2021年5月9日日曜日

もっとも大切なこと

もっとも大切なこと
2021年5月9日、秋田福音集会
岡本 雅文

第一ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

この二、三週間のあいだに、私が知っている四人の兄弟姉妹が天の故郷に帰っていかれました。旧約聖書が告げる――皆さんがもうよくご存知の――『死の日は生まれる日にまさる』という神の御心に、特別に深くふれる、そういう時が与えられました。

伝道者の書の7章の1節から4節に書かれている、その通りであります。

伝道者の書
7:1 良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。
7:2 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。
7:3 悲しみは笑いにまさる。顔の曇りによって心は良くなる。
7:4 知恵ある者の心は喪中の家に向き、愚かな者の心は楽しみの家に向く。

なぜ聖書は、喪中の家に行く人は、祝宴の家に行くより良いと言われているかといえば、そこで、真理に出会うからであると、言っているように思います。そこには、すべての人の――自分の――終わりがあり、今この世に生きている者が、それを――自分の終わりを――心に留めるようになるからだと、告げているようです。このことを言い換えれば、ここに――自分のこの世の終わりに――心を止めて生きよ。さらに言い換えれば、永遠なるものに――自分のこの世の終わりの先にあるものに――心を留めて生きよと、言われているのではないかと思わされます。

今の箇所の少し前の3章の11節には、これも有名な、よく知られている箇所ですけれども、『神は人の心に永遠への思いを与えられた』と書かれています。これが、神様から与えられた、人間の特徴でありましょう。しかし、暗闇の力――聖書でいうサタンの力――は、人に与えられた希望そのものである永遠のいのちという恵みを否定するように、無視するように、働き続けています。

イエス様を信じるヨハネは、私たち人間にどうしても伝えなければならないこととして、聖書の終わりの――先ほど読んでいただいた――第一ヨハネ、5章の13節、20節に書きました。この手紙ですね。始めに読んでいただいた箇所ですけど、もう一度、ゆっくり読んでみますね。

第一ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対して(・・・・イエス・キリストを信じている私たちに対して・・・・)これらのことを(・・・・この手紙を・・・・)書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

5:20 しかし、神の御子が来て(・・・・イエス様が来られて・・・・)、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。(・・・・真実な方、父なる神、まことの神を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。・・・・)それで私たちは、真実な方のうちに、(・・・・ここでは・・・・)すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。

真実な方と、御子イエス・キリストと、まことの神が、ひとつになっています。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。結局、ここは私たち自身に、真実なる方を指し示してくださる――解き明かしてくださる――方は、イエス・キリストしかおられない。まことの神のその性質を持たれた方は、イエス・キリストただ一人である。神と御子イエス・キリストは一つだと、語っているのではないかと思わされます。

旧約聖書では、神は人の心に永遠への思いを与えられたとだけしか書かれていません。しかし、新約聖書の終わりに、つまり、聖書全体の結論として、イエス・キリストご自身が永遠のいのちである。永遠のいのちそのものである、そして、その永遠のいのちであるイエス様を、私たちのうちに、中に持っているというのです。

ヨハネを通して、イエス様は、永遠のいのちを持っているかと尋ねているのではありません。あなたがたは、私たちは、それを――永遠のいのちを――持っていると、断言しているんですね。その事実を、私たちに分からせるために、この手紙を書いた。この事実を、確信して欲しいと言っているようです。

聖書は、もっとも大切なこととして、信仰者が、既に持っているその永遠のいのち、すなわち、イエス様をさらにより深く知ってもらいたい、さらに確信してもらいたいと、願っているのではないかと思わされます。

イエス様が私たちに望んでおられるのは、言葉の定義を学ぶことではありません。信仰とは何かとか、神とは何かということでは、決して、ありません。私たちのうちにおられる――中におられる――中にある永遠のいのちの中に生きよ。それ、すなわち、永遠のいのちは、私だ。私の中に生きよ!と、聖書は、主なる神ご自身を、イエス様ご自身を啓示しておられます。指し示してくださっています。明らかにしてくださっています。それは、主なる神、すなわち、イエス様の願いであり、祈りであると、ヨハネは福音書で語っています。

聖書には、ただ一つのことだけ、あるいは、どうしても必要なことは、ひとつだけ、さらに、いちばん大切なことなどと書かれた箇所があるんですね。しかし、聖書には、ただひとつと言いながら、もっとも大切なという意味の複数のみ言葉があるために、私たち自身は、このみ言葉の、これらのみ言葉の大切さが、曖昧になっているということはないでしょうか。

初めに、この今、申し上げた三つのもっとも大切なことという意味に捉えられる三つのみ言葉を、確認してみたいと思います。

ヨハネの福音書の9章の25節、盲目の人がイエス様に目を開いていただいた箇所であります。

ヨハネ
9:25 彼は答えた(・・・・盲目の方ですね・・・・)。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」

ここで、この方は、あの方、イエス・キリストは、奇蹟を行なってくださったお方であるということを知っていますと、表明しています。

二つ目のルカの福音書、10章の42節には、マリアが――ベタニアのマリアが――、このように、イエス様に対してなしたことが書かれています。

ルカ
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。

彼女は選んだこととは、全てのことの中から、ただイエス・キリスト、イエス様のそばにはべって、みことばに聞きいっていたというひとつのことでありました。文字通り、どうしても必要なことでした。

三つ目のマルコの12章、29節から31節は、こうイエス様がこう答えられました。イエス様に質問されたとき、イエス様ご自身が答えられた言葉です。

マルコ
12:29 一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

これも、文字通り、いちばん大切なことだと告げられています。

これらの三つの言葉は、一見、異なると思われる事柄を扱っているように見えますが、すべてイエス様であり、父なる神を指し示しています。ヨハネの17章の22節では、『わたしたちが――イエス様が言われた言葉ですね――イエス様と父なる神が、ひとつであるように』と、イエス様と父なる神はただひとつであると言われました。ですから、この三つの言葉は、全てイエス様を指し示していることがわかります。

【参考】ヨハネ
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。

父なる神と言っても、主なる神と言っても、全能の神と言っても、主イエス様と言って差し支えがないと、聖書は語っています。聖書は、最初から最後まで、救い主なるメシア、神と人との仲介者、イエス・キリスト、主なる神を指し示しています。どこをとっても、その背景には、イエス様がおられます。

ちょうど半年前のこの秋田の集いのメッセージの最後に、ヨハネの福音書の17章、24節から26節をお読みいたしました。その後も、いくつかの集会で、この御言葉をお読みしました。なぜなら、26節にはこう書いてあるからです。『彼らに――これは、私自身にも言われた言葉ですけど――彼らに、これからもあなたの御名を知らせます』と言われているからです。その通り、その後の約半年のあいだ、このみ言葉が、何度も心に迫ってまいりました。イエス様がここにおられるという知らせです。このみことば、この福音は、本当に大切な言葉であると、この半年のあいだに思わせるようになりました。

この場所を、ゆっくりと読ませていただきたいと思います。

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

私たちが、主イエス様のご栄光を見るようになるためです。

ヨハネ
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は(・・・・私たちは・・・・)、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたしは(・・・・イエス様は・・・・)彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。

聖書全編が指し示しているただ一人の方、主イエス様が、弟子たちと別れる最後に祈ってくださったこの言葉は、考えられないほど、大切ではないでしょうか。イエス様のこの心からの願いが、十字架につけられる前に告げられたのは、イエス様の死、イエス様の十字架は、私たちの罪を赦すだけではなかったと知らされます。このイエス様の願い、すなわち、イエス様が私たちの中にいるという確かな恵みの約束、奇蹟が、私たちの中に実現するためにも、イエス様は死なれたと言っていいのではないでしょうか。この信仰、この恵み、この奇蹟こそ、イエス様が私たちにどうしても与えたいと考えておられるみこころであると導かれます。

イエス様が去って、そして、頼りになる方が目の前から去って行かれる時に、イエス様は残された者に対して、このみことばを語ってくださったというよりも、主なる父に願い祈ってくださったみことばです。イエス様の最後の言葉は、祈りそのものでありました。

このみことばから目を離すことができません。そして、このような恵みを受けるときは、私たちを通して、イエス様ご自身も、栄光をお受けになるとイエス様は語っておられます。

ヨハネ
17:10 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。(・・・・父なる神とイエス様の会話ですね・・・・)わたしは彼らによって(・・・・信じる者たちによって、私たちによって・・・・)栄光を受けました。

イエス様は、信じる者たちによって栄光を受けたと告げておられます。

先日、ズームによる葬儀に参列しながら、今、現実に、イエス様ご自身の多くのみことばが、雲のように私たちを取り巻いていることを思い起こして、感謝いたしました。そして、最後の敵である死は、勝利にのまれたと記されているみことば葉が実現する、このみことばそのものが、確信として心にのぼってきたからであります。

新約聖書のある第一コリント15章の54節の言葉は、聖書が告げる事実であります。理論ではありません。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです』と、ただお一人の神が、同じヨハネの11章の25節でこう言われた、お一人の神が、ただ一つの神の真実そのものであります。イエス様を信頼すること、信じることだけが、もっとも大切なことだと告げているように思えてなりません。

ここまで、私たちにとって、一切の事柄に対する答えは、イエス・キリストに対する信頼だけである。この信頼が、主はおられるという確信に導いてくださる。これが聖書の要約ではないかと思わされるんですね。私たちは、何のために信じているのでありましょうか。信頼できなければ、何ひとつ、実が結びません。確信するというのは、信頼しているから確信できる。それは、言葉の問題ではなくて、この世の終わりに、何度も参列するたびに、何度も何度も思わせることであります。

確信。イエス様が私たちに与えたいと思っておられるのは、確信ではないでしょうか。イエス様が、どんなにすばらしい方であるか、どんなに愛に満ちた方であるか、私たちの想像を絶する方であるか。その方が、一切を決めておられるのではないでしょうか。別の言い方をすれば、また、一切のものが、神からの一方的な恵みであるという、ただひとつのことであるという確信を持つことができれば、どんなに幸いでありましょう。

そして、この信仰、この信頼さえも、恵みとしてしか与えられない。私たちは、どんなに努力しても、どんなに学んでも、与えられることができない。そういう種類のものである、私たちの心に思い浮かんだことのないものであると、聖書は、あそこからも、ここからも、ひとつのことを語っています。必要なことは、既に全て与えられていると言われた――そういう約束を、目を開いて、じっと見るようにと告げられているようです。

私たちに必要なものは、もう既に全ての人に与えられている。そうでなければ、明日、死ぬはずがありません。明日、もしくは、今日、死んでも問題ないように、全部が、全てが与えられていると、聖書は語っていると信じます。聖書が語るみこころは、『まずすわって』と言うみことばが、私自身の心にずっと残っています。

ただ一人の方の偉大さを見ること、確認すること。『まずすわって。』ルカの福音書の14章にあるみことばです。

ルカ
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

ここまではよく聞くみことばですね。

14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、
14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。

聖書は、私たちに、あるところでは計算してはいけないと言いながら、ここでは、計算するものであれと、告げています。この御言葉も、十字架につけられたイエス様を指し示しているようであります。聖書は、私たちが塔を築こうとするとき、すなわち、新しく歩み始めようとするとき、あるいは、何かことを成そうとするとき、働きをしようとするとき、まずすわって、まず第一に、この方を見よ、この方の偉大さを見よと告げています。

ヘブル書の12章の一節、二節も、この方を見よと、私たちの向かうべき道、目を注ぐ方向をはっきりと伝えています。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから(・・・・これは11章に書かれた証しのことを指しています・・・・)、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

『この方を見よ』と、書かれています。

今日、聖書から考えたこの時間の最後に、私たちは、ヘブル書の11章に書かれた旧約聖書の兄妹姉妹たちだけでなく、イエス様とともに歩んだ新約時代の弟子たちに、どのようにして、信仰、また、信頼が与えられたかを、駆け足で見て、終わりにしたいと思います。

聖書は、イエス様の弟子たちが、一人残らず、弱さや疑り深さ、そのような私たちと同じ性質を持つ、不信仰極まりない者たちであったことを、明らかにしています。イエス様が、十字架で死なれた後、弟子たちをどのように扱ってくださったか、私たちは、聖書を通して、よく知っています。彼ら自身が遭遇したキリストの十字架と墓と復活の事実の中で、自分自身の――彼ら自身の、また、私たち自身の――罪の深さ、大きさと初めて出会いました。彼らは、強そうに見えたペテロの本当の弱さや、単純で勇敢に思われたトマスの、実は疑り深い心を持つ者たちであった人々の、そういう群れでした。

イエス様が捕らえられた時、彼らは、イエス様を置き去りにして、逃げ出しました。弱さのゆえに、疑いのゆえに、恐れのゆえに手のひらを返したように、完全に主人を裏切った者たちの集団となったのであります。そういう集会となりました。彼らは、皆、その日、闇の中に沈み込んでいったのであります。彼らも、墓に入れられたように、イエス様が入られた暗闇に、彼らも入るようになりました。ひっそりと人目を避け、息を凝らしていたのであります。

彼らの回復は、イエス様が葬られて三日目の週の初めの朝に始まりました。その日、ペテロとヨハネは、マグダラのマリアの知らせを受けました。二人は、イエス様が葬られた墓に急ぎました。そして、二人は、墓に入り、空の墓を見て、信じたのであります。その状況は、ヨハネの20章に書かれています。

ヨハネ
20:6 シモン・ペテロも彼(・・・・ヨハネとは書かれていませんけれども、おそらく、ヨハネでしょう・・・・)に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子(・・・・ヨハネ・・・・)もはいって来た。そして、見て、信じた。

しかし、彼らはまだ、イエス様がよみがえられたことは、理解していませんでした。『見て信じた』と書かれてますけれども、よみがえったと信じたのではありませんでした。そのすぐ後の9節に、こう書かれています。

ヨハネ
20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

ただイエス様が消えたという事実と、何か大きなたいへんなことが起こったということを信じたのであります。

ペテロとヨハネが、よみがえりの復活のイエス様に出会うのは、その日の夕方でした。他の兄弟たちがともに集まるまで、待たねばなりませんでした。力を失った彼らの共同体である教会、集会の中に、よみがえりのイエス様は、入ってこられました。戸が閉められていた、その集会の中に入ってこられました。

ヨハネ
20:19 その日(・・・・週の初めの日、よみがえられた日・・・・)、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

彼らは、傷跡を見て、初めてよみがえられたことを知り、よろこびました。

しかし、まだ一匹の迷子の羊がいたんですね。トマスです。イエス様の手に釘の跡を見、自分の指を釘のところに差し入れ、また私の(彼の)手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じませんと言い張ったトマスであります。25節であります。

彼は素直な羊ではありませんでした。疑いの迷路に迷っていた私たちにそっくりな、扱いにくい迷子の羊でした。しかし、イエス様はこの羊を通して、これから先、私たちがいつまでも、イエス様とと出会い続ける道を示してくださいました。この厄介な迷子の羊を通して、初めてイエス様は、本当の真理を示してくださいました。

トマスは、イエス様に出会ったとき、彼の指と手を傷口に差し入れる必要はなくなりました。彼の思いは、消えてなくなりました。よみがえられた主を見て信じる恵みが、この一匹の迷子の羊に与えられました。そして、イエス様はこのトマスを通して、私たちにさらに大きな約束を与えてくださいました。29節です。『見ずに信じる幸い』です。見ずに信じる信仰、信頼です。言葉を信じる信仰です。ヨハネの一章の一節をお願いします。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

私たちに与えられた信仰、信頼は、このように言葉なる神が、人としてこられ、あのように十字架の言葉を残して、神の御子が再び、天に帰られた今、十字架の御言葉のうちに、十字架の言葉のうちに、霊として働かれる主イエス様を信じる、そういう信仰を与えてくださいました。

いつでも、どこでも、主に会える信仰です。いつでも、聖霊の宮で、イエス様と交わりが与えられる信仰であります。私たちの中におられる方とつながっている幸いです。そして、この主イエス様は、私たちが見ずに、みことばだけを見て、私の主、私の神と、主をお呼びできるように、今日も約束通りに、みことば通り、主の御霊が、いいようもないうめきによって、私たちのためにとりなしてくださっていると、証言してくださいました。

今日の最後に、私たちのうちにおられる栄光の主イエス様にお会いするとき、私たちの内側で鳴り響く、賛美のことばが詩篇に書かれています。これをお読みして、終わりにいたしたいと思います。

詩篇
24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。

みことばの戸が開くと、このようになります。

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