2023年6月5日月曜日

苦しみを平安に変える秘訣

苦しみを平安に変える秘訣
テープ聞き取り
ゴットホルド・ベック

出エジプト記
15:22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
15:23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。
15:25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」
15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

イザヤ
38:17 ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました。あなたは私のすべての罪を、あなたのうしろに投げやられました。

生ける神は苦しみを平安に変えることがおできになります。

私たちは皆、いつか将来、次のように言うことができるでしょう、「主のあらゆる導きは完全でした」と。

偶然は存在しません。いわゆる荒野の経験、すなわち、理解することのできないような試練を通して、私たちは、私たち人間の中に何があるかを知ることができるようになります。そして、このような試練を通して、私たちは主なる神の全能、愛、恵みを、さらにいろいろな形でよりよく体験できるようになります。

すべてを環境のせいとか、他の人のせいににするのではなく、主の御手から受け取る者は幸いです。

私たちの主なる神はすべての背後に立っておられ、少しの間違いもなさいません。

イスラエルの子たちもまた、マラに行ったのは、決して偶然ではありませんでした。主ご自身が彼らをそこへ導いてくださったのです。そして、主はお導きになるときにいつも、はっきりとした目的を持ち、はっきりとした目標を追求なさいます。

イスラエルの民が大変な苦しみを味わわなければならなかったことは、主なる神のご計画でした。すなわち、彼らはそれを通して失望を経験しなければなりませんでした。しかし、彼らはまた、主なる神のみわざをも経験しました。主なる神は、マラの苦い水を少しだけ甘くなさるわけではなく、全体をあまい水に変えることがおできになるのです。言い現わすことのできないほどの大きな激しい苦しみは、救いと平安となるべきです。

人生とはいったい何なのでしょうか?それは、高揚と落胆、喜びと悲しみ、祝福と呪いの繰り返しではないでしょうか。主なる神は、私たちが主なる神の喜びと平安に満たされ、主の光の中に生きることを望んでおられます。そして、実際、私たちは皆、しばしば、自分自身のことを中心に考えてしまい、主の働きの妨げとなってしまうことを経験します。しかし、主は、私たちが理解できない多くのことを赦しておられます。それにもかかわらず、全ては私たちにとって最善となるよう、また、主の栄光のために配慮されています。

私たちは、喜びと歓呼をもって夜、眠りに就きますが、次の朝、電報が来て、全てが壊れてしまうというようなことがあるかも知れません。もはや日の光を見ることができず、全ては厚い闇の中におおわれてしまうかのようです。すなわち、そのとき私たちはマラに来てしまったのです。

モーセは、たいへんな課題を克服しなければなりませんでした。というのは、二百万人以上の人たちが、モーセに信頼していたからです。彼らは皆、エジプトから引き出され、主なる神のあがないを経験し、流された血、過ぎ越しの小羊の血の価値を知っていました。彼らは信者たちでした。救われた者でした。その信者たちを、信仰的に、霊的に導いて約束されたカナンの地に入るようにすることが、モーセに与えられた使命でした。

イスラエルの民族が、紅海を通って神の大いなる奇跡的なわざを経験したとき、例えようもないほどの歓呼の声があがり、彼らは喜びのあまり踊りだし、出エジプト記15章に書かれたモーセの歌をもって主の勝利を喜び祝いました。

しかし、こうした主のすばらしいみわざを経験したあとで、彼らは三日間の試練の時をむかえました。すなわち、一滴の水もない生活が始まったのです。水のない、憩い場のない、荒野での三日間は、決して簡単ではありませんでした。しかし、突然、彼らは待ち望んでいた水を見ました。「水だ!水だ!」と多くの人々が喜びながら叫んだことでしょう。彼らは、気持ちも楽になって大喜びで水のところに駆けよりました。しかし、何とがっかりしたことでしょう。それは苦くて飲めないような水だったのです。

喜びは悲しみ、失望、つぶやき、落胆に変わりました。しかし、私たちはこのような状態を単純に過去に起こったこととして片づけてしまうのは明らかに間違っています。過去の歴史的事実もまた、私たちに何かを語っているはずなのです。

ローマ
15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

第一コリント
10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするため、マラにおけるイスラエルの民の経験を通して、主が私たちに何を教えようとしているかを問わなければなりません。それについては、四つの点をあげて考えることができるでしょう。

(1)予想すべき試練
(2)避けるべき危険
(3)取るべき態度
(4)適用さるべき万能薬

(1)予想すべき試練


疑いもなく、私たちは誰でも皆、マラの経験を知っています。すなわち、希望から外れてしまったり、失望、落胆させられたり、全ての希望を私たちから奪ってしまうような経験がここで言うマラの経験なのです。

箴言
14:10 心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない。

「だれでも自分の苦しみや悩みをもっており、いろいろな問題で弱り果て、出ることも入ることも分からないような状態に置かれるという経験をもっているはずだ」と、聖書は言っています。

あなたは今、まさにそうしたマラの中にいるのかも知れません。悪魔はあなたにささやくかも知れません。「あなたが何をしても結局、無意味なのです。あきらめなさい。あなたは望みの光を全然見ることができないのです。」人間的に見るならば、そこには何の望みも無いのです。しかし私たちは、「人生とはそういうものだ」という事実を避けることができません。誰一人、マラを避けて通ることはできないのです。

主なる神ご自身も、神の民をマラへと導きました。主なる神はあなたをもマラ、すなわち、逃れ道の無い状態に導き入れるでしょう。しかし、「偶然は存在しない」ということを覚えてください。主なる神ご自身が、御手のうちに手綱を持っておられ、それを他の誰にも渡しません。

おそらくあなたは、今まで大切にされたことでしょう。すべてのことはうまく行き、あなたは、それほど大して困難なことを経験しなかったかも知れません。しかし、困難はやって來るでしょう。それはひょっとすると明日かも知れません。あるいは、来月かも知れません。あるいは、三年後かも知れません。これは悲観論とは関係ありません。それは神のみことばの教えなのです。誰もマラから逃れることはできません。

次のように言う人たちがいます。「救われる人は、もはや何の悩みも苦しみも問題も持っていません。」と。しかし、愛する兄弟姉妹。それは根本的に間違っています。主が私たちを試練に会わせ、清めることができるように、悩みはたくさん存在しています。すなわち、これらの悩みは、そもそも信仰者になるときにはじめて始まるのです。キリスト者の人生は、いつも嬉しくて嬉しくてしかたがないという人生ではありません。主は言っておられます。「この世には悩みがある。」と。

ヨハネ
16:33 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

「あなたがた救われた人々は、世にあっては悩みがあります」と主は言われたのです。また、ペテロは証ししています。

第一ペテロ
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

ヘブル
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:8 もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

「主はその愛する者を懲らしめます」と書いてあります。すなわち、懲らしめられること、マラへと導かれることは、私たちが神に愛された者であるということの証明なのです。私たちは、主に関心を持たれているのです。主は、私たちのことを配慮しておられます。真の信者は誰でも、困難な試練を通って主のあとに従うようになるのです。私たちにこうした苦しみや悩みが無いとするならば、私たちは本当に主を愛し、主をより良く知りたいと思っているかどうか、疑わしいものです。

出エジプト記
13:18 それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた。

なぜ神はまわり道をさせたのでしょうか?なぜ神の民は荒野を通らなければならなかったのでしょうか?なぜ救いに与った者、主に愛されている者がマラへ行かなければならなかったのでしょうか?その理由は出エジプト記に与えられています。

出エジプト記
15:26 そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」

心のなかにあるものは明らかにされるべきです。そのために荒野の経験はどうしても必要なのです。

申命記8章2節は、私たちの問に対して、もう一つの光を投げかけてくれます。

申命記
8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

主は私たちを悲しませるために試練を与えたり、困難を許したりなさるのではなく、私たちを謙遜にするため、また、心の奥底にあるものを天が試すために、それらのことをなさるのです。私たちが本当に、主にとどまるかどうか、私たちが本当に、主を愛するかどうか、また、どんな代価を払っても、主に従うかどうかが必ず明らかになるはずです。しかし、主はただ単にマラへ導くだけではなく、さらに、エリムへも導かれます。

出エジプト記
15:27 こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉・・・・があった。

主がお与えになり、お許しになる試練は非常にいろいろな種類のものがあります。イスラエルは飲むことのできないほどの苦い水を経験しただけではなく、水が全然、無かったこと、パンが一切れも無かったことをも経験し、敵から攻撃された経験もしました。

主が私たちにお与えになる試練はいろいろあります。それらはしばしば、ほとんど耐えられないほど、厳しいものです。イスラエルにとってマラは”困難な経験”でもありました。

人は誰でも、水を必要とします。しかし、三日間ものあいだ、水を求め続け、見つけたと思った時には、そしてまた、実際にその水を見て飲もうとしたとき、その水はとても飲めないほど”苦い水”であることが分かったのでした。私たちは次のことを決して忘れてはなりません。すなわち、「私たちもまた、試練を受けなければならない」ということです。

試練は、私たちに対する主の愛の証明です。もし私たちが試練を通らないで簡単な楽な道を選ぼうとするならば、それは、私たちにとって決して好ましいものではなく、むしろ気の毒なことです。私たちの経験がどのようなものであろうとも、私たちは次の態度を取るべきです。すなわち、「主よ、どうか引き続き私に臨んで働いてください。あなたのみこころだけが行われますように」と。

私たちが理解し難い苦しいこと、すなわち、マラの経験をするとき、私たちの反応が問題となります。なぜなら、どうしても避けなければならない危険が存在するに違いないからです。これが私たちの第二番目の点です。私たちの避けるべき危険について考えてみましょう。

(2)避けるべき危険・・・・つぶやくこと。


私たちが避けるべき危険について考えて見ましょう。イスラエルの民がマラへ行き、恐ろしい失望をしたとき彼らの反応は全然だめでした。

出エジプト記
15:24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

つぶやき、心の憂さ晴らし、信頼しなくなる、神の民は度を失いました。イスラエルの民は神の僕(しもべ)、モーセに対してつぶやき、そのことによって、実際には神ご自身に対してつぶやくことによって、心の憂さ晴らしをしました。つぶやく者はもはや信頼しません。外部の事情によって動かされる者は簡単に度を失います。

イスラエルの人たちは、彼らを解放してくださった力強い主に対してほめ歌を歌いました。しかし、そのすぐあとで彼らは完全に打ちのめされ、主に対して不平不満をつぶやきました。私たちもこのようなイスラエル人たちと同じではないでしょうか?

主は、私たちが理解できない苦しみを経験することを許しておられます。私たちの心の中が夜、すなわち、暗嘆となるのは、いかに容易く起こることでしょうか。私たちは、絶望の淵に容易く立たされるのです。しかし、主を見上げる者は、マラからエリムへ進んで行くこと、すなわち、たいへんな苦しみを通して、全く新しく変えられることを経験できます。すなわち、私たちは新たなる使命、新たなる奉仕を与えられます。不信仰は私たちをつぶやきや反発へと導きます。目に見えるものに支配される者は、とんでもない方向に行ってしまいます。

苦しみや悩み、多くの問題、理解できない導きを見る者は自己憐憫に陥ります。私たちはつぶやき、次のように言い始めます。「主が私たちに飲める水を与えることがおできにならなかったのだろうか?」「主がこのこと、あのことをやめることがおできにならなかったのだろうか?」「主がなぜ守ってくださらなかっただろうか?」

もちろん主はおできになったでしょう。主にとって不可能なことは何一つありません。問題は、信仰者が本当に主に信頼しなかったことだったのです。主はいつも信仰者の近くに居られ、助けたいと思って居られ、ご自身を啓示したいと思っておられ、祝福したいと思って居られました。

私たちが試練に会うとき、私たちの反応はどのようなものであるべきでしょうか?私たちの上に困難が襲いかかり、逃れ道が見えないときはどうでしょうか?私たちが苦しいマラの状態に置かれたとき、そして、どうなるのか、本当に分からない時にはどうでしょうか?そこで、私たちは、第三番目の点について考えたいと思います。すなわち、取らなければならない態度について考えてみましょう。

(3)取るべき態度・・・祈る


私たちは、「避けるべき危険はつぶやくことである」ということを見てきました。私たちは、つぶやくことによって、少しも前進しません。全てが途方に暮れるような状態、また、あらゆる反発は、私たちの不信仰のしるしです。私たちは、試み、すなわち、つぶやいたり、反発したりする誘惑に対して、どうすれば勝利をもって立ち向かうことができるのでしょうか?それが問題です。

私たちが読んだ聖書の箇所には、次のように記されています。「民はモーセに逆らってつぶやきました。しかし、モーセは主に叫びました。」

「しかし、モーセは主に叫びました。」、これこそ勝利の秘訣です。モーセは、主に叫んだのです。モーセは、怒って人々を叱りつけることをしませんでした。モーセは、次のように言うことができたでしょう。「どうか、愚かなことをしないように。主なる神を信じなさい。主は今もなお、何でもおできになるからです。主は決して来るのに遅すぎるということはありません。主にとって不可能なことは何も有りません。」

モーセは、人間を叱る代わりに、主のみもとに行き、全てを主に委ねました。また、モーセは、次のように言うこともできたでしょう。「もう十分です。私はあきらめます。自分勝手に、したいことをしなさい。」また、モーセは主に向かって次のように言うこともできたでしょう。「おお、主よ。私には荷が重過ぎます。二百万人もの世話をするのは大変です。」

しかし、モーセはそのような態度を取りませんでした。モーセは、精神的な重荷を持ちながら主のところに行きました。そして、愛するみなさん、それによって、問題は解決されてしまっていたのです。というのは、主は祈りを必ず聞き届けてくださるからです。御名のゆえに主は答えてくださり、ご自身を啓示してくださるのです。自分の重荷をもって主イエスのみもとに行き、その重荷を主に委ねることのできる人は本当に幸いです。

ヤコブ
5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

ここで、ヤコブは次のようには言いませんでした。「あなたがたの内に苦しんでいる人がいるならば、医者に急報しなさい。」あるいは、「長老を呼びなさい。」誰でも分かることは、「祈る」ということです。苦しんでいる人がいるなら、その人は試練にあっているのであり、別の表現をすれば、先ほど述べたマラの状態にいるのであって、つぶやく全ての理由を持っているでしょうが、その人は、主に呼び求めてください。

私たちはどのような経験をしようとも、まず第一に、主を尋ね求め、主が配慮してご栄光を現してくださることがおできになるように、全てを主に委ねてください。サムエルの母、ハンナも、マラの経験を持ちました。聖書は彼女が、「心を痛めていた」ことを述べています。

第一サムエル
1:10 ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

たしかに、彼女は苦しみましたが、諦めませんでした。彼女は、全てを主に委ね、祈りました。これこそ、勝利の秘訣です。主のみもとに行く者は捨てられません。その人は神の偉大な解放を経験します。

エリシャもまた、一人のやもめとともに、マラの経験をしました。彼女が預言者に、「私の息子が亡くなりました」と言いました。このシュネン人の女がいかに苦しんだか、私たちは、想像できるでしょう。エリシャはこの苦しみ悩んでいる、シュネンの女を、もはや見ることができないほどでした。そのときエリシャは、いろいろな慰めの言葉をかけようとはしませんでした。

第二列王記
4:33 エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。

その結果、主は死んだ子を生き返らせ、栄光を現してくださいました。私たちが苦しいマラの状態に置かれ、試練にあるとき、祈ることこそ勝利の秘訣なのです。ヒゼキヤ王は、一通の驚くべきひどい手紙を受取ました。しかし、彼はそのことを怒ったり、不満を言ったりしませんでした。また、その手紙を公に見せたり、苦情を言ったりしませんでした。ヒゼキヤは何をしたのでしょうか?

イザヤ
37:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。

主に至る戸は、いつも開かれています。主は、私たちが私たちの問題と悩みをもって主のみもとに行き、主に信頼することを待っておられます。ヒゼキヤは、主の前に進み出た。私たちは、問題や悩みをもって主の前に行き、主に呼び求めることこそ大切です。主は奇蹟を行う神です。主にとって不可能なことはひとつもありません。

主なる神に非常に忠実に仕えたダニエルは、絶望的な状態に置かれたことがありました。ダニエルの敵対者は、王に嘆願し、一か月以内に王ではなく、神に願い求める者は皆、ライオンの穴に投げ込まれるべきであるという、変えることのできない法律を発令するよう迫りました。

ダニエルはその時、何をしたのでしょうか?ダニエルは怒って、王のところに行ったのでしょうか?ダニエルは、敵の卑劣なやり方に対して、怒ったのでしょうか?ダニエルは、大勢の友だちを呼び集め、逃れ道を求めたのでしょうか?その内の何一つ、彼はしませんでした。

ダニエル
6:11 すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。

6:10 ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

置かれている絶望的な状態を知りながら、彼は、「感謝した」とあります。すなわち、ダニエルは法律によって許されていないことをしたわけですが、その時、彼は主に叫び祈り、全てを主に委ねました。だから、主に感謝することができたのです。

ダニエルは意識的に、全ての事柄を主の前に申し述べました。ダニエルは、主なる神が必ずみわざを為していてくださると確信していました。このような信頼は、決して失望させられません。不可能と思われたことが起こったのです。すなわち、ライオンはダニエルに敢えて触れようとはしませんでした。信じられないようなことですが、本当だったのです。私たちの神は生きておられます!

主なる神は、主に避け所を求める人たちの人生において、主が全能者であられることを現してくださいます。

無実の罪で牢獄に入れられたパウロとシラスも、同じ態度を取りました。彼らは鞭打たれ、凶悪犯罪者のように取り扱われました。しかし、彼らは決して、反抗的な態度を取りませんでした。また、彼らは、なぜ神はそんなことを許しておられるのですか、私たちは主に仕えただけなのに、許し難い暴挙ではないですかとは言いませんでした。

使徒の働き
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、・・・・

彼らはなぜそのように導かれたのか、理解できませんでした。しかし、神は決して間違いをなさらない。このような導きも、私たちにとって最善の益となるに違いないということを知っていました。ですから、彼らは主に祈りつつ、賛美の歌を歌うことができたのです。

モーセの状態も、同じように絶望的な状態でした。しかし、モーセは祈りました。主に叫びました。モーセは全ての悩みをもって主のところに行きました。そこで主は答えてくださいました。

出エジプト記
15:25 モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示された

木を示すことはモーセの祈りに対する神の答えでした。祈る者は以前に見たことのないものを見ます。主は祈る人にご自身を啓示なさいます。苦しんだ苦しみは、いかにして平安に変えられるのでしょうか?主が示された木によってなのです。

人間は絶望的な状態、苦しい状態において、いつ主に叫んでも、その人たちは主が聞いてくださるだけではなく、必ず叶えてくださることを経験します。主は大いなるみわざをなさってくださり、その状態をだけではなく、人間の心をも変えてくださいます。モーセは主に叫びました。すると主は、モーセの願いを聞き届け、問題全体の解決として、一本の木を彼に示しました。しかし、それは何を意味しているのでしょうか?そこで私たちは第四の点について考えることが必要です。

(4)適用さるべき万能薬・・・主イエス様と主の成就してくださったみわざ


万能薬はどんなことにも効き目があり、いつでも適用されるべき薬です。モーセに示されたこの木は疑いもなく、主イエス様ご自身です。この木が苦くて飲むことのできないマラの水に投げ入れられると、すべての問題が解決され、甘くなって飲めるようになります。旧約聖書においては、約束された救い主イエス様について次のように述べられています。

エレミヤ
23:5 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。

この預言で約束されたみことばは、主イエス様にあって成就されました。主イエス様は、罪の大問題を解決してくださいました。

第一ペテロ
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

そして、自分から十字架において、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。『キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは癒されたのです。』もちろん、若枝が木の一部であることは言うまでもありませんが、その若枝とは主イエス様のことを意味しているという点に注意してください。

しかも、救いのみわざは主イエス様が木で作られた十字架に架かられたことによって成就されました。したがって、ここでいう木とは、まず第一に、主イエス様ご自身のことを言い、第二に主イエス様によって成就された救いのみわざを意味している訳です。ここで覚えていただきたいことは、私たちに何が起ころうとも、私たちに悩みがいかに大きなものであろうとも、万能薬はイエス様と主の成就してくださったみわざであるということです。

イエス様は苦しみと死を通して、永遠に救われる道を開いてくださいました。主イエス様は大祭司として瞬間瞬間、どのような一瞬であっても、私たちのことを覚えてくださり、私たちのために弁護してくださり、私たちのために働いてくださるのです。

おそらく、あなたは今、途方に暮れた状態に置かれているかも知れません。もはや、何の望みもないかも知れません。確かにそのような状態で、不平や不満を言ったり、自分の殻に閉じこもってしまうことは理解できますが、しかし、それはあがなわれ、解放される道ではありません。私たちが、私たちよりも遥かに苦しまれ、底知れぬ深みを通って行かれた主イエス様を見上げなければなりません。

私たちの主は、苦しんだ苦しみを味わってくださいましたが、その結果は、何だったでしょう。比類なき救いでした。全人類の罪の問題は解決されました。サタンは力を失い、死の力を奪われました。私たちは、私たちが皆、いかなるマラの経験に対しても、それが、どれほど私たちを苦しめ、落胆させようとも、そのことに対して、いつか必ず主に感謝できると確信しています。主イエス様が十字架につけられ、捨てられ、呪いとなられたことによって、主なる神は最大の勝利を勝ち取られました。

外側を見ると決してそのようには見えず、悪魔が勝利したように見えました。私たちもまた、何度も次のように思うかも知れません。それは悪魔の勝利ではないか?どうして神はそんなことを許したまうのか?

私たちは、万能薬を適用しなければなりません。私たちは、木を苦い水の中に投げ入れるべきです。すなわち、ありのままの状態で私たちの悩み全てをもって、私たちは十字架につけられた方、すなわち、主イエス様のみもとに行こうではありませんか。主は、苦しんだ苦しみを平安と祝福に変えてくださいます。私たちは、完全に打ちのめされた状態から、溢れるばかりの喜びに至ります。パウロは、木を苦い水の中に投げ入れた人でした。ですから彼は、次のように告白することができたのです。

第二コリント
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

避け所であるイエス様のところに行ってください。主は、その状態を変えてくださるだけではなく、あなたのまわりの人たち、それどころか、あなた自身を変えてくださいます。全ての重荷と悩みをもって主のみもと行く者は、今日もなお、「私の苦しんだ苦しみは平安のためでした」と言うことを経験することができます。

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