2021年7月25日日曜日

ヨルダン川を渡る(市川)

ヨルダン川を渡る(市川)
2021年7月25日、市川福音集会
黒田禮吉

ヨシュア
1:2わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

聖書では、ヨルダン川を渡るということが、大きな意味を持っています。イスラエルの民が、約束の地に入るためには、ヨルダン川を渡る必要があったのです。エジプトの地から出た時以来、約束の地に入ることが、イスラエルにとっての夢でした。けれども、それは、四十年間も閉ざされました。何が、彼らをこれまで阻んでいたのでしょうか?

それは、端的に言えば、不信仰の結果でありました。主ご自身に自分を明け渡し、この方のみによって生きて行く決断ができなかった。そのため、その入り口まで行っておきながら、入れなかったのです。けれども、彼らは、ついにヨルダン川を渡ります。これによって、過去の自分との決別を行ないます。自分に対して死ぬこと――これがヨルダン川を渡る大きな意味ではないかと思います。

司会の兄弟に読んでいただいた箇所を、もう一度、読ませていただきたいと思います。

ヨシュア
1:2わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。
1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

ヨシュアは、主によって、ヨルダン川を渡ることを命じられていました。しかし、どのようにして渡るのかは、示されていませんでした。主はただ、『強くあれ、雄々しくあれ』と、言われたのです。けれども、ヨシュアは、主が大いなること、不思議なことをなされることだけは、信じていました。彼は、少しずつ、神から、これから起こることを示されますが、そのすべてを始めから、具体的に示されることはありませんでした。彼が信仰によって、主から命じられていることを受け取り、そして、前進して行く中で、主が、さらに多くの啓示を与えてくださったのです。

私たちに対しても、主は同じようにされます。神は、初めからは、何も教えられません。けれども、神が命じられたことを、信仰によって受け取ると、具体的な行動の道筋が、少しずつ示されるのではないでしょうか?ヨシュアは、どのようにして、ヨルダン川を渡るように導かれたのでしょうか?今日は、四つに分けて、みてみたいと思います。

第一点は、契約の箱を先頭にするということであります。

ヨシュアは、ヨルダン側の川岸まで来ました。そこで、主なる神の啓示によって、イスラエルの各部族のかしらたちに指示したのです。それは、契約の箱を先頭にして、進まなければならないということです。契約の箱とは、幕屋の中の至聖所に安置されている、神のみ座、そのものを表していました。

旧約聖書のヨシュア記の3章3節から、読みたいと思います。かっこの中だけを読んでみたいと思います。

ヨシュア
3:3 ・・・・「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。
3:4 あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」
3:5 ・・・・「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」

契約の箱が前に進むときに、そこから、約二千キュビト――約900メートルぐらいでしょうか――約900メートル、離れなさいと言っています。それは、第一に、おおぜいのイスラエルの民が動いていくときに、どこからでも契約の箱が見えるようにするためであります。全ての人が、主から目を離さないことによって、行くべき道を知り、ひとつになって、前進することができます。第二は、距離を取っているのは、契約の箱が、聖なるものだからです。主のみ座の栄光が宿っておられるところだからです。

私たちも、契約の箱を見るように、ひとりひとりが、主イエス様から目を離さないことによって、初めて群れとして、前進することができるのではないでしょうか?契約の箱とは、主イエス様ご自身です。私たちが絶えず、悔い改めとへりくだりと、また、尊い血による贖いの中で、近づくことのできるお方であります。私たちは信仰生活において、聖なる神をおそれ、絶えず、飢え渇きをもって、主を求める必要があります。契約の箱を先頭にするとは、結局、主を第一とするということではないでしょうか?

二番目は、身をきよめる、聖別するということであります。

先ほど読みました5節にありますように、『身をきよめなさい』と、ヨシュアは民に命じました。信仰による歩みにおいて必要なものは、聖別、きよめ、分かたれることです。その行動の備えとして、主の前に出て行くことです。聖別とは、自分自身をこの世のあらゆるものから切り離して、神のものとすることを意味します。自分が何をするか、あるいは、しないかについて、決めて行動する前に、主の前に出てゆくのです。それは、実は、主への礼拝と同じことではないでしょうか?

さて、イスラエルの民がヨルダン川を渡って、いよいよ戦いに出て行きます。それは、通常の戦いと全く、性質を異にします。武器や兵器が全面に出るのではなく、主の前に出て行く礼拝行為、そのものが大切であります。私たちは、イスラエルの歩みは、まさに、信仰の歩み、神の御霊によって動いていく歩みであることが分かります。

第ニコリント
10:3 私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。
10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

三番目ですが、祭司たちが、ヨルダン側の真ん中に立つということであります。

ヨシュア
3:8 あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』

主は、祭司たちが、ヨルダン川の中に立つように命令されました。そして、いよいよ民がヨルダン川を渡ります。その時に、何が起こったのでしょうか?

ヨシュア
3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

イスラエルの民は、かわいた地を通り、ヨルダン川を渡り終わったと書かれています。

ここには、この出来事がはっきりと、主の奇蹟であることを、詳しく記しています。刈り入れの間とは、大麦の収穫の時です。この時期、ヘルモン山からの雪解け水が、ガリラヤ湖に入ってきて、ヨルダン川に流れるので、水かさがもっとも増します。水が少なかったから、川を渡ることができたのではないことを、ここで強調しています。

この奇蹟を、自然現象で説明しようとしている人もいるかもしれません。けれども、祭司たちの足が水の中に入ったその時に、川の水がせきをなして立ったというのは、神が直接、介入していることに他なりません。箱をかつぐ祭司たちの足が、水際に浸った時、つまり、彼らが、足を水の中に入れることをしないうちは、川がせきをなすという動きは、一切、なかったのです。これが、信仰の歩みではないでしょうか?

ヨシュアが、少しずつ、具体的なことを主から示されている事実がここにもあります。足が、水に入ったときに、川はせきとなり、出てきたら、水が元に戻りました。ヨルダン川を渡る時、確かに主が、彼らの真ん中におられることが示されました。

契約の箱は、主の臨在を表しています。主が、ともに川を渡り、彼らの道を開いてくださったのです。なぜ、主なる神は、イスラエルの民をよりによって、増水期にヨルダン川を渡るという奇蹟を通して、約束の地へ導くようにされたのでしょうか?それは、約束の地が、主のみわざによって、必ずイスラエルの民の所有となることを確証させる必要があったからではないでしょうか。

四番目になります。四番目は、割礼と過ぎ越しの祭りということであります。

ヨシュア
5:1 ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。
5:2 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」
5:3 そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。

ヨルダン川の西岸にいたカナン人とエモリ人たちは、すっかり、心がしなえてしまいました。おそらく、百万人を超えていたかもしれないイスラエルの民が、一斉に川を渡ってきたものですから、恐怖で縮み上がっています。ですから、これから、彼がすぐに攻め行っても、勝つことができたかもしれません。けれども、主は、そうはされませんでした、主の前に出て行くこと、そのものが目的であるからであります。

私たちは、問題の解決のみを求めて行く傾向がありますが、本当は問題の解決を通して、主ご自身に出会うことが第一の目的であります。そこで、主は、二つのことを命じられました。ひとつは、割礼を受けることです。もうひとつは、過ぎ越しの祭りを守ることです。

割礼とは、イスラエルの民に対して、神が契約を結ばれる時のしるしとして定められたものです。けれども、イスラエルの民が、カデシュで約束の地に、そこから入って行くことを拒んだ事件がありました。カナンの地を探ってきた偵察の者たちが、悪く言いふらしたからであります。その場面をもう一度、見てみたいと思います。

民数記
13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。

イスラエルの民は、動揺して、結局、主の命令を拒んだのでした。

民数記
14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
14:30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。
14:31 さらわれてしまうと、あなたがたが言ったあなたがたの子どもたちを、わたしは導き入れよう。彼らはあなたがたが拒んだ地を知るようになる。
14:32 しかし、あなたがたは死体となってこの荒野に倒れなければならない。
14:33 あなたがたの子どもたちは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、あなたがたが死体となってこの荒野で倒れてしまうまで、あなたがたの背信の罪を負わなければならない。

不信仰によって、イスラエルの民は、四十年間にわたって、荒野をさまよったのであります。ですから、ヨルダン川を渡った新しい世代には、まだ、割礼が施されてなかったのです。そして、主は、この時に、割礼を施すようにと命じられたのであります。割礼とは、体の包皮を切り取るということの背後に、心の包皮が取り除かれることを意味しております。

申命記
10:16 あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

包皮があると、神の御霊が語られているのに、そのみ声に対して鈍くなってしまうと考えられます。ですから、切り取られることが必要であります。心の包皮が切り取られるためには、キリストの流された血が必要です。イエス・キリストが、私たちの罪のために死なれたことを信じることによって、私たちにある罪を切り取り、除き取る力が与えられています。それで、私たちが聖別される、つまり、この世のものから切り離されて、神の所有のものとなることができるのであります。

コロサイ
2:11 キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
2:12 あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。

イスラエルの民は、過ぎ越しの祭における小羊の血を経験し、エジプトを逃れ、紅海を渡りました。しかし、いつしか彼らは、自分の能力と知恵によって生きようとし、また、自分の必要を、神の事柄よりも優先させようとしていました。だから、荒野の生活が必要であったのではないでしょうか?けれども、今、イスラエルの民は、ヨルダンを渡りました。確かに、彼らは自分たちに与えられた神の聖別を、自分のものにする決断をしました。これは、私たちが受ける水のバプテスマと同じであります。

洗礼は、私たちが、キリストと共に死んだことを表します。古い自分が、キリストと共に十字架につけられたことを表します。私たちは、自分の罪に対して、また、自分の肉に対して、死んだのです。そして、水から上がって来るときに、キリストとともに、よみがえったことを表しています。もう古い自分ではなく、新しく造られた者として生きる証しなのであります。

このような決断をした人にとって、神の命令は単純で、そのまま、従えばいいだけのことであります。彼らが行ったのは、ただ、足を踏み入れて、川を渡っただけのことであります。残りは、主が整えてくださいます。必要も力も知恵も、そして、勝利もすべて、主が備えてくださいます。

さて、彼ら、イスラエルの民は、割礼を受けたので、傷を受けています。癒えるまで時間がかかり、その間は、戦うことができません。今、彼らが敵前でこの儀式を行ったということは、敵が攻めてくるかもしれないという恐れや思い煩いを主の前に持って行って、ただ主が命じられたことを行ったのであります。

私たちはどうでしょうか?このコロナの中にあって、どうなるのかという不安や心配で、主が命じられていることを、拒んでいるのではないでしょうか。思い煩いは、主にゆだねましょう。主が、守ってくださいます。ヨルダン川を渡れ――あなたの前に立ち上がっている大きな障害物に立ち向かえと、主は語っておられます。

さて、私たちは、それぞれ、ヨルダン川を渡ったのでしょうか?自分に死んで、主にすべてを明け渡した者でありましょうか。私たちの務めは、信じることです。そして、従順になることです。自分の意志を捨て、神の意思に委ねることです。そうすれば、主は、恵みをあふれるほどに注いでくださいます。

最後に、み言葉を二箇所を読んで、終わりにしたいと思います。みなさん、よくご存知のみ言葉です。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ガラテヤ
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

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