2021年4月26日月曜日

あなたは隣人になりましたか

あなたは隣人になりましたか 
2021年4月25日、御代田福音集会
菊池 有恒

ルカ
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

兄弟に読んでいただいた箇所から、主の御心をご一緒に訪ねたいと思っています。

律法の専門家が、イエス様をためそうとして、『何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか』と、尋ねました。『律法には、何と書いてありますか』と、イエス様はお尋ねになります。律法の専門家ですから、即座に答えました。『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。『そのとおりです』とイエス様は言われ、『を愛しなさい。自分を愛するように隣人を愛しなさい。このことを実行すればいのちを得ます』と言われました。律法の専門家は、重ねて尋ねます。では、隣人とは誰のことですか?この質問に対してのイエス様の答えが、兄弟にお読みいただいた三十節以降のお話です。

このお話に登場するのは、強盗に襲われた人、通りがかった祭司、同じく通りがかったレビ人、そして、サマリア人、もう一人は、宿屋の主人がいます。この五人で、このお話には、何ひとつ難しいところはありません。

祭司、レビ人、サマリア人。この三人のうち、強盗に襲われた人の隣人になったのは誰だと思いますかと、イエス様はお尋ねになります。律法の専門家の答えは、『憐みをかけた人です』でした。おそらく、誰に尋ねても、答えは同じだと思います。『あなたも行って同じようにしなさい』と、イエス様は言われました。話は、それで終わりです。

私たちも、人が困っている時、サマリア人と同じようにしたいものだと思いますし、『私たちもそのようにしましょう!今日はこれで終わります』と言ってもいいのかもしれません。でも、それではこのお話の奥にある、イエス様のみこころを訪ねたことにならないように思うのです。私は、メッセンジャーの役目というものは、聖書のみことばをとおして、ご一緒に、その奥にあるイエス様のみこころを訪ねること、皆さんがみ心を感じ取るお手伝いをすることだと思っています。

第一コリント
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

ヤコブ
1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

イエス様はなぜ、このような分かりきったお話をされるのでしょうか?律法の専門家と言われる人は、パリサイ派の人で、イエス様をやりこめようと、大勢の中から選ばれて、期待もされてきた、弁の立つ人だったと思います。この人は、イエス様の質問に、おそらくむかついたと思います。答えで、サマリア人と言わずに、『あわれみをかけた人です』と言っているので、その気持ちが分かるような気がします。

また、ご存知のように、レビ人も、宗教上の指導者たちでした。当時、サマリヤ地方は、バール信仰の異教徒の地でしたから、『サマリア人が隣人です』と答えることは、誇り高いパリサイ派の律法の専門家には、屈辱だったと思います。イエス様は、そのことを百も承知で、この人の目を覚まさせようとしたのだと思います。

隣人だったら、互いに愛し合い、助け合う。当たり前のことを、穏やかに語られるイエス様に、律法の専門家のパリサイ人は、この後、黙ってしまいました。イエス様が、『あなたも行って同じようにしなさい』とおっしゃって、このお話は終わっています。

イエス様の『誰が隣人になりましたか?』という質問は、私たちひとりひとりに対するお尋ねでもあります。私たちも、強盗に遭ってひどい目にあった人の隣人は、憐みをかけたサマリア人ですと、誰もが答えるでしょう。それでは、当時の人々が、神である主に誰よりも近い人たちだと思っていた――本人たちもそのことをおそらく、自負していたに違いない――ここに登場する祭司、レビ人、この人たちはいったい、何なのでしょうか?

先程、読んでいただいた26節から29節には、こう書かれていました。

ルカ
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

ご承知のように、ルカは、イエス様の限りないご愛を伝えるルカの福音書を書いた人で――お医者さんだったそうですけれども、確か聖書のどっかに、医者ルカということが書かれていた箇所があったと思います――いずれ、イエス様が人々に伝えた神の愛を、私たちには聖書が伝えてくれています。

私たちがいただいたその神の愛を、どのように、隣人と分かち合うべきかも、どのように実行すべきかも、聖書が教えてくれています。今、お読みした中に、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』と、ありましたが、イエス様は、強盗にひどい目に合わされた人の隣人になったのは誰かと聞かれました。このお尋ねには、ちょっと考えさせられるものがあります。

通りかかった祭司、レビ人、サマリア人、この三人に、強盗にあって半殺しにされた旅人を助け起こして、傷の手当てをし、面倒をみるチャンスは平等にありました。イエス様は、三人のうち強盗にあって、ひどい目にあった人の隣人になったのは、誰かとお尋ねになるのです。誰が隣人かとは、訊かれません。『隣人になったのは誰か』と訊かれるのです。

ひるがえって、私たちはお互いに隣人のつもりではないでしょうか?そのつもりでも、案外、隣人ではないかもしれません。隣人になるのは、決して、簡単ではないようです。愛するとは、人が困っている時に、気の毒だ、可哀想にと思うだけではないことを、イエス様は示しておられるのです。

祭司とレビ人は、いったい何なのでしょうかと、先ほど、言いましたけれども――考えてもみてください――祭司は、もちろんですし、祭司でないレビ人も神に仕える人です。神の愛を教える立場の人です。このふたりは、半殺しに会った旅人を見て、気の毒に思い、『ああ、かわいそうに何とかしてあげたい』と、思わないはずはありません。

この強盗にひどい目にあわされた人を見ると、祭司もレビ人も、わざわざ反対側を通ったと書かれています。それは、『かわいそうに、気の毒に』と思ったことを、暗示していると思います。何も神に仕える人でなくても、私たちでも、同じ場所を通りかかれば、何とかしてあげたいと思うでしょう。しかし、その先が問題なのではないでしょうか?

マルコ
8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

ヤコブ
2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。

愛することは、自分を捨てることです。困っている人を見て、『気の毒に、かわいそうに・・・・』と思う気持ちは、とても大切です。それさえもなければ、論外です。しかし、同情心だけでは、愛していることにはなりません。信仰の愛は、自分を捨てる愛です。最高の愛は、自己犠牲です。他人のために、自分を捨てることができるかと、問われているのです。

私たちの罪の贖いのために、自分を捨てて、十字架につかれたイエス様を思い出してください。自己犠牲を実行できるかが、私たちの問題なのです。イエス様は、ご自分を捨てて、私たちのために犠牲になられたのです。

私たちは、人から裏切られることがありますけれども、イエス様から裏切られるということは、決して、ありません。それは、真(まこと)の愛は、決して、裏切ることがないからです。ですから、いつでもどんな時でも、イエス様に愛されている確信を持つことができるのです。

祭司もレビ人もサマリア人も私たちも、『この旅人は、ひどい目にあって、かわいそうに、気の毒に・・・・』でとどまっていたら、私たちに愛はありません。同情は、愛にはなれないのです。私たちは、同情心を持つと、それだけで、自分には、なんとなく愛があるように思いがちです。ですから、イエス様は、『誰がこの傷ついた旅人を愛しましたか?』とはお尋ねにならないのだと思います。『この人の隣人になったのは誰か・・・・』と、お尋ねになるのです。とても意味深いお尋ねです。考えさせられます。

着物を剥ぎ取られ、傷ついて、死にそうになっている、絶望のどん底のこの旅人が、愛を確信できる人は誰か?この傷ついた旅人にとって、まことの隣人になったのは、誰だと思いますか?と、きかれるのだと思います。隣人になることは、決して、簡単なことではないようです。

あなたが通りがかりの人だったらどうしますか?もし、あなたが、強盗にひどい目にあわされた本人だったらどうですか?私たちに両方の立場から、愛とは何か、考えなさいとおっしゃっているのではないでしょうか?

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

私たちは、イエス様がなさったこの話を読むと、自分だったら、このひどい目にあった旅人を助けずにはいられない。道の反対側を通って、立ち去るようなことはできないと、誰も思うと思います。そう思うのは、ごく普通です。でも、本当でしょうか?何回も言いますけれども、祭司もレビ人も、神に仕え、主の教えを人々に伝える立場の人です。熱心な信仰者と思われている人たちです。もっと言うと、この人たちは、主の証し人のはずです。自分は信仰者だと思っていても、自分を優先する自己中心のものには、本当の愛はないことを、イエス様は鋭く、指摘をしておられるのです。

サマリヤ地方は、先ほど言いましたけども、異教徒の地でしたから、イエス様も一時期、足を向けられなかったほどでした。マタイの10章の5節で、イエス様は、十二弟子に、『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません』とさえおっしゃっています。

当時、異教礼拝の伝統のあるサマリアは、エルサレムを中心としたユダヤ人と宗教上の対立があり、両者ともお互いに、認めませんでした。しかし、まもなく、イエス様は、サマリアも導かれます。

ヨハネ
4:3 主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
4:4 しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
4:5 それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」――ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。――
4:10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
4:12 あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

イエス様は、水を汲みに来たサマリアの女をとうして、信仰をお伝えになったのです。このサマリアの女は、主の証し人になったのです。

話をもとに戻します。主からもっとも遠い存在である異教徒と思われているサマリア人が、真の愛の者であったというこのお話は、律法の専門家にとって、どれほど腹立たしかったか、想像を超えています。私たちも、この話を単なるお話として受け止めてはいけないでしょう。

私たちもこの時、イエス様のお話を、律法の専門家に並んで聞いていたのです。いいえ、この出来事、その時、その道を歩いていたもう一人の旅人かもしれません。第三者ではありません。私たちも、当事者であることを忘れてはいけないのです。

私たちは、自分のことを冷静に見ることが、まことに不得手です。いつも、自己憐憫と自己嫌悪の狭間に揺れています。この世のことに目を奪われ、自惚れたり落ち込んだりしがちです。本当に不安な、不安定な私たちです。しかも、都合の悪いものは見ないようにする御都合主義です。これは、わがままであり、甘えでもあります。いいえ、それは、罪なのです。信仰に立ち返らなければ、自分のまことの姿は見えません。平安もありません。

イエス様は、お話の終わりに、『あなたも行って同じようにしなさい』とおっしゃいました。先ほどもふれましたが、祭司もレビ人も、この旅人を見た時、『気の毒だ、可哀想に何とかしてあげたい』と、思わなかったはずはありません。そこまでは、サマリア人と同じだったでしょう。この時代のことですから、三人は、観光や遊びで、エルサレムとエリコのあいだを歩いていたとは考えられません。三人とも、用事があって、旅をしていたと思います。それだけに、みんな、先を急いでいたと考えても、間違いはないと思います。

『隣人をあなた自身のように愛せよ。そうすれば、いのちを得ます』と、27節、28節で、イエス様はおっしゃっています。仮に、ひどい目にあって傷ついて倒れているのが自分であって、それを離れたところから、別の自分が見ていると想像してみます。大変な目にあっているのは自分なのですから、別の自分は、思わず駆け寄って、必死になって助けるでしょう。

他人のことになると、そう簡単にはいきません。自分に急ぎの用事や家族のことで頭がいっぱいの時は、どうしても自分の都合を優先します。だからといって、私はこのことを、非難したり、批判したりすることはできません。もともと、それが人というものです。しかし、隣人をあなた自身のように愛せよと、イエス様がおっしゃる時、『自分の都合が許す時は・・・・』とは、ひとこともおっしゃっていません。無条件なのです。

申命記
4:2 私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。私があなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令を、守らなければならない。

イエス様は、何ひとつ負い目のない私たちのために、私たちの罪を贖うために、ご自分を犠牲として、十字架上の死を選ばれました。神の御子でありながら、人となって地上に来られ、無条件に、私たちひとりひとりと同じになってくださいました。

祭司とレビ人の心のうちについては、聖書は、何も語りません。書かれていません。自分の都合を優先したから、道の反対側を通り過ぎたのです。神に仕える役目を持った祭司とレビ人は、自分を犠牲にして愛する者にはなれませんでしたけれども、反対に、異教徒のサマリア人、蔑まれているサマリア人が、半殺しにされた旅人を助けました。自分の都合を捨てて、愛することができたのです。隣人になったのです。しかも、宿の主人にお金を置き、『もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います』と言って、立ち去りました。

イエス様は、『あなたも言って同じようにしなさい』と言われました。これは他でもありません。私たちひとりひとりに向かって、おっしゃっているのです。

『私が帰りに来てかかった費用を払います。』これは、イエス様が再び来られる、再臨の日を暗示しているように、私には思われてなりません。その日には、永遠のいのちに導くとおっしゃってくださっているのです。

私たちは、どうしても自分に頼って、日々を歩もうとしがちです。しかし、自分の力などは、何の役にも立ちません。私たちは、罪のうちに死にかけているような――今日のお話に出てきた――半殺しになった旅人のようなものかもしれません。私たちは、イエス様のご愛にすべてを委ねるしか立ち行かない、このサマリア人に助けられた旅人なのです。

今日、引用させていただいたこのお話を聞いて、皆さんのうちにおイエス様のみ心がどのように響いているか、私にはわかりませんけれども、私には、自分を犠牲にしても、愛を実行するこのサマリア人は、私たちのためにご自身を犠牲にされた、そして、再び来ることを約束された、まことの隣人、イエス様、そのものだと思えるのです。

私たちも、自分が苦しんでいる旅人だとしたら、通り掛かりの祭司だとしたら、そして、サマリア人だったらどうするだろうと、それぞれの立場に自分を置いて、み心を尋ねると、人を愛するとはどういうことか、隣人になるとはどういうことか、私たちの心の耳の奥に、イエス様のみ心が響いてくるのではないでしょうか?

第一コリント
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
13:6 不正を喜ばずに真理を喜びます。
13:7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。

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