2023年4月9日日曜日

残された命の日数を正しく数える

残された命の日数を正しく数える
2023年4月9日、町田福音集会
重田 定義

詩篇
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
90:11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。

この聖書の一節から、自分の日を正しく数えるということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

自分の日とはいったい、どういうことでありましょうか。それは、自分の人生に残された時間、言い換えれば、この世に残されている自分の命のことであります。しかし、人間は自分の人生に残された命の時間を正しく数えることが、いったいできるのでありましょうか?これに関して、イエス様は次のような例えを話しておられます。

ルカ
12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

この金持ちは、自分に残された命の日数を正しく数えることができたといえるでしょうか。そうでないことは、よくわかります。しかし、この金持ちのように、目に見えるものに頼って、自分に残された命を数えて生きている人のなんと多いことでありましょう。

では、私たち人間は、自分に残されたこの世の命の日数を正しく予測することが、いったいできるのでありましょうか。できません。医者であれば、患者の命があとどれくらいかを予測することが、いったいできるでしょうか。医者でもできません。癌と診断された人が、医者からあなたの命はあと半年ですと言い渡されても、そのとおりにならなかった例がたくさんあることを、私たちは知っています。

このように、ある人の命があとどれくらいかは、誰にも予知できません。イエス様が、ルカの福音書12章25節で、『あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか』とおっしゃっている通りです。ただ神様だけが、その人の命をお決めになることができるのであります。

詩篇90篇3節に、『あなた(・・・・すなわち、神様・・・・)は人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」』このようにありますが、神様が私たち人間に、『の子らよ、帰れ』とおっしゃったときが、私たちがこの世を去るときなのであります。

世界一の知恵者と言われたソロモンは、伝道者の書でこう言っております。

伝道者
3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。

この時とは、神様が定められた時という意味であります。すなわち、私たちのこの世の命は神様によって定められているのであり、人間が決めることではないのであります。

医学の大きな目標は、人間の命をいかに長くするかということです。そして、そのために、老化を防ぐにはどうしたらいいかという研究が行われております。けれども、今日、多くの研究者が、老化は人間の力では制御できないと考えています。その根拠は、老化は遺伝子の中に、時間のプログラム、わかりやすく言えば、一種の時限装置が組み込まれているために起こり、生まれた時から、その時限装置が始動し始めるので、人間の力ではそれを阻止したり、元に戻すことはできないというのであります。

聖書には、人間のこの世のいのちの上限は百二十年と、はっきり記されております。

創世記
6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。

神様は、人間のこの世のいのちは、どんなに長生きしても百二十年までとされたのです。

『人が肉に過ぎない』とは、神様の仰せに背いた結果、神様からいただいた霊が死んだようになってしまったアダムと、その子孫である私たちすべての人間、神様に罪を犯したために、霊が衰えて正しく働かなくなり、肉の思いだけで生きているすべての人間のことであります。

肉に過ぎない人間は、どんなに環境がよくても、どんなに栄養が理想的であっても、これまで百二十年以上、生きた人はおりません。これは老化という時限装置が、神様によって設定されているためであります。そして、神様はさらに細かく、一人一人の命の時限装置をも、設定されているのであります。ですから、百歳まで生きる人も、生まれてすぐに死ぬ赤ちゃんもいるのです。

私たち人間は、自分の力で生きていると思ったり、医者が命を伸ばしてくれると思いがちですけれども、それは間違いです。実は、神様によって、ひとりひとりが生かされているのであります。そして、神様が定められたときが来なければ、誰も死ぬことができないのであります。

このようにして、神様によって作られ、神様によって生かされている私たちが、この世の命をどのように使ったら正しい生き方なのか、それを知ることが、最初に読んでいただきました『自分の命の日数を正しく数える』ことの意味なのであります。

自分に与えられた命なら、自分のものなんだから自由に使ってもいいではないかと考える方も多いと思います。けれども、神様によって生かされているこの世の命を、自分の楽しみを追い求めるために使うことがいったい、自分の命を正しく数えることになるのでありましょうか?

では、自分に残された時間を正しく数えるという生き方とは、いったいどんな生き方なのでありましょうか?そのことを考えるには、まず人間が生きるとは何か、人間が生きるのと動物がいるのは、どこが違うのかということを知る必要があります。その違いは、聖書にはっきり記されております。

創世記
1:26 神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・・」と仰せられた。

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

ここに記されておりますように、第一に神様は、人間をわれわれ、すなわち、神様と御子イエス様に似るものとしてお造りになったとあります。そして、二番目に、ご自分との親しい交わりができるように、人間だけに命の息、すなわち、霊を入れてくださったとあります。これが、他の動物と全く違う点なのであります。

これらのことによりまして、いかに神様が私たちを特別な被造物として愛しておられるかが分かるのであります。このように私たち人間を愛してくださる神様に、私たちが心から信頼して、おゆだねして従うときにこそ、人間の本当の幸せがあり、人間が生きる意味がそこにあるのであります。

神様が最初に作られた人間、アダムとその妻、エバも、初めは、エデンの園で神様に愛された幸せな日々を過ごしておりました。その時のアダムとエバのいのちには、死がありませんでした。ところが、そのアダムとエバが、この木の実を食べれば、神のように賢くなれるというサタンの誘いにかかって、神様から、この木の実だけは食べてはならない、食べると必ず死ぬと言われた戒めを破るという大きな罪を犯してしまいました。

神様は、なぜ人間に、その木の実を食べることを禁じられたのでありましょうか?それは、人間が、神様のように賢くなれば、自分を神と錯覚しておごり昂ぶり、創造主であり、全ての主権者である神様を無視して、わがまま勝手に生き、その結果、神様のお造りになった調和のとれた美しい世界を破壊し、ついには、人間自身も破滅するのを知っておられたからであります。

まさに現在の世界が、そのとおりになっております。人間はただ神さまのみもとで、神様の仰せに従ってさえいれば、神様が喜んで人間を守ってくださるのであり、それが人間にとって、もっとも幸せなことなのであります。しかし、アダムとエバは神様の仰せに背いてしまいました。これが原罪という罪であります。その結果、神様は、彼らをエデンの園から追放され、約束どおり、彼らの命に死が与えられたのであります。神様は、ご自分が戒めに背いたアダムに、次のように仰せになりました。

創世記
3:17 ・・・・「あなたが、妻の声に聞き従い(・・・・これはサタンの誘惑に乗った妻、エバのことです・・・・)、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。

3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。」

しかし、これはアダムとエバだけの問題ではありませ んでした。

ローマ
5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人(・・・・すなわちアダム・・・・)によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。

こうありますように、アダムの罪の性質を受け継いだすべての人間は、生まれながらに、自分の欲、自分の欲するままに生きるという罪を犯すようになってしまったのであります。

神様から離れた人間は、その報いとして、さまざまな労苦を味わわなければならず、また、もっとも恐れる死をも味わわなければならなくなったのであります。人間の不幸の源は、この生まれながらに、神様に対するそむきの罪、原罪にあるのであります。

しかしそのような私たち人間を、神様はなお愛し、哀れまれ、人間の力ではどうすることもできない、神様に対するそむきの罪を、ご自分の独り子の神、イエス様に身代わりを負わせて、十字架にかけられるためにこの世にお遣わしになり、私たちを罪から救い出す、さらに、そのみわざを信じる者に永遠の命を与えるために、御子を死からよみがえらせてくださったのであります。

かつてイエス様に敵対し、イエス様を信じる者を迫害しておりましたパウロは、復活されたイエス様に出会って、自分の罪を示され、一転してイエス様に従うものに生まれ変わりました。そのパウロは、イエス様を信じた者がどうして新しい命に生きるようになることができるか、その理由を次のように解き明かしております。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって(・・・・イエス様のよみがえりのいのちにあって・・・・)新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人(・・・・古い人というのは、かつて罪に支配されていた自分のことを言っております・・・・)がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

このように言っております。そして、このことは、次のようにパウロ自身の信仰の確信として証しをされました。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

このように、自分のために十字架の上で死んでくださったほどに自分を愛してくださったイエス様のために、このイエス様に喜んでいただくために、地上に残された命を生きること、これこそが人間の正しい生き方なのであります。

そして、このような信仰の確信を与えられた者の人生は、まことの喜びに満たされるのであります。たとえ、不治の病気にかかって、余命いくばくもないと知られていても、死を恐れることなく、地上に残された人生を喜んで、希望を持って生きることができるのであります。パウロは、その理由を次のように述べております。

第二コリント
5:1 私たちの住まいである地上の幕屋(・・・・この地上の幕屋というのは、この世に生きている私たちの限られた命の体のことを言っておりますが・・・・)がこわれても、神の下さる建物(・・・・すなわち、イエス様のよみがえりの命に生きる新しい体のことを言っております・・・・)があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの(・・・・地上の・・・・)幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。

ここで、いちばん最初に読んでいただきました御言葉を、もう一度、お読みします。

詩篇
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
90:11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。

生まれながらの人間は、どんなに知恵をしぼって考えても、自分に残されたこの世の命の日数を正しく数えることも、真の知恵の心を持つこともできません。

もし私たち人間が、神様によって生かされている自分のこの世の命を、自分の肉の望むままに使い続けるならば、最後には、その人の上に神様の激しい怒りが、神様の激しい裁きがくだります。ですから、その日が来る前に、一日でも早く、神様の前にへりくだって、『どうか、自分に残された命の日数を正しく数えることを教えてください、そして、私に知恵の心得させてください』と、心から祈り求める必要があります。神様は、必ずその祈りに答えて、正しく知る知恵を与えてくださり、御子イエス様を信じて、イエス様のものとされ、自分に関わるすべてのことをイエス様におゆだねして、イエス様と共に歩むことこそが、自分に残された命の日数を正しく数えることであるということを、教えてくださいます。

どうか、一人でも多くの方が、イエス様を救い主と信じ、受け入れられて、残されたご自分の命の日数を正しく数えながら、希望と喜びに満ちた人生を歩む幸いを得られますように、心からお祈りする次第であります。

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