2020年12月1日火曜日

The Salvation of Jesus (4), the Path to Progress: “Reckoning” [Unser Herr lebt, Issue 55]

The Salvation of Jesus (4), the Path to Progress: “Reckoning”
Unser Herr lebt, Issue 55, 2020
Gotthold Beck

David confessed in his psalm:

How blessed is the one whose transgression is forgiven, whose sin is covered. How blessed is the person against whom the Lord does not charge iniquity, and in whose spirit there is no deceit. (Psalms 32:1-2, International Standard Version)

John wrote in his letter, “the blood of Jesus His Son cleanses us from all sin (1 John 1:7).”

When we read these verses, we will realize deep in our hearts how precious the blood of the Lord Jesus is. We will always want to know and appreciate the preciousness of the blood of the Lord Jesus even more and more.

In this article, I want to discuss with you, based on the Epistle to the Romans, chapter 6, verses 1 to 11, about the “reckoning” as the path to our progress.

2020年11月30日月曜日

イエスの救い(四)進歩への道「計算すること」

イエスの救い(四)進歩への道「計算すること」
主は生きておられる、55号、2020年
ゴットホルド・ベック

ダビデは詩篇で次のように告白しています。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1~2)

ヨハネは「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(1ヨハネ1・7)と書き記しています。

この二つのみことばを読む時、主イエス様の血潮がどれほど尊いものか、しみじみとわかります。私たちは主イエス様の血潮の尊さを、さらによく知り、もっと感謝したいものです。

本日は、ローマ人への手紙6章1~11節を基にして、進歩への道「計算すること」についてご一緒に考えてみたいと思います。

2020年11月22日日曜日

わたしもその中にいる

わたしもその中にいる
2020年11月22日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

マタイ
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

読んでいただいた箇所は、皆さんよくご存知の御言葉であり、本当に励まされる聖書の約束ではないかと思います。私たちは、この御言葉を礼拝や祈り会、あるいは、兄妹姉妹との交わりにあてはめます。そして、極めてわずかな人数の集まりの中にも、主が共にいてくださる。だから、心をひとつにした祈りはかなえられるという励ましの約束として、読んでいます。しかし、この箇所を、聖書の文脈の中で考えるならば、もう少し限定した話になるのであります。今日は、そのことを初めに考えてみたいと思います。

2020年11月21日土曜日

しばらくするとわたしを見る

しばらくするとわたしを見る
2020年11月22日、秋田福音集会
岡本 雅文

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。

今、読んでいただいた御言葉は、先週、吉祥寺の集いで、最後にお読みした箇所のすぐ後に続く御言葉であります。イエス様が、十一人の弟子たちと共に最後の晩餐を終えて、弟子たちのために、父なる神に祈ってくださった、最後の祈りです。その祈りの最後の最後の数カ所であります。

2020年11月15日日曜日

実験より出ずる信仰

実験より出ずる信仰
2012年11月15日、吉祥寺福音集会
岡本 雅文

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

本日は、人間にとって、人にとって、どうしても必要なことについて、兄妹姉妹がよく知っておられる基本的な福音に、ご一緒に思いを馳せてみたいと思っています。ヨハネの3章の16節、有名なこのみ言葉は次のように告げています。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

人間にとって、すなわち、私たちにとって、どうしても必要なことは、真の神、御子イエスキリストを信じ、受け入れることであります。この箇所から、神様は、全ての人が救われてほしいと、願っておられることがわかります。『ひとりとして滅びることなく』と書かれているからであります。また、ヘブル書、1章では、神はこの福音を、よき知らせをどのように私たちに伝えてこられたかが告げられています。

2020年11月8日日曜日

神の選びと祝福

神の選びと祝福
2020年11月8日、市川福音集会
黒田 禮吉

ローマ
9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
9:12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。


今日、兄弟に読んでいただいた箇所は、いったいどういうことなのかと、みなさんもお思いになる箇所のひとつではないかと思うんですね。子供たちが生まれる以前から、神の選びによって、兄は弟に仕えると告げられたとあります。そして、神である主ご自身が、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあります。このような神の選びの根拠とは、いったい何なのでしょうか。人間的な考えでは、理解できません。パウロは続けて、神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありませんと語りました。

2020年10月18日日曜日

ふたつのパンの奇蹟

ふたつのパンの奇蹟
2020年10月18日、秋田福音集会
翻訳虫

マタイ
14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
14:18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。

(1)ベックさんのメッセージ

本題に入る前に、最近、ゴットホルド・ベック兄の古いメッセージを聴いていて、心に残った部分があったので紹介します。2014年の学び会で語られた『集会に集うべき態度』と言うメッセージの中で、ベックさんはこのように言われていました。

2020年10月4日日曜日

主は生きておられる

主は生きておられる
2020年10月4日、町田福音集会
重田 定義

第一列王記
22:13 さて、ミカヤを呼びに行った使いの者はミカヤに告げて言った。「いいですか。お願いです。預言者たちは口をそろえて、王に対し良いことを述べています。お願いですから、あなたもみなと全く同じように語り、良いことを述べてください。」
22:14 すると、ミカヤは答えた。「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。」

皆さん、こんにちわ。七ヶ月ぶりにこの集会に戻ってまいりました。本当に、今日は懐かしく、兄弟姉妹の歌を直接、拝することができまして、本当に、嬉しいですね、なんだか、天国で再会したような気がしております。

2020年10月3日土曜日

神の福音

神の福音
2020年10月4日、吉祥寺集会
古田 公人

ローマ
1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
1:2 ――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

読んでくださいましたように、使徒パウロは、ローマ人への手紙を、『神の福音』という言葉をもって始めています。今日は、神の福音が意味する内容について、ご一緒に考えたいと思います。二節から四節には、福音は旧約聖書で約束されたことであって、ダビデの子孫として生まれ、死者の中から復活された御子、主イエス・キリストに関することと記されています。ローマ人への手紙、全体の要約だと言ってもいいのかもしれません。

2020年9月27日日曜日

恵みと報酬

恵みと報酬
2020年9月27日、御代田福音集会
古田 公人

マタイ
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

2020年9月19日土曜日

ご奉仕の心得

ご奉仕の心得
2020年9月19日、御代田喜びの集い
古田 公人

ローマ
1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、
1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、
1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。

2020年9月13日日曜日

マルタ、マルタ

マルタ、マルタ
2020年9月13日、秋田福音集会
岡本 雅文

ルカ
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

2020年8月30日日曜日

主のはかりごとだけが成る

主のはかりごとだけが成る
2020年8月30日、市川福音集会
黒田 禮吉

箴言
19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。

皆さん、おはようございます。黒田禮吉と申します。本当は、不要不急の外出を控えるようにということのようでございますから、私は掟破りをしたようなものであります。けども、どうぞよろしくお願いいたします。今日は今、司会の山本兄から紹介がありましたように、『主のはかりごとだけが成る』というテーマで、お話をさせていただきたいと思います。

主のものとされる

主のものとされる
2020年8月30日、吉祥寺福音集会
藤田 匡

ローマ
4:1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。
4:2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

ここで、アブラハムについて書かれております。ここに示されておりますように、アブラハムはイスラエル民族の父祖であります。彼から、主のものとされる国民が起こされることになるわけであります。主は後に、ご自身を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、アブラハムの名前を挙げて、ご自身を現されました。そして、このローマ書の箇所では、これと同時に、アブラハムの信仰が、主によって義とみなされた、と書かれております。アブラハムは、信仰の父とも呼ばれております。アブラハムは、主への全き信頼に導かれた人物でありました。アブラハムは、信仰によって義と認められる者たち、すなわち、主のみからだなる教会の、模範とされる人物でもあります。このアブラハムの歩みについて、今日は見させていただきたいと思います。

2020年8月23日日曜日

初めの愛に立ち返る

初めの愛に立ち返る
2020年8月23日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

創世記
33:18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。
33:19 そして彼が天幕を張った野の一部を、シェケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取った。
33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。

ヤコブの生涯でもっとも大切な経験とは、言うまでもなく、ペヌエルで神と組み打ちをした結果、その名をイスラエルと変えられた出来事でありましょう。しかし、ペヌエルでのこのような深い霊的経験があったにも関わらず、主なる神は、更なる環境にヤコブを置いて、彼に語りかけられたのであります。ヤコブが通らなければならなかった、ペヌエルより以降の歩みについて、今日、ご一緒に考えてみたいと思います。

2020年8月9日日曜日

絶望的状態からのすばらしい逃れ道

絶望的状態からのすばらしい逃れ道
ベック兄暦年テープDVD2、CD24-0331
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

ヨハネ伝の今、読まれました三章の十六節に、『神は愛された』と書き記されています。いちばんよく知られている聖書の箇所ではないかと思います。もちろん、神は愛されただけではなく、神は今日も愛していてくださり、いつまでも愛したもうお方であると聖書は言ってます。

2020年8月2日日曜日

イエスの救い(三)進歩への道「知ること」

イエスの救い(三)進歩への道「知ること」
主は生きておられる、54号、2020年
ゴットホルド・ベック

今回は、ルカの福音書3章3節からお節、そしてローマ人への手紙6章1節から1節を学び「進歩への道、すなわち知ること」について考えてみたいと思います。

主なる神様のご目的は、私たちが主イエス様の似姿に変えられていくことです。これが私たちの内に実現する時に、私たちはパウロと同じように、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2・2)と、言えるようになります。

ところで問題は、いかにしてそのようになるかということです。

これまで私たちは、どうしても知らなければならない基本的な二つの事柄について学んで来ました。「人間の罪と主イエス様の血潮の価値」、そして「私たちの古い人に対する主イエス様の十字架の価値」です。この事実がなければ、私たちは揺るがないしっかりとした土台の上に立つことはできません。この恵みの事実こそ、私たちの信仰生活の土台なのです。

2020年8月1日土曜日

The Salvation of Jesus (3), the Path to Progress: “Knowing” [Unser Herr lebt, Issue 54]

The Salvation of Jesus (3), the Path to Progress: “Knowing”
Unser Herr lebt, Issue 54, 2020
Gotthold Beck

In today's sermon, I would like to study the Gospel according to Luke, chapter 23, verses 33-43 and the Epistle to the Romans chapter 6, verse 1-11 and discuss the “knowing as the path to the progress.”

The purpose of the Lord God is for us to be transformed into the likeness of the Lord Jesus. When this is realized in us, we will be able to say just as Paul did, “I no longer live, but the Messiah lives in me (Galatians 2.20).”

The question, by the way, is how this can actually happen to us.

We have learned in the previous articles about two fundamental facts we absolutely need to know, which were, “sin of humans and the value of the Lord Jesus' blood” and “the value of the Cross of the Lord Jesus to our old man.” Without these facts, it is not possible for us to stand on a firm and unshakable foundation. These facts of grace are the foundation of our faith life.

2020年7月11日土曜日

悲しみの中の祈り

悲しみの中の祈り

2020年7月11日、芦屋ティータイム
古田 公人

第一ヨハネ
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

詩篇
ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ

この詩篇の三篇は、『ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの・・・・』と記されています。もちろん、ダビデでは、ご存知のように、イスラエルの王で、アブシャロムはダビデの三男でした。この息子は、父親に代わって、自分が王になりたいと思っただけではなくて、彼は行動に移しました。そのアブシャロムの謀反の中での、ダビデの祈りがこの詩編三篇であります。

2020年7月5日日曜日

エマオの二人

エマオの二人
2020年7月5日、秋田福音集会
翻訳虫

ルカ
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

[1]はじまり

今、読んでいただきました、ルカの福音書の最後の章には十字架で死なれたイエス様が三日後に復活した、その一日のあいだに起こった出来事が、三つの部分に分けられて、三組の人々の経験を中心に描かれています。初めの1節から12節は、イエス様の墓が空であることを見つけた女たち、次に、エルサレムからエマオへ歩いていた二人の弟子、そして、最後に、36節から後ろは、エルサレムに残っていた十一人の弟子たちであります。

祈りのかたち

祈りのかたち
2020年7月5日、吉祥寺福音集会
古田 公人

マタイ
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

おはようございます。こういう機会をいただきましたことを、本当に感謝いたします。

2020年6月28日日曜日

五つの言葉

五つの言葉
2020年6月28日、吉祥寺福音集会
岡本 雅文

第二コリント
13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

一瞬にして全世界を覆ったこのコロナ・ウィルスによる災害でさえも、時がたてば、過去の時代の人間が自然界の脅威を克服した成果のひとつとして、記録に留まるのではないでしょうか。しかし、すべてのものの造り主が、意味の無いことをなさるはずがない。これが聖書、すなわち、イエス・キリストを信じるわたしたちの確信です。

そして、主なる神がアブラハムに対して考えられたように、信仰によるアブラハムの子孫である私たちも、御言葉によって、彼、アブラハムと同じように取り扱われています。

苦しみの中の祈り

苦しみの中の祈り
2020年6月28日、御代田福音集会
古田 公人

詩篇
ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ

おはようございます。久しぶりに御代田のこの礼拝堂で礼拝をさせていただき、キャンプがとても待ち遠しく感じました。本当に感謝です。

2020年6月14日日曜日

静かな奇蹟

静かな奇蹟
2020年6月14日、秋田福音集会
翻訳虫

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
<<<2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」>>>
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

三月からこの秋田集会も閉鎖されておりましたが、また、こうして兄弟姉妹の皆さまとともに礼拝し、また、聖書からご一緒に学びことができることに感謝します。

2020年6月7日日曜日

しばらく休みましょう

しばらく休みましょう
2020年6月7日、高知福音集会
高橋 義夫

マルコ
6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

きょうのタイトルは、「しばらく休みましょう」です。

お話のきっかけに・・・・

まず、ある教会であった笑い話のような出来事なんですけど、ひとつ紹介したいと思います。ある教会の牧師先生のブログに書いてありました。その教会に元気に教会に通い始めた熱心な若い姉妹がいたそうです。日は浅いけれども、教会の奉仕もよくしてくださって、牧師先生の良き助け手だったそうです。牧師先生の期待も大。また、いろいろと教会に提案もしてくれる。その姉妹が、夏の近づく前のある日、また話があると牧師室に来ました。夏も近いから、また、夏の集会とか、何かアイデアが浮かんだのかしらと牧師先生は、楽しみにお話を伺いました。すると、こんなふうに言ったそうなんです。

2020年3月16日月曜日

イエスの救い(二)「古い人」に対するイエス様の「十字架」の価値[主は生きておられる53号]

イエスの救い(二)「古い人」に対するイエス様の「十字架」の価値
主は生きておられる、53号、2020年
ゴットホルド・ベック

前回、私たちは、人間の罪と主イエス様の血潮の価値について三つのことを学びました。第一に、主イエス様の血潮によって神と人との間を隔てている罪という名の壁は取り除かれ、人は神との交わりが可能になりました。これを深く知るなら、第二に、良心の呵責は消え、第三に、悪魔の訴えは効き目がなくなります。

今回は、私たちの「古い人」に対するイエス様の「十字架」の価値について考えてみたいと思います。

かつて私たちは、神を知らず、望みもなく、滅んでいかなければならない自分を見出した時、このように叫びました。「主よ、私は滅びなければならない罪深い者です。どうか赦して、救って下さい」と。その時、私たちは、主イエス様の流された血潮は、すべての罪を聖める力があるということを深く知りました。そして悔い改めて信仰に立った私たちですが、大部分の兄弟姉妹はさらにその先を経験しているのではないでしょうか。

つまり、私たちは罪を犯しただけではなく、自分自身が罪の本質を根深く持った「罪人である」ということを、認めるようになったのではないでしょうか。

2020年3月15日日曜日

The Salvation of Jesus (2), the Value of Jesus' 'Cross' to the 'Old Man' [Unser Herr lebt, Issue 53]

The Salvation of Jesus (2), the Value of Jesus' 'Cross' to the 'Old Man'
Unser Herr lebt, Issue 53, 2020
Gotthold Beck

In the previous article, we learned three things regarding the sin of humans and the value of the blood of the Lord Jesus. Firstly, by the blood of the Lord Jesus, the wall called sin, that used to separate humans from God was taken down, and this made it possible for humans to have fellowship with God. Secondly, when we deeply understand this fact, our guilty conscience disappears and thirdly, the accusation of the devil loses his influence.

In this article, I would like to continue the discussion and talk about the value of the 'Cross' of Jesus against our “old man.”

Once, we found ourselves perishing without knowing God, and with no hope, which made us cry out, “Lord, I am a sinful person who is destined to perish. Please forgive and save me.” At that moment, we have realized deep in our heart that the shed blood of the Lord Jesus has the power to cleanse all our sins. And this realization has made us repent and stand in faith, I believe that most of our brothers and sisters have shared the same experience.

In other words, we recognized that not only have we sinned, but we are “the sinners” who inherently have the nature of sin deep inside our beings, didn't we?

2020年2月25日火曜日

エペソ人への手紙から学ぶ

エペソ人への手紙から学ぶ
2020年2月25日、火曜学び会
水渡 紀久雄

エペソ
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

ご存知のようにエペソ人への手紙というのは、新約聖書の中で、ローマ人への手紙と並んで、パウロが残した重要な書簡とされております。ただし、ローマ人への手紙は、パウロがエペソの教会で活動し、ご奉仕した頃に、コリントで書かれたと言われてます。その代わり、このエペソ人への手紙は、ローマで殉教の死を遂げる前に、ローマに幽閉されていた時に書きました。だから、むしろエペソ人への手紙の方が、最後の手紙ということになると思います。ローマ人の手紙は、ローマで書かれたわけではないということです。

2020年2月23日日曜日

新しいいのちにあって生きる

新しいいのちにあって生きる
2020年2月23日、吉祥寺福音集会
古田 公人

エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

イエス様を信じる者は、罪が赦され、主なる神との和解をいただき、永遠のいのちを受けます。しかし、大切なことは言うまでもなく、永遠のいのちを持つだけではなくて、その新しいいのちにあって生きることだと言えるのではないかと思います。

2020年2月9日日曜日

イエス様の前に置かれた喜び

イエス様の前に置かれた喜び
2020年2月9日、御代田福音集会
古田 公人

ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様は、『ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座されました』と記されています。このみ言葉の中にある四つの言葉のうち、『はずかしめ』、『十字架』、『神の御座の右』、この三つの言葉については、それぞれが具体的に何であるかは、聖書を読めば、それなりに明らかになります。しかし、『ご自分の前に置かれた喜び』というものは、やはり、りちょっと聖書を読んだだけでは、何を指しているのかは、分かりにくいところではないかと思います。ですけど、この『ご自分の前に置かれた喜び』のゆえに十字架を忍ばれたのですから、前に置かれた喜びとは、イエス様が人のかたちをとってこの世に来てくださった、そのご目的に関わることであったということは、明らかであろうと思います。

2020年2月8日土曜日

来なさい。休ませてあげます

来なさい。休ませてあげます
2020年2月8日、御代田家庭集会
古田 公人

『来なさい、休ませてあげます』という題を紹介していただきましたけど、ちょっと、羊頭を掲げて、狗肉を売るという感じがしないわけではありません。お話しさせていただきたいことは、『必要な心構え』というほうがいいかもしれないんですけど、イエス様の愛の御言葉を題とさせていただきました。

イエス様一人一人に、来なさい、私のところに来なさい、休ませてあげますと、呼びかけてくださっています。今日は、この御言葉を、個人的に体験するために必要な心構えについてご一緒に考えたいと思います。

まずマルコの福音書の中のいくつかの逸話から、ご一緒に考えたいと思います。最初にマルコ5章、長血の女のところです。

2020年1月26日日曜日

三つ撚りの糸

三つ撚りの糸
2020年1月26日、秋田福音集会
岡本 雅文

マタイ
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

イエス様を知らなかった頃の私たちもそうですけれども、イエス様を救い主として信じておられない現代の多くの善良な人々は、悔いのない人生を送りたいと思っておられるのではないかと思います。

この世の中で広く受け入れられているこの価値観について、少し考えてみると、ただ自分の思うとおりに生きていきたい、自分が満足する道を歩んでいきたい、すなわち、自己満足の道を歩みたいという人間の普遍的な自己愛の性質を、きれいな言葉で言い表したに過ぎないのではないかと思います。言葉を変えて言えば、多くの人々にとって――以前の私たちにとっても――悔いのない人生を送るということばで表される人生観は、ある種の高尚な生き方にさえ思われるのではないかと思います。こうして、『悔いのない』という短いフレーズの中に、人間の利己的な思いが覆い隠されて、美化された志(こころざし)として、広く人々に受け入れられています。

2020年1月21日火曜日

キリストの弱さと強さ

キリストの弱さと強さ
2020年1月21日、吉祥寺学び会
黒田 禮吉

第二コリント
13:3 ・・・・キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

兄弟に読んでいただいた聖書の箇所の少し前から、もう一度、読ませていただきたいと思います。

2020年1月5日日曜日

サタンもみことばを利用する

サタンもみことばを利用する
2020年1月5日、吉祥寺福音集会
重田 定義

マタイ
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

新しい年を迎えました。私たちにとって、今年はどんな年になるのでありましょうか。たしかなことは、主の御再臨が間近に迫ることを示す、聖書に記されている通りの数々の世の終わりの前兆が、いよいよ明らかに、そして、その激しさを増す年となることであり、それはまた、私たちの集会に対するサタンの攻撃が、激しさを増す年となることだと思います。