2021年6月6日日曜日

祈り

祈り
2021年6月6日、札幌集会
岡本 雅文

ピリピ
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

今、読んでいただいたみ言葉の、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば・・・・』と書いてある、この短い、三節の短いみ言葉ですけれども、この中に、信じている私たちがなすべき、ほとんどのことが語られているのではないかと思わされます。

『何も思い煩わないで。』今の新型コロナのパンデミックにあっても、何も思い煩わないで、むしろ、感謝をもって、このことを受け取るようにと、書かれているようであります。

現実に、私自身の生活を通しても、群れ全体を通しても、また、この世の中、すべてを通しても、もっとも相応しい、そのようなことを、主イエス様はなされていると、このみ言葉が語っていると思います。

信仰者にとって、もっとも大切なことは、祈りであると言われています。私たちは、先輩の兄弟、また、姉妹たちから、サタンは、私たちがどんなに聖書を読んでも、聖書を学んでも、それは、全く気にしないと、聞いてまいりました。ただ、祈りについては、サタンは徹底的に抵抗する。そのようにも、教えられてまいりました。

本当に最近、その通りだと思うようになりました。

しかし、信仰者――私たちにとって、もっとも大切なものが祈りであるとともに、もっとも欠けているのも祈りであるということを、私自身も、本当に主の前に悔い改めなければならないと思います。それは、事実であると、私の信仰生活を振り返っても分かります。そして、遅まきながら、ようやく、本当の祈りの生活に導いていただきたいと、心から祈るようになりました。

本日は、聖書の中の何人かの姉妹がたの祈りと、その祈りに対するイエス様の答えを通して、イエス様が私たちに願っておられる祈りについて、少し考えてみたいと思っています。

本日の学びの中で、願いという言葉と、祈りという言葉が出てまいりますが、私自身の仮の定義として、み心にかなった願いを神に願う・・・・そういうことを祈りという意味で、使わせてもらっています。み心にかなった願いを願うこと、それが祈りであると、そう仮に定義させてもらって、扱っているつもりであります。

イエス様を信じる私たちにとって、主が、その祈りに応えてくださることの意味は、どこにあるのでしょうか?自分自身や家族や近しい人たちに与えられた大きな病気、厳しい人間関係、あらゆる種類の悩みなどの中で、私たちは、願い、また、祈っています。このような私たちの願いや祈りに対して、今まで、イエス様からどのような答えが与えられてきたのでありましょうか?その願いや祈りの答えは、私たちにとって、どのような意味を持っていたのでありましょうか?

イエス様は私たちに何を望んでおられるのでしょうか?また、私たちの願いや祈りに、イエス様から答えがないと思われるとき、私たちは、どのように、それに、その状態に、祈りに答えのない状態に応じたのでありましょうか?そして、また、同じように、主イエス様は私たちに何をこのような場合に望んでおられるのでしょうか?その答えのない答えは、どのような意味を持っているのでありましょうか?

私たちの願い通りに答えられた時、そのように思った時、多くの場合、私たちはよろこぶでありましょう。しかし、そのよろこびは、この世のよろこびと、どのように違うのでしょう?それは、ご利益とどう違うのでしょうか?

また、私たちの願いと反対の結果が与えられたとき、多くの場合、私たちは落胆し、ただ、あきらめているだけ・・・・時間が経てば、その思いも薄れていくということは無いでしょうか?そして、時とともに、祈ったその祈りさえも忘れてしまい、何の益にもならないまま、終わってしまったということはないでしょうか?もし、そういう事実があるとすれば、私たち自身、いや・私自身も、み言葉と異なる人生を送っているということにならないでしょうか?

今・お話したことは、この一年半くらいのあいだ、多くの時間を家で過ごすようになって、私自身が自分自身に問いかけてきたことでもあります。信仰者にとって、もっとも大切であると、多くの先輩たちから教えられた祈りの意味、そして、その祈りに対するイエス様の答えの意味は、どこにあるのでしょうか?

私たち自身の祈りと、その祈りに対する答えを静かに思い起こし、聖書の中で告げられているイエス様のみ心に触れてみたいと思っています。

そして、主のみこころどおりに願うこと、すなわち、初めに申し上げたように、主がよろこんでくださる祈りですね。主のみこころどおりに願う、主が心からよろこんでくださる祈りを捧げることができるように、新たに的を射た願いをもって祈る者としていただきたいと、切に切に願うのであります。

結論から申し上げますと、祈りは、私たちと主イエス様とのもっとも親密な交わりの場であると、聖書は告げていると思います。祈りの場は、真の交わりが行われるよろこびの集いと言えるのではないでしょうか?イエス様とのよろこびの集い。

この祈りによる交わりの集いは、イエス様を信じている私たち、ひとりひとりが永遠のいのちを持っていること、すなわち、私たちがイエス様ご自身の永遠のいのちに組み込まれていることを確信する場でもあるのではないか?

永遠のいのちとは、イエス様ご自身のことであると思われるみことばもあります。人格――どのように表現していいかわかりません。言葉では永遠のいのちを説明することはできません――イエス様のご人格の中にある、イエス様が持っておられるもの、これが、ヨハネが私たちにどうしても伝えたかった主イエス様の御心でありました。

ヨハネが長い一生を通して、このことを最後に手紙に書きました。このことを伝えたい。これが、第一ヨハネの手紙の要旨であります。人が漠然と描いている永遠への想い、伝道者の書に書かれている、永遠への思いではありません。永遠のいのちであります。これは、私たちが繰り返し繰り返し聴いている第一ヨハネの最初、一章のニ節に書かれている。彼の手紙の目的でもありました。

『このいのちが現われ、私たちはそれを見たので・・・・』ここのいのちとは、もうイエス様、イエス・キリストと呼んでもいい――そのような表現がされています。

第1ヨハネ
1:2 ――このいのちが現われ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし(・・・・イエス様のあかし、永遠のいのちのあかしをし・・・・)、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現わされた永遠のいのちです。――
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。(・・・・そして、よく知られているみ言葉ですね・・・・)私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

私たちは、イエス様という言葉を用いて、み父とみ子イエス・キリストがひとつであるということを前提にして、イエス様と呼んでいます。これが、先ほどお話した、聖書が告げる本当のよろこびの集い、そのものであります。私たちがよろこびの集いと言っているよろこびの集いは、ある意味では、真似事かもしれません。本当のよろこびの集いは、この第一ヨハネの一章、手紙の初めに書かれている、『私たちの交わりです』と書かれています。

そして、これが今までお話したことの根拠でもあります。ヨハネは念を押すように、この手紙の終わりの第一ヨハネ、五章の十節から十三節に、よく知られている次のみ言葉を書きました。

第一ヨハネ
5:10 神の御子を信じる者は、このあかしを(・・・・永遠のいのちのあかしを・・・・)自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子について(・・・・イエス様について・・・・)あかしされたことを信じないからです。
5:11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。

『だから・・・・』と12節につながります。

5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

このように、噛んで含んだように、繰り返し繰り返し、永遠のいのち、イエス・キリスト、この永遠のいのちが、イエス・キリストのうちにある。だから、イエス・キリストを信じる者は、永遠のいのちを持っているのだと書きました。私たちがどんなものであろうと、どのような状態のものであろうと、イエス様を信じているなら、永遠のいのちを持っている。私たちが赦されているということと、同じ表現を用いています。

母マリア、長血の女、ベタニアの姉妹たち、マルタとマリアが、自分たちの日常の不足に対する問題や、自分の身に起こった重い病などで苦しむ時、また、愛する者に起こった重大な深い深い悩みを抱えた時の祈りについて、考えてみたいと思います。

母マリヤは、日常の生活の中で、イエス様に祈りました。

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。(・・・・マリアがいた。・・・・)
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

ここも、多くの事柄が含まれていますけれども、祈りに注目して、考えてみたいと思います。母マリアは招かれた婚礼で振る舞い酒が無くなった時、たった一言、事実をイエス様に伝えました。短い短い言葉であります。『ぶどう酒がありません』と、具体的には、何ひとつ要求しませんでした。ただ、信頼している心を伝えました。事実だけ。イエス様に拒絶されても、母マリヤは手伝いの人に、次のように言いました。『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』イエス様がどのような状態にあっても答えてくださる、祈りに応えてくださるということを信じて、疑わなかったと、この短い会話の中に、真実が垣間見られます。

この信頼が、みこころにかなう願い、すなわち、マリアの祈り、そのものでありました。ぶどう酒がありませんという祈りです。この祈りから、奇蹟が始まりました。そして、ただの水が良いぶどう酒に変えられる祈りに対する答えを得たのであります。

これは日常生活の中でのひとこまでした。マリア自身に直接、関わる大きな悩みではありませんでした。しかし、マリアは、このようなことの中でも、イエス様は何とかしてくれると確信していた。その信頼ゆえに、日常生活の中で、大きなことを見たのであります。彼女が、『ぶどう酒がありません』と一言、言ったことから、この初めの奇蹟は起こりました。

長血の女は自分の重い病気の苦しみの中で、祈りを捧げました。

マルコ
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

この女性は、イエス様の噂を耳にしただけで、お着物に座ることでもできればきっと治ると、イエス様を信頼いたしました。そして、群衆の中に紛れ込み、後ろから、イエス様の着物に、おそらく、そっと着物にさわったのでありましょう。これが彼女の祈り、そのものでした。彼女は、イエス様に何ひとつ要求しませんでした。そっと、さわった。それが、祈りであります。ただ、確信して、祈ったのであります。すると、彼女も大きなことを見たのです。

ベタニアの姉妹たち、マルタとマリヤ。愛する兄弟、ラザロの死に直面した時の深く耐え難い悲しみの中で、彼女たちも祈りました。

ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。

彼女、マリアの兄弟、ラザロが病んでいたのである。

11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

この箇所も、私たちが何度、耳にし、また、声に出して読んだ箇所でありましょうか?姉妹たちは、愛する者が病気であることの事実だけを、イエス様にお伝えいたしました。これが、彼女たちの祈りでした。何ひとつ、要求しませんでした。ただ、信頼して、彼女たちの思いを心に携えて、言葉にはせず、ただ事実を伝えて、祈ったのであります。

イエス様は、彼女たちの控えめな、しかし、深い悲しみの願いを知っておられたでしょ?それにもかかわらず、ラザロは死にました。しかし、彼女たちの祈りに対するイエス様の答えは、彼女たちの信頼を、はるかに上回る、次元の違うものでありました。主イエス様と父なる神とのご計画、それは、私たちが知ることのできない、はるかに高いご計画でありました。彼女たちは、死人が生き返る大きな奇蹟を見たのであります。

三つの場面で彼女たちの願い、すなわち、この場合は祈りの内容は、それぞれ異なるように見えますが、彼女たちには、同じようにみこころにかなう願いの心がありました。そして、ただ自分たちの悩みの事実をイエス様にお伝えしただけでした。そして、彼女たちは皆、自分たちが経験したことのない祈りの答えを与えられたのであります。それは、姉妹たちの一生の記念となる答えであるだけでなく、イエス様に対する信頼を、さらに増し加えるものとなったに違いありません。

私たちは、祈ることを通してだけ、御父、および、み子イエス・キリストとの真の交わりが与えられると、聖書から教えられます。祈ることを通してだけ、奇蹟が与えられたことを見ることができます。祈らなければ、イエス様の答えを知ることができません。ですから、祈らなければ何ひとつ、変わらないのではないかと思わされます。御霊の働きも分かりません。祈るから、そして、その答えを待ち望むから、答えが与えられたことを、知ることができるのではないかと思わされます。

祈りに応えられる経験が、どうして私たちに大切なのでありましょうか?ただ、祈りに応えていただくことが、祈りの本当の目的ではないと、私には思えます。

母マリヤはイエス様が生まれた時から、数々の不思議な体験を心にとどめてきたと書かれています。そして、それらの体験から積み重ねられた信頼の上に、さらに信頼を増し加え続けてきたことでありましょう。このカナの婚礼の、『ぶどう酒がありません』という祈りも、そのひとつではないでしょうか。その結果、カナの婚礼で、『ぶどう酒がありません』という祈りになりました。

長血の女は、きっと治るという祈りが、イエス様に必ず届くことを知りました。

マルタとマリアは、『愛する者が病気です』という祈りを通して主イエス様を信じる者は死んでも生きることを体験的に知りました。こうして、彼らはみな、イエス様を更に信頼すればするほど、もっと、大きなことを知るようになる、そういう望みを与えられました。確信いたしました。

聖書全編が伝える私たちの祈りに対するイエス様の答えは、よみがえりのイエス様を信じることができなかった、トマスに告げられた言葉の中に見ることができるのではないかと思います。『見ずに信じるものは幸いです』というみことばが、私たちの内側に、ひとりひとりの心の中に、成就することではないでしょうか?

私たちは、何度も何度も聞いています。見ずに信じるものは幸いです。しかし、本当に、見ずに信じようと努力しているのでありましょうか?ここに、願いを持っているのでありましょうか?これが、奇蹟ではないかと思います。

イエス様が、私たちの祈りに必ず答えてくださることを知る時、私たちは本当の奇蹟にまた一歩、近づきます。その奇蹟とは、ひとつひとつの祈りに必ず答えてくださると、見ずに信じる恵みであります。

『見ずに信じるものは幸いです。』このみ言葉を実行したいと願い、祈り続ける生活が与えられる、そういう恵みです。環境がどんなに違っても関係ない願い――すべての信仰者が同じようにチャレンジできる恵みであります。何事でも神のみこころにかなう願いを願ったその祈りは、すでにかなえられたと、見ずに信じる喜びと感謝であります。

聖書は、とくにパウロを通して、この御心を明らかにしています。何事でも、神のみこころにかなう願い――すなわち、祈りですね――神のみこころにかなう願いを願ったその祈りは、すでにかなえられたと、見ずに信じる奇蹟、これが私たちに約束されている主イエス様の願いであり、私たちに対する願いであり、そして、イエス様のご栄光、そのものではないかと思います。

私たちがそのような祈りを祈った時、主は、ご栄光をお受けになるのではないかと思わされます。こうしてイエス様のうちに隠されていた、目に見えない、新たな目標を願い求め始めるとき、私たちに、あの聖書の女性たちのように、新しい歩みが始まると、聖書から教えられます。

こういうわけで、イエス様を信じるとは、私たちが本当にそらで覚えているあの第一テサロニケの5章の16節から18節のみことばを心から実行したいと願い、祈り続ける生活を送ることではないかと思わされます。

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。・・・・

そして、次にこう書かれています。

5:18 ・・・・これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

私たちは、聖書を読み、そして、学び、交わり、多くの事柄をいたします。そして、外に出て福音を伝える。しかし、それよりも、はるかにはるかに大切なことは、『これがキリスト・イエスにあって、神があなたがたに望んでおられることです』と、パウロが書きました。あのもっとも多くの福音を伝えたパウロは、その根底に、喜びと祈りと感謝が土台となっていたということがわかります。

彼の手紙は、いつでも、よろこびと祈りと感謝が溢れています。これが神を愛する人々、兄弟姉妹たちのために、神がすべてのことを働かせて益としてくださること、そのことを意味していると、聖書は語っておられると思います。

それぞれ、離れた教会に送られた手紙は、元はひとつの心から出ています。これが、私たちの心からの祈りに対する神の答え――父なる神と御子イエス・キリストと、聖霊、御霊の答え――ではないでしょうか?私たちに、もっともっと幸せになってもらいたい。わたしに会って――主にあって――よろこびに出会ってもらいたいと、聖書は、ただひとつのことを願っておられるのではないかと思わされます。

すべてのことが益であり、すべてのことについて、感謝すること、これがみこころであり、命令であり、神の国の合言葉であると、聖書は語っているようであります。これがイエス様が愛するパウロを導かれたところでありました。よろこびの集い、よろこびの交わりでした。

最後に、パウロが――少し長い箇所ですけど――はっきりと、どのように確信していたか、どのようによろこびに溢れていたか、その箇所を読んで終わりたいと思います。そして、私たちをも、パウロが導かれたところへ導こうとされているのではないかと思わされるのであります。私たちがどんなに力がなくても、いや力がないからこそ、このようなはるかに大きなよろこびに、奇蹟の中に、導き入れようとされているのではないかと思わされます。

ローマ書の8章、少し長いですけども、お読みして終わりにしたいと思います。

ローマ
8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
8:33 神に選ばれた人々(・・・・すなわち、主を愛する人々、主にあってひとつとされた人々、この人々・・・・)を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

キリスト・イエスが、とりなしてくださっている。8章の26節では、御霊がとりなりくださっている。御霊もイエス・キリストもひとつである――同じである――と、この箇所からわかります。

8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。(・・・・ここからが、パウロの確信です。・・・・)死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

私たちも、パウロが導かれたこれらのみ心が示すよろこびの確信に導かれたいと、熱心に祈るなら、聖書、すなわち、神の権威によって、圧倒的な確信を与えてくださらないはずはないと、確信いたします。

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