2023年1月9日月曜日

イエス様は悔い改めについて何を語られたか

イエス様は悔い改めについて何を語られたか
2023年1月8日、吉祥寺福音集会
古田公人兄

ルカ
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」
15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

よく聞く言葉ですけど、『ただほど高い物はない。』そういうことが言われています。要するに、人は恵みよりも、努力を大切にするという性質を持っているということではないかと思います。

カトリック教会では、行いによる義が強調されてきたと聞いています。ですから、恵みよりも努力を評価することは、私たちの信仰生活にも、えてしてあることではないかと思います。本来は恵みであるはずの悔い改めが、もしかしたら、努力目標になっていることはないでしょうか?今日は、そのことをご一緒に考えてみたいと思います。

イエス様は、三つの例え話をなさいました。

最初は、いなくなった羊です。この羊はいなくなっただけですから、自分から神様を捨てたのではないんですけれど、生きる目標も、信頼すべきものも見出せないで、暗闇の中にいることを自覚している人を表しているのではないでしょうか?ザアカイのような人だと言えばいいのではないかと思います。彼は、救い主を心から待ち望んでいましたから、イエス様を受け入れ、信じました。

次にお話になったのは、失われた銀貨です。この銀貨に光が差し込んだとき、救いの手が伸ばされ、銀貨は拾い上げられました。言うまでもなく、羊を探し出した羊飼いと、銀貨を見つけた女は、イエス様を象徴しています。イエス様は、ご自分の責任で、失われた人を見つけ出し、喜んで自分のものとすると、そういうことをこのお話を通して明らかにしておられます。

ルカ
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

イエス様は、失われた人を探して救うために来たとおっしゃいました。たまたま失われた羊は一匹だったですけど、百匹全部が失われたなら、イエス様は百匹全部を探し出してくださる。ですから、数の話ではないと分かります。銀貨も同じなのでしょうか?救いを求めている人に向かって、救いは必ずなされる、御手は必ず伸ばされるということを、一人でも見逃すことなく、救いの御手は伸ばされるということを、イエス様はこの話を通して、明らかにされたのだと思います。

そして、大切なことは、なぜ羊と銀貨を取り上げられたのかということだと思います。それは、羊も銀貨も常識的な意味では、悔い改めと無関係なものだからではないでしょうか?

イエス様は、ですから、わたしが話している悔い改めとは、あなたがたが考えているような常識的な悔い改めとは違う。自分の惨めな状態を正直に認めて、そして、差し伸ばされた救いの御手に身を委ねることが悔い改めだ。そのことをイエス様は、明らかにされたのではないかと思います。救いの恵みを強調するため、あえて人ではなくて、羊と銀貨を例に、話されたのではなかったでしょうか?

ローマ人への手紙の2章4節に、悔い改めは恵みだと記されています。

ローマ
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

悔い改めは恵みなんです。人が自分の力で悔い改めることではないと知らせられます。常識的な意味での悔い改めと、聖書が伝える悔い改めとは、そういう点で違うということができるのではないでしょうか?イエス様が銀貨と羊を探し出されたように、ご自分の責任において、悔い改めに導いてくださると知らされます。

そして、三つ目は、放蕩息子の話をなさいました。息子は財産の分け前をもらい、遠い国へ行き、全てを失いました。彼は、羊と違って、自分の意思で父を捨てたんですけれども、大飢饉の中で死の恐怖に襲われ、無一文で家に帰ってきました。帰ってきた息子を見つけた父親は、走りよって抱きかかえ、口づけし、いちばん良い着物を着せ、手に指輪をはめさせ、靴を足にはかせました。

第一ヨハネの3章1節に、『いま私たちは神の子どもです』と記されています。

【参考】第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

また、ローマ人への手紙にも、私たちは御霊を持つ、私たちは神の子供ですと記されています。

ですから、放蕩息子とは、救い出された後の羊、見つけ出された後の銀貨、そのことをイエス様はおっしゃっているのだろうと思います。要するに、救い出された信者のことを、イエス様は放蕩息子で話しておられます。そして、息子が受けた財産は、言うまでもなく、御霊と永遠のいのちです。

よく放蕩息子の話は、悔い改めの話だということを聞くのですけど、イエス様がこの話でお語りになったこと、お語りになりたかったことは、息子が家にいても、いなくても、変わることのない父の愛だったと言うのではないかと思います。父は、息子が出て行ったときには、愚かな人だと村人の嘲笑を受け、息子がいないあいだ、彼は毎日、外に立って、帰ってくる息子を待っていたんですけど、その姿を人々に笑われ、そして、帰ってきた息子を無条件で許して、人々に恥をさらすことに甘んじました。言うまでもなく、この姿は、イエス様の姿です。

ローマ
8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

このみことばは、未信者に与えられたものではなくて、信者に与えられています。放蕩息子とは、ですから、肉に従う信者のことを意味しています。そして、その結果は、彼が経験したように、死の恐怖でした。羊と銀貨の話で明らかにされたように、差し伸ばされている救いの御手に身を委ねることが、イエス様が仰せになる意味での悔い改めです。

しかし、放蕩息子の話では、外国にいる息子に向かって、救いの手は伸ばされませんでした。この息子が父の手に抱きかかえられるためには、彼は、自発的に家に帰らなければならなかったのです。ですから、この息子に求められていたことは、常識的な意味での悔い改めではなくて、砕かれた心で、家に帰ることであったとわかります。

イエス様も、この息子が悔い改めたとはおっしゃっていないんです。帰ってきた。そして、帰って来て父に詫びたということだけでした。

ルカ
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』

イエス様は、この息子は死んでいたのが生き返ったとおっしゃいました。彼は、新しいいのちにあって生きることが求められています。

コロサイ
3:9 ・・・・あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

ここにあるように、息子は古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着ています。良い服と靴と指輪は、そのことを表しているのだと思います。彼はキリストの血によって洗われた人として、新しい歩みを再開しなければなりませんでした。

福音書を見てみますと、イエス様は中風の人、罪深い女、イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人などに向かって、『さあ、悔い改めなさい』・・・・そんなことをおっしゃってはいないんです。それどころか、バルテマイ、カナン人の女、長血の女、らい病人など、さまざまな人がイエス様と出会った時のことが記されていますけど、イエス様は誰にも、『悔い改めなさい』とは、おおせになっていません。イエス様だけでなく、パウロも、そして、多分、ヨハネもそうだったと思います。兄弟姉妹に向かって、『悔い改めなさい』とは言っていないんです。

ローマ
14:4 あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。

『さばく』とありますけど、『命じる』と言い換えてもいいのではないでしょうか?パウロは、悔い改めは、イエス様がご自身の責任においてなされる恵みだと知っていましたから、他の兄弟に向かって『悔い改めなさい』ということは、分を超えたことであると考えていたのだと思います。

では、パウロは何を言ったのでしょうか?それをしてはいけません。これはやりなさい。パウロはいつも、そういう形で兄弟たちに勧めをしていました。一箇所だけ見てみましょう。いちばん大切な勧めの一つだと思います。

ガラテヤ
5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

兄弟たちが自分の責任でなすべきことを、パウロは兄弟たちに語っています。新約聖書の中で、多分、もっともよく知られている悔い改めに関するみ言葉は、マルコ1章15節のイエス様のみ言葉ではないかと思います。

マルコ
1:15 時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

イエス様は、こうおっしゃいました。でも、このみことばは、常識的な意味での悔い改めというよりも、やはり、提供されている救いを受け取りなさいという勧めとして、受け止めることができるのではないでしょうか?そして、パウロの言葉では、第二コリント7章10節の言葉がよく知られていると思います。

第二コリント
7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

このみことばでは、神のみこころに沿った悲しみと、世の悲しみが対比されています。そして、救いに至る悔い改めと死が対比されています。神のみこころに沿った悲しみとは、悲しみのうちに救いを切に求める心であり、世の悲しみとは、人間の助けや慰めを求める心ではないでしょうか。また、救いに至る悔い改めとは、提供されている救いを受け取ることだと明らかにわかります。

信者が他の兄弟姉妹に向かって、常識的な意味で悔い改めなさいと言うようになったのは――多分ですけど――、カトリック教会ができてからではないかと思います。他人に悔い改めなさいということは、自分をイエス様と同じ立場に置くことですから、イエス様の御心に、全く反することだと思います。しかし、カトリック教会の聖職者たちは、自分をキリストの代理人と主張しているそうですから――聞いたところですので確信はありませんけど、そう聞いています――、『悔い改めなさい』と命じることに、何の疑問も持たなかったのではないかと思います。

しかし、実際のところ、人間は『悔い改めます』と言うとしても、本当の意味で悔い改めることは、どれほど難しいかということを、あまりよくわかっていないのではないかと思います。

第一コリント
8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。

厳しい言葉です。ですけど、この御言葉のとおりだと思います。他人に向かって悔い改めなさいということは、人を正直にさせるのではなくて、偽善に向かわせるのではないでしょうか?実は、私自身、これまでメッセージの中で、何度も、『悔い改めましょう』と言ってきたんです。今回の学びを通して、それは間違っていたと教えられました。

他の兄弟に向かって、『悔い改めましょう』ということは、たぶん、自分は悔い改めることができると思うからではないかと思いますけど、でも、イエス様は、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです』とおっしゃっています。イエス様が求めておられることは、『悔い改めなさい』という御言葉があれば、それは、『私は悔い改めはできません』と言うへりくだった心だったのではないでしょうか。

同じように、『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい』とおっしゃったのも、これも誰にでも分かるように、イエス様と同じように愛せる人なんか誰もいない――私はとてもそんなことは、イエス様のように愛することはできませんと言うことを、イエス様の前に、正直な心で申しあげることを待っておられるのではなかったのでしょうか?

そうすれば、イエス様は御力ををあらわしてくださいます。御霊が、悔い改めへと、常識的な意味での悔い改めへと導いてくださり、そして、愛することをさせてくださるのではないかと思います。

今日、最初に、私たちは恵みよりも、努力を強調する傾向があると申し上げました。このことは、本来、私たちを解放し、自由にするはずの聖書の信仰が、信者を義務感と偽善の奴隷にしてしまうきらいがあるということを意味しています。そうであるなら、私たちの信仰を見て、未信者がイエス様のところへ行こうなどとは思わないのではないでしょうか?むしろ、信仰はけっこうです――そういう態度を取って当然だと言えるのではないかと思います。

イエス様は、自由を与えるために、私たちを解放してくださいました。ガラテヤ書5章の1節に記されているとおりであります。私たちを縛りつけている、『・・・・ねばならない』という努力の鎧を脱ぎ捨てようではありませんか。そうすれば、イエス様が提供してくださっている恵みとしての謙遜と自由が、私たちの内に染み渡るだけではなくて、外に向かって溢れ出るのではないかと思います。その時、人は、ここにはイエス様がおられると認めて当然だと思うのですけど、間違っているでしょうか?

ガラテヤ書5章1節を読んで終わりたいと思います。

ガラテヤ
5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

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