2017年12月8日金曜日

絶えず祈れ[7]祈りのかぎりない可能性

絶えず祈れ[7]
ゴットホルド・ベック著
祈りのかぎりない可能性

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33・3)

この聖句は「祈りのかぎりない可能性」を私たちに語っています。聖書を表面的に、その意味を深く考えないで読むひとでさえも、聖書のなかには、主に呼び求め、その祈りが聞きとどけられたひとびとの多くの実例があふれていることに気がつくことでしょう。ちょっと考えただけでも、アブラハム、モーセ、ハンナ、サムエル、ダビデ、エレミヤ、ダニエル、ヨナ、あるいはペテロ、パウロ、ヨハネと、その例にことかきません。かれらはみな、主がいかにかれらの祈りに答えてくださるかを経験しました。そして聖書は、「祈りのかぎりない可能性」を体験したひとびとのことが書いてあるだけではなく、私たちもまたおなじように祈り、おなじ体験をするようにとすすめています。イエス様が四つの福音書のなかでどれほど祈りの必要性をくりかえし指摘しておられるか、また書簡集のなかでどれほど信者の祈りの特権と責任がくりかえし強調されているか、そのことを考えれば、私たちも「祈りのかぎりない可能性」を体験するように強くすすめられていることがよくわかります。

2017年12月7日木曜日

絶えず祈れ[6]イエスのみ名によって祈る

絶えず祈れ[6]
イエスのみ名によって祈る

「絶えず祈れ」。「イエスのみ名によって祈れ」。これこそ、いま、キリスト者に与えられているもっともたいせつな主のご命令です。

「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14・13、14)

主は私たちの祈りを聞きとどけたいと思っておられます。たとえどんなに大きな願いでも、またどんな小さな願いでも、「イエスのみ名によって祈る」なら、かならず聞きとどけられます。イエス様ご自身が、この聖句のなかでそのことをはっきりと約束してくださっているのです。
「イエスのみ名によって祈る」ということは、祈りのおわりに決まり文句として「イエスのみ名によって」とつけ加えることではありません。「イエスのみ名によって祈る」とは主の栄光のために祈ることです。それは私たちに提供されている主なる神の豊かさをくみとることであり、イエス様の代理人として祈ることです。そしてまた、さらにそれ以上の意味でさえあります。パウロは当時の信者たちにつぎのように言っています。

2017年12月6日水曜日

絶えず祈れ[5]祭司としての奉仕

絶えず祈れ[5]
祭司としての奉仕

キリスト者はその生活のなかで、いつも「主はなにを望んでおられるのだろうか。主に喜ばれることはいったいなんだろうか。主がいちばんたいせつにしておられることはなんだろうか」という疑問に直面します。それをたずね求めるために、主は私たちに「絶えず祈れ」と呼びかけておられます。主の恵みによって「祈りのひと」になりましょう。そうすれば私たちは、まったくべつのひとに生まれ変わることができるのです。それを見て、私たちの家族や友だちも変わりますし、それだけでなく、私たちの周囲の環境すら変わってしまうのです。

きっとあなたは「そうなることが私の願いです。私も祈りのひとになりたい」と言うでしょう。ではいったいどうしたら、「祈りのひと」になることができるのでしょうか。

イエス様はあらゆる時代をとおして、もっとも偉大な「祈りのひと」でした。イエス様が十字架にかかられたとき、イエス様の横でやはりはりつけの刑に処されていた犯罪人のひとりはこう言いました。

2017年12月5日火曜日

絶えず祈れ[4]真剣な祈り

絶えず祈れ[4]
真剣な祈り

祈りとはいったいなんでしょうか。祈りとは、私たちと生けるまことの神との「結びつきのあらわれ」です。祈りのなかで、私たちは主の愛と恵みを心から感謝します。祈りのなかで、私たちは幼子のようにすなおに自分の願いを主にうちあけます。したがって「祈りとは、たましいの呼吸である」ということができます。

呼吸ができないと、ひとは死にます。おなじように、キリスト者でありながら祈らないなら、つまりたましいの呼吸をしないなら、そのひとはかならずまちがった状態におちいります。

前章において学んだとおり、祈りによって、宇宙を支配しておられるおかたのみ手が動かされます。祈りによって、私たちには驚くべき主の力が提供されるのです。「主なる神は私の祈りを聞きとどけてくださる」。この幼子のような信頼が私たちの特徴となるべきです。

主の恵みによって自分のほんとうの状態に目が開かれ、自分のわがままや罪を認め、救われたいと願う者は、だれもが「祈りの力」を体験します。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」というすすめに応じてイエス様のみもとにくる者は、イエス様が罪の赦し、心の平安、そしてほんとうの喜びを与えてくださることを体験します。

2017年12月4日月曜日

絶えず祈れ[3]祈りへのまねき

絶えず祈れ[3]
祈りへのまねき

私たちのキリスト集会では、福音のメッセージや証しが録音されているカセットテープをたくさん作っていますが、何年かまえ、そのカセットレーベルを新しくしました。そこには「祈れ!」ということばが印刷されています。これはたんなる標語などではなく、まさに主なる神のご命令そのものをここにはっきりとしるしたものです。またそのレーベルには、一条の明るい光がうえからさしこんでいるさまがデザインされています。私たちが祈るとき、主からの明るい光が私たちの心や私たちの周囲にさしこんできます。そしてその結果、問題があかるみにだされ、また傷があかるみにだされるだけでなく、それらがいやされるのです。

主は、全国のキリスト集会が「祈りの集会」となることを心から望んでおられます。祈りほどたいせつなものはありません。そして祈りほど必要なものはありません。ですから、「絶えず祈れ」というテーマについて、さらによく考えてみましょう。

2017年12月3日日曜日

絶えず祈れ[2]まことの祈り

絶えず祈れ[2]
まことの祈り

「祈り」は、私たちが主のため、またひとびとのためにすることができるもっとも大きなことです。祈りをとおして、主のためにご奉仕をするよりもはるかに大きなことがなされます。私たちが祈るとき、全能なる主は奇蹟を行なうことがおできになり、永遠に残る実を結ぶことがおできになるのです。

私たちは、ただ救われるためだけに救われたのではありません。私たちをとおして、ほかのひとびともまたイエス様のみもとに導かれなければなりません。あなた自身をとおして、さらに福音が宣べ伝えられなければなりません。福音が宣べ伝えられることは、主の大きな目的なのです。

では、福音が宣べ伝えられ、多くのひとびとが主のみもとに導かれ、まことの実を結ぶためには、私たちはどうしたらいいのでしょうか。その答えは、一にも二にも祈ることであり、まことの祈りの生活をおくることです。この章では、「絶えず祈れ」というテーマをさらに一歩すすめて、より深く、つぎのふたつのことについて考えてみましょう。

2017年12月2日土曜日

絶えず祈れ[1]絶えず祈れ

絶えず祈れ[1]

絶えず祈れ


絶えず祈りなさい。(1テサロニケ5・17)

いつでも祈るべきであり、失望してはならない。(ルカ18・1)

「絶えず祈りなさい」という聖書のみことばこそが、この本ぜんたいをとおしての大きな、そして基本的なテーマです。まことの祈りと悔い改めがどれほどたいせつなものであるか、それはいくら強調しても強調しすぎることはありません。そのことを私たちは、この本の全編をとおして聖書からごいっしょに学んでみたいと思います。

あるとき、イエス様を信じているひとびとが集まってお祈りをする「祈り会」で、八十歳をこしている男のかたがとつぜん立ちあがって、話しはじめました。

2017年12月1日金曜日

絶えず祈れ[0]はじめに

絶えず祈れ(上巻)

・・・キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです(第一テサロニケ5・18)

わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう(エレミヤ33・3)

イエス様を信じているひとびとだけでなく、どなたにもお読みいただきたいと心から願っています。
著者、ゴットホルド・ベック



はじめに

ここに「絶えず祈れ」の上巻を、本のかたちにしてみなさまにお届けできることは、大いなる主の恵みであり、感謝です。この本がなぜ刊行されたのか、はじめにちょっとだけその理由をあきらかにしておきたいと思います。