2021年10月3日日曜日

わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い

わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い
2021年10月3日、町田福音集会
重田定義

ヨシュア
55:8  「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イエス様を信じる私たちは、日々の歩みの中で、しばしば、主のみ心がわからない。いったい、主のお考えはなんだろうと、思い悩んでしまうことがあるのではないでしょうか?しかし、それは今、読んでいただいたみ言葉にありますように、主のお考えは目先のことしか見えない、わからない、私たち人間の考えの及ばないほどの高いものであって、人の頭では到底、主のご計画、お考えを知ることなどできないからなのであります。

このことについては、聖書に数多くの例が記されておりますけれども、今日は、新約聖書に載っている中から、三人の有名な人物――皆様がよくご存じの方々――の例を見てみたいと思います。

最初はバプテスマのヨハネの例であります。

イスラエルは、昔から、繰り返し周囲の強国に侵略されるという苦難の歴史を味わってきました。これは、イスラエルの民が、神様に選ばれた神の民であるにもかかわらず、度々、神様に背いて、偶像の神を拝するという罪を犯したために、神様から与えられた罰なのであります。しかしながら、神様がそのイスラエルの民をお見捨てにならないで、なおも、愛してくださって、預言者の口を通して、イスラエルを救うメシアを起こし、恒久的な王国をこの地に建てると言う約束をなさいました。

バプテスマのヨハネの時代には、イスラエルは、ローマ帝国に支配され、圧政に苦しんでおりましたので、人々は神様が約束されたメシアの現れを、今か今かと、待ち望んでおりました。

そのような時、神様からメシアの道を整える前触(さきぶれ)の使命を与えられたバプテスマのヨハネは、人々に神様に背いた罪を悔い改めるように勧め、ヨルダン川のほとりで、悔い改めのための洗礼を授けておりました。バプテスマのヨハネの名の由来は、ここにあります。

そこに、イエス様がおいでになったのです。バステスマのヨハネは、イエス様を見た途端、御霊の啓示を受け、この方こそ自分たちが長いあいだ、待ち望んでいた救い主、メシヤであると証言いたしました。その彼は、捕らえられ、牢に入れられました。理由は、ユダヤでの領主が、その領主の兄弟の妻を妻としているという不道徳を、彼が攻めたからであります。

彼は、その後、首をはねられて死にましたけれども、獄中でも、イエス様の噂は、彼の耳に入ってきました。しかし、その噂を聞いた彼の心には、疑惑の想いが湧き上がってきたのです。それは、彼が期待していたようなメシヤのわざを、イエス様はいっこう、実行される気配がないからでした。そこで彼は、自分の弟子たちに、次のような質問を託して、イエス様のもとに遣わしました。

マタイ
11:3 ・・・・「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

ヨハネの質問に対して、イエス様は、ヨハネの弟子たちに、次のようにお答えになりました。

マタイ
11:4 ・・・・「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

イエス様は、ヨハネに、『あなたはイスラエルを救う強いメシヤとしてのわたしを期待しているようだが、その思いは、わたしの思いとは違う。わたしはあなたの弟子たちが見たり、聞いたりしているとおり、苦しみ、悲しみ弱っている人、貧しい人を救うメシヤとして、わざを行うために来た。だれでも、わたしにつまずかないものは幸いだ。』このように、おっしゃっているのであります。

そして、冒頭のいちばん最初に読んでいただいた神様のみ言葉、すなわち、『わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。わたしの口から出るわたしの言葉は、必ずわたしが望むことを成し遂げ、私がいい送ったことを成就させる』というその神様のお約束通り、神の御子のイエス様は、父なる神のみことばを成就なさるために、この世に、人の姿を取って、来てくださったのであります。

しかも、それは、イスラエルの民のみならず、全ての民、全人類の神様に対するそむきの罪を神の御子、自らのいのちをもって贖うという到底、考えられないみわざによって、成就されたのであります。まさに、神様のお考えは、私たち人間の考えをはるかに超えた高く深いものでありました。

イエス様のお答えを、バプテスマのヨハネがどう受け取ったか、理解したか、聖書には書かれておりません。しかし、後にイエス様から、『女から生まれた者(・・・・すなわち、全ての人間・・・・)の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした』と――マタイの11章14節に記されておりますが――、そのようにイエス様から称賛されたほどのヨハネですから、彼が、イエス様のお答えを聞いて、主のお考えは、小さな自分の頭では到底、計り知ることができないほど高く、深いものであることを悟り、イエス様につまずいたことを悔い改め、イエス様は必ず、神様のみこころ成し遂げてくださると確信して、よろこんで自分のいのちを主にお委ねして、死んでいったのではないでしょうか? 

次に、ペテロの例を見てみましょう。

イエス様が弟子たちを従えて、ピリポ・カイザリア地方に行かれた時のことでした。イエス様は、弟子たちに、人々は、わたしのことを誰だと言っているのかと、お尋ねになりました。彼らは口々に、バプテスマのヨハネだとか、預言者エリヤ、あるいは、エレミアだとか、あるいは、その他の預言者だとか言っていると、答えました。そこで、イエス様は彼らに、あなたがたはわたしを誰だと思うかと、質問されました。

この質問に対して、ペテロは何と答えたか。あなたは、生ける神の御子キリストです。はっきりと答えました。それをお聞きなったイエス様は、『あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく天にいますわたしの父です』と、彼を祝福されました。以上のことは、マタイの16章に記されております。

【参考】マタイ
16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

そして、イエス様は、続いて弟子たちに驚くべきことを告げられました。それは、ご自分は、これからエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから、多くの苦しみを受け、殺され、そして、三日目によみがえらなければならないということでした。それを聞いた弟子たちは、どんなに驚いたことが想像できます。

そのひとり、ペテロの言ったことと、それに対するイエス様のお答えが、マタイの福音書16章にあります。

マタイ
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

イエス様が十字架にかかられることは、神様に対するそむきの罪に汚れた人間を救う、神様のご計画が成就するためには、絶対に必要なことでありました。必要不可欠なことでありました。しかし、『あなたは生ける神の子、神の御子キリストです』と、はっきり証ししたペテロ、彼の頭では、人類を救う神様の大いなるご計画を計り知ることはできませんでした。

イエス様のおっしゃったことを受け入れられなかったペテロの口から思わず出た言葉が、『そんなことが、あなたに起こるはずはありません』でした。ペテロは、自分は誰よりもイエス様を思っていると自負していたようであります。しかし、その思いは、全く人間的な思いだったのであります。また、同時に、イエス様を殺されたら、自分たちはどうなるだろうという、自分のことを心配する思いもあったでありましょう。

そして、『あなたは神のことを思わないで人のことを思っている』というペテロに対するこのイエスさまの叱責は、また、ともすれば、イエス様を霊的にではなくて、人間的に敬愛するという信仰、イエス様のお考えではなくて、自分の考えを中心とするような誤った信仰に陥りがちな、私たち信者に対する主の戒めと受け止めるべきでありましょう。

このことを通して、私たち信者は、いつもへりくだって、主のお考えは、私たちの考えをはるかに超えた、高く、深いものであることを、強く覚え、自分の思いではなくて、主のみ心だけがなるようにと、常に祈ることが大切だと思います。

三番目に、パウロの例を見てみたいと思います。

熱心なユダヤ教徒で、また、高名な律法学者でもあったパウロは、イエス様をキリスト、すなわち、救い主と信じる人々を、律法を軽んじているとして迫害することに、熱心でありました。しかし、キリスト教徒を迫害するために、ダマスコに向かう途上で、復活されたイエス様から、『なぜ私を迫害するのか』という声を聞いて、改心して、一変して、彼は、異邦人にイエス様を宣べ伝える伝道者となったのであります。

そのパウロは、殉教の死を遂げるまで、都合、三回、大きな伝道旅行をしておりますけれども、ニ回目の伝道旅行の時、主は、彼が行こうとしていた地方に行くことを、二度も、止められたのであります。

使徒の働き
16:6 それから彼らは(・・・・彼らというのはパウロとシラスのことですが・・・・)、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。

彼らは、まず、現在、小アジヤと呼ばれているトルコ地方に福音を宣べ伝えるとしておりました。ところが、聖霊によって、とどめられたのであります。そこで、次に、北の方、すなわち、北海沿岸のビテニヤという地方に行こうとしましたけれども、またも、主の御霊がその計画を禁じられました。

いったい、主のために、自分たちがいのちをかけて福音を宣べ伝えに、その地に行こうとしているのに、なぜ、主は私たちを――自分たちを――とどめられるのか、そのことを彼らは、その時は、全く理解できなかったんですね。主のみ心は、まったく理解できませんでした。

その夜、パウロは幻を見ました。その結果、彼は、なぜ主が自分たちをとどめられたのか、主は、自分たちをどこに遣わそうとされるお考えなのかを、確信することができたのであります。

使徒の働き
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤ(・・・・これはギリシャの北方の地方ですが・・・・)に渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

この伝道旅行の結果、多くの異邦人――ギリシャ人たち――が、福音を受け入れ、マケドニア地方の大都市、ピリピやテサロニケに聖書に知られた諸教会が建てられることになったのであります。

最初に申しましたように、私たち信者は、信仰の歩みの中で、理解できないような出来事、思いがけないような出来事にあったり、あるいは、祈っても、思うような結果が得られないと、主のみ心がわからなくなり、途方に暮れ、思い悩み、はては、主を疑ってしまうような信仰の弱い者であります。そのような疑いや迷いが起こる大きな原因は、私たちが、主に全き信頼を置いていないから、主に完全に自分を明け渡していないから、また、主を第一としていると言いながらも、自分の思いを中心に置いているからであります。

モーセの後継者で、イスラエルの指導者、ヨシュアは、イスラエルのために次のように言いました。

ヨシュア
23:14 ・・・・あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。

もう一回、読みます。『あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。』これは、私たちキリスト者、全てに言われていることなのであります。

キリスト者の信仰の原点であるところの神様のお約束、すなわち、父なる神様から遣わされ、すべての人間の罪を負って、十字架にかかってくださった神の御子、イエス様を救い主として信じ、受け入れただけで、神様から義、すなわち、正しいものとされ、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、神の子供として、天のみ国を相続するという、この神様のお約束は到底、人間の小さな頭では、理解することはできません。

しかし、自分には理解できなくても、私たちのために御子の尊いいのちを犠牲にしてくださるほど、私たちを愛してくださる、全能にして生けるまことの神様のお約束である以上、信じる者の上に、そのお約束は、すでに一つもたがわず、すべて実現したということを、私たちキリスト者は、与えられた御霊によって、心に固く確信しなければなりません。

そしてまた、このお約束は、これから私たちが将来に向かって、天のみ国まで歩む道のりの全てに与えられたお約束であり、また、やがて、まもなく、天のみ国で父なる神様、イエス様に直接、お会いして、そこで永遠に、楽しく、みもとで過ごすことができるというお約束も、既にもう成就したと、私たちは信じるべきであります。

第ニコリント
1:20 神の約束はことごとく、この方(・・・・すなわち、御子イエス・キリスト・・・・)において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。

1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

私たち信者は、信仰の歩みの中で、たとえ、主のお考えが分からなくなるようなことが起こっても、疑うことなく、思いわずらうことなく、ご計画の全てをお考えどおりに成し遂げられる、大いなる全知全能の神様、そして、ご自分のいのちを捨てて、よみがえって永遠のいのちを与えてくださったばかりか、御霊として信じる者の中に住んでおり、日々、これが道だ、これに歩めと導いてくださるイエス様を、ただ無条件に信頼しましょう。そして、間もなく、私たち信者の身体を朽ちないきよい身体に変えて、天のみ国にたずさえ上げてくださるために迎えに来てくださるというご再臨のお約束を、確信と希望をもって待ち望みつつ、その日に備えて、御霊に導かれつつ、よろこびいさんで、信仰の歩みを続けようではありませんか。

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