2021年5月30日日曜日

三つのうめき

三つのうめき
2021年5月30日、吉祥寺(Zoom礼拝)
重田 定義

ローマ
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

今日は、このローマ人への手紙のみ言葉の中にある三つのうめきということについて、ご一緒に学んでみたいと思います。

まず、被造物のうめきについてです。被造物とは、全能にして創造主なる神によって造られた全宇宙に存在するもの全てを指しています。創世記の1章から2章には、神様は、無からすべてのものをお造りになり、造られたものをご覧になって、よしとされた、すなわち、満足されたとあります。全てのものは、神様のみ心にかなった出来栄えだったからです。これらの被造物は、神様のご栄光の現れとして造られたのでした。その被造物が、『産みの苦しみ』と擬人化されて表現されている『被造物のうめき』とは、いったいどういうことなのでしょうか。

創世記、1章26節に、神様は、ご自分のみ心にすなおに従うことを願われて、ご自分に似るものとして、人間をお造りになり、その人間に、ご自分がお造りになったすべての被造物を管理させようとお考えになったとあります。

【参考】創世記
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

その人間は、アダムとエバであります。しかし、二人は自分の欲望を満たすために、神様の御心に背いて、禁断の木の実を食べるという罪を犯してしまいました。その結果、アダムとエバの子孫である人類は、全て、生まれながらに、その罪の性質を受け継ぎ、罪あるものとなってしまったのです。それゆえ、その罪は原罪と呼ばれます。

それ以来、神様によって造られた被造物は、人間に管理されるどころか、人間によって痛めつけられてきました。罪を持った人間が、被造物を正しく管理できないのは、当然のことであり、人間はおのれの欲望を満たすために、勝手気ままに被造物を利用してきました。そのために被造物は、今に至るまで、うめいているのです。

具体的な例は、いくつも挙げられます。これまで、数多くの植物や動物が、人間のわがまま勝手な行動によって絶滅したり、絶滅の危機に瀕しています。また、アマゾンをはじめとする熱帯の緑の大密林は、光合成によって、地球の大気中の二酸化炭素を酸素に変えるという、生態系にとって大切な役割を果たしていますが、大規模な開発によって、その姿を、どんどん消しつつあります。

また、人間の生活に必要なエネルギーとして最良の化石燃料が燃やされ、大気中の二酸化炭素は、どんどん増加しています。大気中の二酸化炭素の増加は、地球の温暖化の大きな原因であり、その影響は、地球の気象の変化となって現れ、その結果、人間の生活に地球規模的な被害が起こっていることは、ご承知のとおりであります。人間はようやく、ことの重大性に気付き、世界各国の政治家や専門家たちが、何度も会議を開いて協議をしています。しかし、悲しいことに、その成果は、全くと言ってよいほど上がっていません。

どうしてでしょうか?それは、その根本原因が、自分たち人間の罪の性質、すなわち、自己中心という性質にあるからです。地球の環境を守ることは大切と気づいても、そのために自分の欲望を抑えることができない――それが、被造物を、ますます苦しめることになっている原因なのです。

では、いつ被造物はこの苦しみから解放されるのでしょうか。いつ、うめきが喜びに変わるのでしょうか。それが黙示録を始め、聖書の各書に、次のように記されています。すなわち、天に戻られたイエス様がサタンを縛り、イエス様を信じるものには永遠の祝福を、信じない者には、永遠の滅びを与えるために、地上においでになり、千年のあいだ、王として信じる者とともに、この世を支配されるという、いわゆる千年王国の時なのです。

その時、被造物は、人間の罪による束縛から解放され、神様が初めにお造りになった時の完全な姿、状態に回復されるのです。天にあるもの、地にあるもの、すべてが完全な姿に回復されるのです。

聖書は、これについて、次のように表現しています。

イザヤ
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。

これが、イエス様、ご再臨のときの被造物の姿なのです。ここには、完全にされたすべての被造物が、本当の平和の中で、神様を賛美し、神様の栄光を表すものとして生活する、美しい情景が描かれています。今はまだ、その前の産みの苦しみの時代です。今の被造物のうめきは、その苦しみから解放される細胞のうめきに他なりません。

次に、『御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます』という箇所について考えたいと思います。

御霊の初穂をいただいているものとは、イエス様を信じ、その保証として、御霊を与えられた私たち信者です。しかし、どうしてイエス様を信じたものが、うめかなければならないのでしょうか。

第一に考えられるのは、罪から解放されて、新しく生まれ変わった信者の霊は、イエス様の御心に従うことを望んでいますが、この世に生きている信者の体は、まだ古いままなので、そのために、霊と肉との葛藤が起こるからなのです。

次のパウロの言葉は、それをよく言い表しています。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
7:22 すなわち、私は、内なる人(・・・・つまり、イエス様を信じて、新生した霊・・・・)としては、神の律法(・・・・すなわち、神様のみ心・・・・)を喜んでいるのに、
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

熱心なユダヤ教徒であり、優れた学者であったパウロは、初めは、イエス様が神の御子であることを認めず、イエス様を信じるものを迫害していました。しかし、復活のイエス様に出会って、霊の目が開かれてからのパウロは、ガラテヤ人への手紙、2章20節で、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです』と、証しするほどの強い信仰者に変わりました。そのパウロが、『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか』と嘆くほどに、この世に置かれた信者には、霊と肉との葛藤が激しいのです。

しかし、信者が未信者と決定的に異なっていることがあります。それは、イエス様の十字架の贖いを信じた者は、もはや、決して、罪に問われないという事実であります。パウロは、こう断言しています。

ローマ
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。・・・・

8:1 ・・・・今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

このようにパウロは、イエス様を信じた者は、もはや決して、罪に問われることはないと、心から確信しつつ、心の中でうめきながら、『からだの贖われることを待ち望んでいる』と言っているのであります。『からだが贖われる』とは、イエス様のご再臨の時には、信者のいやしい朽ちるからだが、イエス様に似た、朽ちることのない強い栄光のからだに変えられるということです。

ピリピ
3:20 ・・・・私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

では、その時はいつなのでしょうか。イエス様は、次のように約束されました。

黙示録
22:12 「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
22:13 わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
22:14 自分の着物を洗って(・・・・すなわち、イエス様の十字架の血によって清められて、信者となり・・・・)、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門(・・・・すなわち、天の御国の門・・・・)を通って都(・・・・天の都・・・・)にはいれるようになる者は、幸いである。

なんとすばらしい約束でしょうか。私たち信者は、『主よ、早く来てください』と祈りつつ、その日を、今か今かと待ち望むのであります。

三番目の御霊のうめきについて。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

イエス様を信じた私たちの心の中には、イエス様のお約束通り、御霊が住んでくださっています。そして、絶えず、私たちを支え、励まし、慰め、導いてくださっています。

先ほども申しましたように、私たち信者は、この世に生きているあいだは、自分の思いを制御できずに悩み、苦しむことが多々あります。しかし、ここで、『御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださっている』とあることに、あらためて深い感動を覚えます。

私たち人間は、人の苦しみ、悩みを我がことのように覚えて、同じようにうめくことは、なかなかできません。しかし、神様から背き離れた私たちを救うために、ご自身のいのちを捨ててくださったイエス様は、さらに御霊となって、私たちといつも共にいてくださり、私たちの痛み、苦しみを共に負い、共にうめいてくださるのです。なんというイエス様の深いご愛ではありませんか。私たちは、ただ感謝するばかりです。

今日は、三つのうめきについて、ご一緒に考えてまいりました。三つのうめきがやむとき、それは、先ほども述べました通り、イエス様のご再臨の時であります。その時が迫っていることは、イエス様ご自身がその前兆について、弟子たちに答えておられることから知ることができます。

ルカ
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。
21:9 戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」
21:10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
21:11 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。」

世界の現状は、まさに、イエス様がおっしゃる通りに進んでいるのではないでしょうか。イエス様は、次の言葉で締めくくられました。

ルカ
21:36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子(・・・・すなわち、イエス様・・・・)の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。

イエス様が教えてくださったように、私たちは、うめきがよろこびに変わる時が、いつ来てもいいように、御霊に満たされ、身を慎み、心を整えて、祈りつつ、その日を待ち望もうではありませんか。

0 件のコメント:

コメントを投稿