2020年11月30日月曜日

イエスの救い(四)進歩への道「計算すること」

イエスの救い(四)進歩への道「計算すること」
主は生きておられる、55号、2020年
ゴットホルド・ベック

ダビデは詩篇で次のように告白しています。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1~2)

ヨハネは「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(1ヨハネ1・7)と書き記しています。

この二つのみことばを読む時、主イエス様の血潮がどれほど尊いものか、しみじみとわかります。私たちは主イエス様の血潮の尊さを、さらによく知り、もっと感謝したいものです。

本日は、ローマ人への手紙6章1~11節を基にして、進歩への道「計算すること」についてご一緒に考えてみたいと思います。

2020年11月22日日曜日

わたしもその中にいる

わたしもその中にいる
2020年11月22日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

マタイ
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

読んでいただいた箇所は、皆さんよくご存知の御言葉であり、本当に励まされる聖書の約束ではないかと思います。私たちは、この御言葉を礼拝や祈り会、あるいは、兄妹姉妹との交わりにあてはめます。そして、極めてわずかな人数の集まりの中にも、主が共にいてくださる。だから、心をひとつにした祈りはかなえられるという励ましの約束として、読んでいます。しかし、この箇所を、聖書の文脈の中で考えるならば、もう少し限定した話になるのであります。今日は、そのことを初めに考えてみたいと思います。

2020年11月21日土曜日

しばらくするとわたしを見る

しばらくするとわたしを見る
2020年11月22日、秋田福音集会
岡本 雅文

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。

今、読んでいただいた御言葉は、先週、吉祥寺の集いで、最後にお読みした箇所のすぐ後に続く御言葉であります。イエス様が、十一人の弟子たちと共に最後の晩餐を終えて、弟子たちのために、父なる神に祈ってくださった、最後の祈りです。その祈りの最後の最後の数カ所であります。

2020年11月15日日曜日

実験より出ずる信仰

実験より出ずる信仰
2012年11月15日、吉祥寺福音集会
岡本 雅文

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

本日は、人間にとって、人にとって、どうしても必要なことについて、兄妹姉妹がよく知っておられる基本的な福音に、ご一緒に思いを馳せてみたいと思っています。ヨハネの3章の16節、有名なこのみ言葉は次のように告げています。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

人間にとって、すなわち、私たちにとって、どうしても必要なことは、真の神、御子イエスキリストを信じ、受け入れることであります。この箇所から、神様は、全ての人が救われてほしいと、願っておられることがわかります。『ひとりとして滅びることなく』と書かれているからであります。また、ヘブル書、1章では、神はこの福音を、よき知らせをどのように私たちに伝えてこられたかが告げられています。

2020年11月8日日曜日

神の選びと祝福

神の選びと祝福
2020年11月8日、市川福音集会
黒田 禮吉

ローマ
9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
9:12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。


今日、兄弟に読んでいただいた箇所は、いったいどういうことなのかと、みなさんもお思いになる箇所のひとつではないかと思うんですね。子供たちが生まれる以前から、神の選びによって、兄は弟に仕えると告げられたとあります。そして、神である主ご自身が、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあります。このような神の選びの根拠とは、いったい何なのでしょうか。人間的な考えでは、理解できません。パウロは続けて、神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありませんと語りました。