愛する兄弟は、三つのことを言われたんですけど、すなわち、主は偉大である。第二番目に、我々はいろいろな試練を通らなければならない。三番目は、試練を通らなければ主に頼ろうとしない。この三つの点について、少し一緒に考えたいと思います。

2010年2月19日金曜日

聖霊の人格と働き

聖霊の人格と働き
暦年テープ、DVD2、CD22、0297
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
7:37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

今、言われたように、今日は洗礼式であり、それだけではなく、五旬節でもありますね。日本ではそんなに大切にされていませんけど、外国へ行く、と非常に大切にされている日なんです。今日は、アイドリンゲンという小さい村で、若者だけで少なくとも、七千人、八千人くらい、集まるようになるんです。みんな一緒に、聖書を読んだり、学んだり、交わったりするのです。毎回、多くの人々が、イエス様を信ずるようになり、救われ、また、今から、イエス様のためにだけ生きたいと決心する人々は多いんです。

2010年2月18日木曜日

こんなにすばらしい救い

こんなにすばらしい救い
暦年テープ、DVD1-CD10-0130
ゴットホルド・ベック

マタイ
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

今日の交わり会の主題は、ヘブル書、二章三節からの短いことばです。すなわち、「こんなにすばらしい救い」であります。

2010年2月17日水曜日

宗教の空しさ

宗教の空しさ
ベック兄暦年テープから、DVD1-CD10-0130
ゴットホルド・ベック

少しだけ聖書からご一緒に学んでみたいと思います。主題は、『宗教の空しさ』という題で、少しばかり聖書から学んでみたいと思います。

主なる神の目から見ると、この世には二種類の人間、すなわち、失われた人間と、救われた人間がいます。人間がどのような宗教を持つかということは問題ではありません。それは、どうでもいい問題なんです。なぜなら、救いはいかなる宗教によっても実現されないからです。

あらゆる宗教は人間がつくった産物です。宗教は、次のような事柄にたとえて考えられます。すなわち、初めての人間であるアダムとエバが、主なる神の命令に背いて罪を犯した時、自分たちが裸でいることがわかり、その裸を隠すために、木の葉を用いました。この裸を隠す木の葉のようなものが宗教である・・・・と言ったらば、恐らく、お分かりいただけるのでないかと思います。けども、それに対して、主なる神は罪のない動物を殺し、その毛皮から、人間のために着物をつくってくださったと、聖書は言っています。まことの救いとは、言わば、主なる神がつくってくださった、毛皮のようなものであります。宗教とは、人間が作り出した木の葉を綴り合わせたものにたとえられるでしょう。

2010年2月8日月曜日

キリスト者の使命(五)実を結ぶ人生

キリスト者の使命(五)実を結ぶ人生
暦年テープ、DVD1-CD19[新番号255]
ゴットホルド・ベック

キリスト者の使命について、今まで四回にわたって、次の四点について、ご一緒に学んで来ました。先ず、主に対する礼拝、それから、人に仕える奉仕、それから、悪の霊に対する戦い、そして、先週は、教会、すなわち、兄弟姉妹の交わりについて考えました。今日は、「実を結ぶ人生」について、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。

救われた人々は、救われるためだけに救われたのでなく、キリスト者の人生は、実を結ぶ人生であるべきです。

ちょっと、三つの点に分けたいと思うんですね。この世に対してのキリスト者のあり方はどういうものであるかと言いますと、内面的な相違こそが、ひとつの大切な面だと思うんです。そして、二番目は、主にだけよりかかることも、非常に大切なことであり、それから、自己否定、自分により頼まないことも、非常に大切であります。

2010年2月7日日曜日

キリスト者の使命(四)教会の交わり

キリスト者の使命(四)教会の交わり
暦年テープ、DVD1-CD19[新番号254]
ゴットホルド・ベック

詩篇
16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
16:2 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
16:3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。
16:4 ほかの神へ走った者の痛みは増し加わりましょう。私は、彼らの注ぐ血の酒を注がず、その名を口に唱えません。
16:5 主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、堅く保っていてくださいます。
16:6 測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。
16:7 私は助言を下さった主をほめたたえる。まことに、夜になると、私の心が私に教える。
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

このあいだ、キリスト者の使命について、三回に渡ってご一緒に学びました。すなわち、主に対する礼拝、人に仕える奉仕、そして、悪霊に対する戦い――この三つの点について、今まで学びましたが、今日は、「教会の交わり」という点について、少しだけ考えてみたいと思います。なぜなら、これもキリスト者に与えられている大切な使命であるからです。もちろん、教会の代わりに、兄弟姉妹と言った方が正しいでしょう。教会と言うと、ある人々は、建物を考えたりして、他の人々は一つの教団、教派を考えるようになるかも知れません。決してそうではありません。

2010年2月6日土曜日

キリスト者の使命(三)悪の霊に対する戦い

キリスト者の使命(三)悪の霊に対する戦い
暦年テープ、DVD1-CD19[新番号253]
ゴットホルド・ベック

民数記
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。

8:24 これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

今日はもう一回、今まで学んできたテーマ、すなわち、『キリスト者の使命』というテーマについて一緒に考えてみたいと思います。

主の目的は、今まで学びましたように、一人でも多くの人々が、真の救いにあずかることです。永遠のいのちを持つことができ、毎日、安心して生活することができ、生き生きとした希望をもって、死に向かうことができる。そして、死後、もちろん、永遠に喜びの泉である神と、一緒に過ごすこと、これこそが、主の目指すところであります。

2010年2月4日木曜日

キリスト者の使命(一)礼拝

キリスト者の使命(一)礼拝
暦年テープ、DVD1-CD19[新番号251]
ゴットホルド・ベック

民数記
8:14 あなたがレビ人をイスラエル人のうちから分けるなら、レビ人はわたしのものとなる。

8:16 彼らはイスラエル人のうちから正式にわたしのものとなったからである。すべてのイスラエル人のうちで、最初に生まれた初子の代わりに、わたしは彼らをわたしのものとして取ったのである。

8:24 これはレビ人に関することである。二十五歳以上の者は会見の天幕の奉仕の務めを果たさなければならない。

今日はちょっとだけ、『キリスト者の使命』という題について、ご一緒に考えてみたいと思います。

今、兄弟も言いましたように、何か形式的になれば、お終いだと言えるのではないかと思うんです。ああすべきである、こうすべきであると思うようになれば、危険ではないか思います。知らないうちに、形式的になり、律法的になるからです。

2010年1月27日水曜日

聖書とは何か(六)

聖書とは何か(六)
ベック兄暦年テープ、DVD1、CD18-222
ゴットホルド・ベック

【これまでのまとめ】

今まで、私たちは、聖書が神のみことばであることを見てきました。そして、預言者たち、使徒たちによって宣べ伝えられ、また、書かれたみことばが、神によって受け取られたみことばであることをも見てまいりました。すなわち、これは語られ、書かれたみことばと、受け取られたみことばとが等しいということを意味しています。また、私たちは今までに、神が預言者たちと使徒たちをとおしてお語りになったということを、確認して参りました。したがって、書かれたみことばと受け取ったみことばとは等しいということが明らかになったわけです。

今までのことを、ここでわかりやすくまとめてみましょう。先ず、第一に言えることは、神のお語りになったみことばと、人間、すなわち、預言者たちや使徒たちが受け取ったみことばとは等しい。同じものであるということです。第二に、預言者たちや使徒たちが書き記し、宣べ伝えたみことばは、彼らの神から受け取ったみことばと等しい、同じものであるということです。したがって、その結果として、第三に言えることは、主なる神のお語りになったみことばは、預言者たちや使徒たちが宣べ伝え、書き記したみことばと等しいということです。この結論は、否定することができません。

2010年1月26日火曜日

聖書とは何か(五)

聖書とは何か(五)

ベック兄暦年テープ、DVD1、CD18-221
ゴットホルド・ベック


(三)旧約聖書についてのイエス・キリストの証し(続き)


このあいだ、始まったテーマ、すなわち、『旧約聖書についてのイエス・キリストの証しとはいったいどういうものでしょうか』という点について、もう少し考えてみたいと思います。聖書が――聖書にふくまれているひとつひとつのみことばが――ほんとうに、神のみことばであることを要求しているのでありましょうか。そして、また、聖書のひとつひとつの文字が、神の権威を持ち、それゆえに、永遠に続くものであるということを、要求しているのでありましょうか。

私たちはこのことについて、イエス・キリストご自身よりも、偉大な人に訊ねることができません。主イエスこそ、最高の権威なのです。主イエス様は、神の権威をもって、旧約聖書全体を、神のみことばと言っておられます。神のみことばは、誰一人、改善したり補ったり、変更したりすることのできない永遠なるみことばです。イエス様は、旧約聖書を百パーセント、信じていました。

2010年1月25日月曜日

聖書とは何か(四)

聖書とは何か(四)

ベック兄暦年テープ、DVD1、CD18-220
ゴットホルド・ベック

今まで、大きく分けて、二つのことについて考えて参りました。第一に、主なる神が聖書の発起人、起草者、すなわち、著者、そのお方であること。第二に、神のことばが人間、すなわち、使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見て来ました。そこで、最後に、第三として、使徒たちと預言者たちが与えられ、受け取ったものを、さらに伝えて行き、述べ伝え、書き伝えたことを見てみましょう。すなわち、別のことばで表現しますと、第一に、語られたみことば、第二に、受け取られたみことばを見て来ましたが、今度は、第三に、書かれたみことばを見てみるわけです。

人間は、主なる神から受け取ったみことばを、書き記した事実について考えてみましょう。主なる神は、時々、召された人たちにお語りになり、受け取った事柄を、さらに宣べ伝えることを禁じました。そういう場合、私たちは、神が語られたことばだけはわかりますが、主が何を語られたかは、わかりません。たとえば・・・・

ダニエル
8:26 先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。

2010年1月24日日曜日

聖書とは何か(三)

聖書とは何か(三)

ベック兄暦年テープDVD1、CD18-219
ゴットホルド・ベック

学びの題は、『神のみことばは、神のみことばである』という題です。

南太平洋にある島の話ですが、ヤシの木陰で一人の土人が、聖書を読んでいました。そこへ神を信じない西洋人が通りかかり、『イギリス辺りでは、よほど時代遅れの者でなければそんな本は読まないよ』と言いました。すると土人は顔を上げて、ニッと白い歯を見せながら、「しかし、私がこの本を読んでいればこそ、あなたは無事にここにおられるのですよ。私どもは人食い人種でしたが、キリストを信じてから、以前の悪習慣を捨てて、全く生まれ変わった人間となりました。もし、私どもが聖書の教えを知らなかったら、あなたは私の腹の中にいることでしょう。」この西洋人はブルッと身震いしたまま、二の句も告げず、そのまま足早に立ち去って行きました。

聖書は、神が語られたことを、そのまま私たちに伝えています。すなわち、主なる神は語られました。神の御子、主イエス様が来られ、そして、語られました。それから聖霊が遣わされ、証しをし、そして、宣べ伝えました。神ご自身が聖書に記されている黙示を書いた方なのです。

2010年1月23日土曜日

聖書とは何か(二)

聖書とは何か(二)

ベック兄暦年テープDVD1、CD18-218
ゴットホルド・ベック

ある有名人の聖書観について、ちょっと考えてみたいと思います。

マルチン・ルター・・・・聖書は、古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである。

ニュートン・・・・いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存在する。

ヴォルフガング・ゲーテ・・・・私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選びます。

ナポレオン・・・・聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。

ガンジー(インド)・・・・私の生涯にもっとも深い影響を与えた書物は、聖書である。

リンカーン・・・・聖書は、神が人間に賜わった、もっともすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に読まれている。

ルーズベルト・・・・聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである。

山室軍平・・・・聖書は世界無二、宇宙第一の書物である。

前に始まったテーマについて、すなわち、みことばを宣べ伝える者としての預言者について、もう少し考えてみたいと思います。

2010年1月22日金曜日

聖書とは何か(一)

聖書とは何か(一)
暦年テープ、DVD1、CD18-217
ゴットホルド・ベック

今日から始まる学びの題は、「神のみことばは、神のみことばである」という、まことに意味深い題です。すなわち、聖書は、すべて神の霊感によるものです、と。

まず、聖書の霊感について、学んでみることにしましょう。聖書は今日、もっとも普及した書物であり、また、もっとも近代的な書物です。疑いもなく、聖書に惹かれる動きは、どこの国でも進行しています。現代の悩みと混乱にあって、多くの人々は、しっかりとした支えを求め、聖書を読もうという飢え渇きを持っています。

なぜ、聖書が求められるのでしょうか。この書物の比類なき内容は何なのでしょうか。聖書は、どういう点で、他の書物とは比較にならないほど、すぐれているのでしょうか。聖書には、どのような特別な地位が与えられているのでしょう。私たちは、こういう問いに従事したいと思います。すなわち、その問いとは、全く簡単に表現すれば、次のように言えるでしょう。「聖書とは何か」と。