2021年10月31日日曜日

ヨルダン川の東側

ヨルダン川の東側
2021年10月31日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

民数記
32:1 ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、
32:2 ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。
32:3 「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。
32:4 これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」
32:5 また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

モーセは、主からイスラエルの民に相続地を割り当てることを命じられています。その相続地は、もちろん、ヨルダン川を渡ったところ、西側にあります。神が約束されたのは、西は地中海、そして、東はヨルダン川を境界とする地であります。ところが、今、読んでいただきましたように、ルベン族とガド族が、モーセに願います。『ヨルダン川の東側に所有地を与えてください』という願いです。

彼らには非常に多くの家畜があり、そして、イスラエルは、エモリ人と戦い、その地を征服し、占有しました。そこには、草原もあり、家畜を育てるのには、非常に適しています。それで、こちら、東側に所有地を与えてくださいと願っているのです。

のちに同じように、マナセ族の半分が、ヨルダンの東にある地を欲したので、ルベン、ガド、マナセ半部族は、東側に割り当て地を得ました。端的に言えば、現状でいいのだ――今のままでいさせてくれという願いであります。けれども、これは、主によって約束された地ではなく、彼らは、土地が肥沃なのを見て、モーセに要求したのです。ここは、モアブ人、アモン人、アラム人などの外敵にさらされている地域であり、後にアッシリアが征服した地域であります。そして、完全に異邦人化された地域であり、見た目は良いけれども、破滅にもっとも近かったところと言ってよいのでしょう。

私たちも、肉が働けば――働きやすい場所に自分を置けば――、このようになってしまいます。皆さん、ご存知の創世記のロトの場合を見てみたいと思います。

創世記
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。
13:13 ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、主に対しては非常な罪人であった。
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。
13:16 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。
13:17 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」

ロトは、叔父のアブラハムとのあいだに確執がありました。彼ら、二家族の家畜を同じところで飼うには、土地があまりにも狭くなっていました。そこで、アブラハムは、どこに行くかを決めなさいと、ロトに譲りました。

アブラハムは親族が対立することで、周りの人々に神の証しができなくなることを恐れていたのです。ロトは、ヨルダンの低地にある緑を見ました。そこが、エデンの園ように、エジプトのように、緑が多かったからであります。そして、ソドムとゴモラという罪の街に近いところに天幕を張りました。そして、ご存知のように、ロトとその家族は、後にアブラハムの熱心なとりなしの祈りによって、ソドムが滅ぼされる直前に助け出されました。一方、アブラハムは、カナンの地に住み、主の祝福を得たのであります。

私たちが考えなければならないのは、信仰生活というのは、旅のようなものであるということです。旧約聖書では、イスラエルの民の旅、そのものが、地上における私たちの信仰の歩みを表しています。また、ギリシャ・ローマ世界に生きた新約の人々には、競争や競技に例えられています。パウロは、何度も信仰生活のことを、競技にたとえて語っています。

第一コリント
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。

競技において、当然ながら、そこには、賞を得るという目標があります。その目標に到達するまでは、走り続けます。ゴール地点に到達することなくして、充分に走ったとして、やめてしまうのは失格であって、意味がありません。そして、私たち信じる者の目標は、主イエス・キリストご自身であります。

へブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

主キリストを見上げて、この方に従い、この方に似たものとされていくことが、私たちの目標ではないでしょうか?そして、主が再び来られる時には、キリストがきよいように、私たちもきよくされるとの約束があります。ですから、私たちは今の自分には満足しません。今、完成されたものと見ることはできません。

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

したがって、私たちは、主イエス様が再び来られて、私たちが引き上げられて、主を受ける時まで、決して満足しません。最後まで走ります。私たちは、主イエス・キリストを見上げて、この方にあって、今の自分に飢え渇きを覚えるものではないでしょうか?

けれども、私たちはいつでも、途中で止まってしまう誘惑があります。完全にされているのではないのに、充分に走ったから、これぐらいでいいだろうと、満足してしまうのです。なぜ、ルベン、ガド、そして、マナセ半部族が、ヨルダン川を渡らずに、所有地を欲したのでしょうか?

彼らは、新しい世代であり、荒野から出てエドムの地を迂回し、そして、モアブの地を通過し、戦いを挑んだエモリ人をことごとく倒し、勝利を得ました。主は、そのようにして、約束の地における神の勝利を垣間見るようにしてくださったのであります。約束の地に入ったら、主は、ことごとくカナン人を討ち滅ぼし、その地を彼らに与える約束を示してくださいました。その約束によって、ヨルダン川を渡った先にあるものがいかに優れているかを、知ることができます。主は、これから来る試練にも、助けを与えてくださるという確信を、与えてくださっているのです。

ところが、私たちは、状況が少し良くなると、主を求めるどころか、かえってその中で満足するという過ちを犯します。そして、自分の力でことをなしたと思い違いをしてしまうのです。主がさらに、大きな勝利を、遥かに優れた祝福を、与えようとしておられるにもかかわらず、今あることに満足してしまうのです。

主が与えておられるのは、乳と蜜の流れる地です。ヨルダン川を渡ってから見ることのできる祝福です。けれども、主が与えておられる地が近づくにつれて、荒地から緑が現れ始めます。そして、そうした緑だけで満足してしまうという過ちに陥るのです。これだけの緑があるから、家畜を飼うのに充分だと思ってしまうのです。エモリ人に打ち勝った、家畜が非常に多くなっている、家畜の食べる草も豊富にある広大な地である。見た目は、あたかも相続地であるかのように見えます。それで、これこそが与えられた約束なのだと思ってしまうのです。

この姿は、私たちの信仰のあり方に似ていないでしょうか?私たちは、主が命じられたように、御霊によって、ひとつのキリストの体になったものです。おのおのが体の器官であり、互いに互いを必要とし、かしらなるキリストにつながるのです。

一方、救いは極めて個人的なものです。私たちは、ひとりひとり、主イエス様のみ名を信じて、神の救いを受け取りました。その神の救いは偉大です。ところが、その救いを手にしたということで、満足してしまうのであります。自分の気が向いた時には、集会に集います。けれども、それはあたかも、ヨルダン川の東にある草原を、自分の相続地だと主張しているルベン族とガド族のようではないでしょうか?

かつての私は、実は、そのようなものでありました。集会では、人と人との繋がりがあります。兄弟姉妹との交わりがあります。それを、煩わしいと思っていました。信仰はあくまで個人的なものだ。だから、自分が主イエス様につながっているのだから、それで十分だと思っていました。信じている自分が、日曜日に礼拝すればよい、時々、祈ればよい、そして、自分はこれだけで充分、キリスト者であると、思っていました。

ヨハネ
13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

主は、このように言われました。目に見えるキリストにある兄弟姉妹を、具体的に、目で見える形で愛することによって、目に見えないイエス・キリストが、どのように私たちを愛しておられるかを、知ることができるのです。兄弟姉妹との交わりの煩わしさこそが、まさに、イエス様をより良く知っていく過程なのではないでしょうか?それが、イエス様をかしらとするみ体なる教会の一員となることでありましょう。

第一テモテ
6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。
6:7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。
6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。

このようなみ言葉の一方で、こういう言葉があります。

詩篇
81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

私たちは、衣食住において、満ち足りる心を伴う経験こそ、大切であることを知っています。けれども、主との関係においては、これだけでよいという満足は間違っています。救われた私たちは、キリストにある霊的祝福を、もっともっと欲しいと、飢え渇くべきではないでしょうか?神がくださっているものを仰ぎ見て、それを、大きな口を開けるようにして受け取る必要があります。

へブル
4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

この安息とは、約束の地であり、ヨルダン川の向こう側にあります。そして、私たちについて言えば、天の御み国に入った後の安息であります。けれども、これら、ルベン族、ガド族、マナセ半部族は、その手前で安息してしまいました。彼らは本当に、そのまま安息を保つことができたのでしょうか?

実は、彼ら、二部族と半部族は、もっとも先に、敵に散らされたものとなりました。ダビデとソロモンの統一イスラエル王国は、北イスラエルと南ユダに分裂しました。そして、北イスラエルが紀元前八世紀に、アッシリアによって滅ぼされ、その時に、二部族と半部族の地は削り取られていました。シリアの将軍、ハザエルがイスラエルに攻めてきた時に、この二部族と半部族から、打ち破っているのであります。

旧約聖書に驚くべき記述があります。

第二列王記
10:32 そのころ、主はイスラエルを少しずつ削り始めておられた。ハザエルがイスラエルの全領土を打ち破ったのである。
10:33 すなわち、ヨルダン川の東側、ガド人、ルベン人、マナセ人のギルアデ全土、つまり、アルノン川のほとりにあるアロエルからギルアデ、バシャンの地方を打ち破った。

ハザエルが動く前に、主が、イスラエルを削り始めることを決断されたと書かれています。そして、アッシリアが捕囚の民を連れて行くときにも、初めに捕え移されたのは、彼らなのです。

第一歴代誌
5:26 そこで、イスラエルの神は、アッシリヤの王プルの霊と、アッシリヤの王ティグラテ・ピレセルの霊を奮い立たせられた。それで、彼はルベン人とガド人、およびマナセの半部族を捕え移し、彼らをハラフと、ハボルとハラとゴザンの川に連れて行った。今日もそのままである。

ここでも、イスラエルの神、つまり、主は、アッシリアの王の霊を奮い立たせ、ルベン人とガド人、マナセの半部族を捕え移したと、恐るべきことが書かれています。そして、彼らのように、約束のものを手にしていないのに満足する人は、最後は、イエス様ご自身を排除するようになるのではないでしょうか?

この地域は、新約時代には、デカポリスという異邦人の影響の強い地域になっていました。そして、レギオンという悪霊の一軍に取りつかれていた男が、イエス様によって、その悪霊を追い出してもらった出来事がありました。新約聖書のマルコの福音書の5章から、とびとびに読ませていただきます。

マルコ
5:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。

5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
5:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。
5:9 それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
5:11 ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。
5:12 彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」
5:13 イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。

不思議な出来事なんですけども、イエス様は、レギオンに豚に乗り移るように命じられ、二千頭の豚がガリラヤ湖に入って行き、おぼれ死にました。そして、そこの人々は恐ろしくなり、イエス様に出て行ってほしいと要求したのであります。

悪霊から解放された男がそこに居るのに、その良き知らせを、かえって疎んだのです。彼らは、福音よりも、豚の損失を惜しみ、そして、イエス様を追い出したのであります。不完全なのに満足した結果がこれでした。自分はイエス様を崇めているつもりが、最後は、この方を否定するようになったのであります。

私たちは、ヨルダン川を渡る必要があります。ヨルダン川を渡れば、残るは前進のみです。もう後戻りできません。そこには四十年前に、イスラエルの十二人の斥候が見た巨大な敵、背の高いアナク人がいるのであります。ですから、私たちは、もはや自分に寄り頼むことはできません。ひたすら、主により頼む生活しか残されていません。主なるイエス・キリストを仰ぎ見、今の自分のままではいけないのだという飢え渇きが必要ではないでしょうか?

最後に、詩篇の六十三篇を読んで、終わりにしたいと思います。

詩篇
ダビデの賛歌。彼がユダの荒野にいたときに
63:1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
63:2 私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。
63:3 あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、私のくちびるは、あなたを賛美します。
63:4 それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
63:5 私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

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