2023年7月2日日曜日

霊の暗闇からの脱出

霊の暗闇からの脱出
2023年7月2日、町田福音集会
重田定義兄

マタイ
6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、
6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。

今日は、イエス様がおっしゃったこのみことばについて考えたいと思います。

昔の人は、目は体の窓で、そこから光が体内に差し込むと考えておりました。この考えによりますと、目が健全ならば、全身が明るく健康だけれども、目が悪ければ、全身は暗く、不健康ということになります。

イエス様がこのことを比喩的に取り上げて、霊の目が健全なら、体の中に差し込む光が、体全体を明るくするけれども、霊の目が悪ければ、光は体に差し込むことがなくなり、体全体は真っ暗になるとおっしゃっているのであります。これは、霊の目が悪ければ、いくら肉体の目が良くても、その人は、霊的な暗闇の中に置かれているという意味であります。

視力を失うことを失明、すなわち、明るさを失うと言います。この言葉のとおり、もし目が見えなくなれば、私たちは明るさを失って、昼間でも真っ暗闇の中に置かれるのと同じ状態になり、どの方向に進んだらよいかわからなくなり、まっすぐに歩いているつもりが、曲がった道に入り込んだり、障害物につまずいたり、ホームから転落して大けがをしたりして、命を落とすことにもなります。

しかし、暗闇には、肉眼の視力が失われることによって生じる暗闇の他に、霊の視力が失われることによって起こる暗闇、すなわち、霊的な暗闇があります。霊的な暗闇に置かれた人間は、肉眼が失明した人間の場合と同じように、霊的な意味で、自分がどこに向かっていったらよいのかわからなくなり、自分では正しい道を選んだつもりでも、滅びに至る道を、それとは知らず、つまずいたり、転んだりしながら歩むことになります。

その暗さは、イエス様が、『もしあなたのうちに光がなければ、その暗さどんなでしょう』とおっしゃったほどに恐ろしい暗さなのです。肉眼の失明に気が付かない人はありません。けれども、霊的な失明は、ほとんどの人が気づきません。そのために今、申しましたように、恐ろしい結果を招くことになるのです。

世界一の知恵者と言われたソロモン王は、彼の書いた箴言の中で言っています。

箴言
14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

ここで言っている人の目とは、霊的に失明している人の目のことであり、霊的に失明している人は曲がった道も真っ直ぐに見えてしまって、その曲がった道は、死に至る道だと言うのであります。

では、この恐ろしい霊的な失明は誰に、また、どのようにして起こるのでありましょうか?

実は、霊的失明は、人間ならば、誰にでも起こるのであります。言い換えますと、すべての人間は、霊的盲人なのであります。どうしてなのでしょうか?それは、全ての人間は、神様がお造りになった最初の人間、アダムの子孫だからであります。アダムは、サタンの誘惑に負けて霊的盲目となり、神様のお言いつけに背き、禁断の木の実を食べるという罪を犯してしまいました。すべての人間は、アダムの子孫であるがゆえに、アダムの遺伝子を受け継ぎ、生まれながらに霊的盲人となってしまったのであります。ソロモン王は、箴言の四章で言っております。

箴言
4:19 悪者の道は暗やみのようだ。彼らは何につまずくかを知らない。

ソロモンのいう悪者とは、霊的盲目のために、創造主であり、主権者である全知全能の生ける神様、人間をご自分に似たものとして造ってくださった上に愛してくださる神様が見えなくなって、神様から離れ、自分の欲望を満たすことだけを考えて、浅はかな自分のその知恵に頼って生きているすべての人間を指しております。預言者イザヤは、神様から離れた人間の霊的状態を次のように言い表しております。

イザヤ
59:10 私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。

しかし、神様は、このような哀れな人間をなおも愛し、お見捨てにならずに、ひとり子の神様を光として、この世にお遣わしになったのであります。イエスの弟子のヨハネは、次のように証言しました。

ヨハネ
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

イエス様ご自身も、ご自分について次のように言っておられます。

ヨハネ
8:12 ・・・・「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

イエス様は、闇の中をさまよい歩いている霊的失明者の人間をあわれんでくださり、闇に打ち勝つ光として、この世においでになり、イエス様に霊の目を開いて欲しいと願うものの目を開いて、イエス様のいのちの光を与えてくださいました。マルコの福音書の10章には、イエス様がバルテマイという盲人の乞食の願いをかなえて、目が見えるようにしてくださったエピソードがあります。

マルコ
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

この盲人は、暗闇の中で長い年月を貧しく乞食として生きてきました。彼はどんなに光を望んだことでしょうか?そういう時に、彼は、あちこちで多くの病人を癒されたイエスという方が街に来られるという噂を聞きました。彼は噂を聞いただけで、この方こそ、自分の盲目を癒してくださる方と確信しました。

それは、彼がイエス様に向かって、『ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください』と叫んだことで分かります。ダビデの子とは、神様が、ダビデ王の子孫に霊的な神の国を地上にもたらすとイスラエルの民に約束された救い主のことであり、彼は、イエス様こそ、その救い主だと信じたのです。イエス様は、彼の信仰をよろこばれ、『あなたの信仰があなたを救った』とおっしゃって、即座に目が見えるようにしてくださいました。

このエピソードの中の盲人は、肉眼の盲(めし)いであります。しかしながら、このエピソードは、霊の暗闇に置かれた人間、すなわち、霊的な盲人をも意味しております。霊的盲人が、自分は今どこに居るのだろうか、どの方向に向かっていったらいいのだろうか、途方に暮れながら、悩み、苦しみ、手探りで人生を歩んでいる時に、イエス様のうわさを聞き、この方こそ自分を闇から救い出してくださる方と信じて、心から、『イエス様、助けてください』と叫べば、イエス様はただちに、ご自分のいのちの光によって、霊の目を開いて、暗闇の中から、光の中に移してくださいます。

そして、イザヤ書の29章18節に、『その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る』とありますように、今までは、自分の頭で理解しようとしても分からなかった神様のみ言葉である聖書を、イエス様の光によって開かれた霊で深く味わうことができるようになり、歩むべき正しい道はイエス様を信じ、従って歩むことであると示され、その恵みを心から喜ぶようになるのであります。

ところが、イエス様を信じて、霊の目が開かれ、光の中に移され、主に従うものとされたものも、もし光であるイエス様から目を離しますと、たちまち、サタンの罠にかかって、霊の目が閉ざされ、再び、闇の中を歩む危険に陥ってしまうことになります。そうなりますと、主の御心がわからなくなり、信仰の歩みも、主に従って歩むのではなく、自分の信仰、自分の思いの信仰で歩むことになってしまいます。

そのような信者についてイエス様は、比喩的に次のようにおっしゃっております。

マタイ
15:14 ・・・・彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。

このような霊的に失明した信者は、自分がイエス様をお入れしている単なる土の器であること、そして、その器を用いて、主がご栄光をあらわされるということが、もう分からなくなっております。そして、自分の考えによって、イエス様のみこころとは違う間違った方向へ人を導いたり、神様の愛ではなく、人間的な愛、ヒューマニズムの実践が正しい信仰の行いであると確信してしまうのであります。まさに、盲人が盲人を手引きするようなものになってしまうのであります。

このようにならないためには、いったいどうしたらいいのでしょうか?パウロは、私たちキリスト者に、次のように勧めております。

エペソ
5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

主にあって光となるとはどういうことでしょう?それは、自分が光り輝くのではなくて、闇の中に光としておいでになったイエス様にしっかりと結び付いていった時に、そのイエス様の光を輝かすことができるということであります。

世の終わりが間近いことを示す兆候が、ますます明らかになりつつあるときにあって、かつては霊的な盲人であった私たちは、イエス様の愛によって霊の目が開かれた今、またと暗闇に戻らぬように、常に御霊の目薬を点眼していただきながら、光の子にふさわしく、イエス様の光を輝かす燭台としての歩みを、イエス様にお会いするときまで続けることができるように、ご一緒に祈ろうではありませんか。

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