2011年3月22日火曜日

聖なる神の宮なる教会(三)その上にある信仰

聖なる神の宮なる教会(三)
その上にある信仰
2011年3月22日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エゼキエル
43:1 彼は私を東向きの門に連れて行った。
43:2 すると、イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。

43:4 主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。
43:5 霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。

43:7 その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない。

2011年3月15日火曜日

聖なる神の宮である教会(二)主の取り扱いの目的

聖なる神の宮である教会(二)
主の取り扱いの目的
2011年3月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

ヘブル
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。

2011年3月8日火曜日

聖なる神の宮である教会(一)息子である立場への道

聖なる神の宮である教会(一)
息子である立場への道
2011年3月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エペソ
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

ローマ
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

2011年3月1日火曜日

みからだなる教会(三)

みからだなる教会(三)
2011年3月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一ペテロ
2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。

今、シゲタ兄が読んでもらった手紙を聞くと、ある人は、『大変だ』と、心配するようになるかもしれない。聖書の中で、『主は笑っている』という箇所があるんです。結局、関係ない。こういう手紙を出す人々は、名前を書かないでしょう。そうすれば、初めからもう、無視したらいい。自分の名前を書こうとしなければ、隠さなくてはいけない。そして、隠す者は、成功しないのではないでしょうか。結局、イエス様は、「わたしは、わたしの教会を建てる。」これを本当の意味で信じれば、たとえば、兄弟姉妹に対する批判ですか、悪口は言えなくなる。