2021年4月1日木曜日

イエスの救い(五)進歩への道「ささげること」

イエスの救い(五)進歩への道「ささげること」
主は生きておられる、56号、2021年
ゴットホルド・ベック

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。(ローマ6:22)

今回はローマ人への手紙6章6節および11節から23節までを、ご一緒に考えてみたいと思います。主題は進歩への道、すなわち、「ささげること」です。

今まで考えてきた問いは、どうすれば、実際に、主イエス様の似姿が私たちのうちに形造られてくるのか、どうすれば、実際に私たちのあこがれの勝利の生活に達することができるのか、また、どうすれば、私たちの信仰生活が前進するのかということでした。

これらの問いに対する答えは、一番目に「霊的に知ること」、二番目に「信仰の計算をすること」、この二つでした。

進歩への道 第一、第二段階

主イエス様は今から二千年前に私たちの身代わりとなり、私たちの古い人、古い性質とともに十字架で亡くなられ、墓に葬られ、新しい全人類とともによみがえらされました。私たちはこのすばらしい歴史的事実を、心の目で見て、真の知識として知らなければなりません。これが進歩する信仰生活の第一段階でした。

しかし、この第一段階でとどまっていてはいけません。二番目に、信仰の計算をすることにより、二千年前になされた歴史的事実を、自分個人のものとして受け取らなければいけない、ということも前回、考えました。

主イエス様が亡くなられた時、私たちは、イエス様のうちにありました。主イエス様がよみがえられた時、私たちは、イエス様のうちにありました。主イエス様が天の御座に着かれた時、私たちは、イエス様のうちにありました。これらの驚くべき事実が、信仰の計算によって自分のものとなる時初めて、私たちは、主と同じ姿に変えられていき、勝利の生活を送ることができ、また、信仰生活が徐々に前進するようになるのです。

いわゆる水の洗礼は、信仰によって体験したことを証しする式です。イエス様とともに死に、ともによみがえらされたという事実を心の目で見た人だけが、幸いな洗礼の式典にあずかることができるのです。歴史的救いの事実を啓示によって知り、信仰の計算により自分のものとした人は、このように洗礼を受けて、証しをするようになるわけです。主を証しする者となるよう、主は、私たちの成長を願っておられます。そして、それは、私たちが自分を「ささげること」なくしてはあり得ません。

進歩への道 第三段階 「ささげること」

信仰の進歩のための第一段階は知ること、第二段階は計算することです。それに続いて第三段階は、「ささげること」です。私たちは自分自身を「奴隷」として、主である神にささげることが大切です。もし私たちが、主の定められたゴールに達しようと思うなら、この第三段階も通らなければなりません。ローマ人への手紙6章12~13節には、次のように書いてあります。

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(ローマ6:12~13)

この12節から6章の終わりまでの間に、もっとも多く出てくることばは、「ささげる」ということばです。13節、16節、19節と合わせて五回、このことばがでてきます。見てみましょう。

あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6・16)

あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(ローマ6・19)

多くの人々は、クリスチャンが聖められていくことについて話す時、よく、「自分自身を神にささげなさい」と言いますが、いったい、何をささげるのか明確には言いません。私たちは何をささげるのか、はっきりさせたいと思います。

その前に、逆に、何をささげることができないのかと言えば、古い人、自分の知恵と力、生まれながらの能力と賜物は神にささげることができません。

主である神は、古い人を呪い、十字架の上で判決を下し、裁かれました。古い人に属するものを、神は何一つ受け入れようとはなさいません。

では、何を私たちはささげることができるのでしょうか。13節に、「死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」と書かれています。ここにその鍵があります。

私たちは、古い人ではなく、主とともに死に、ともによみがえらされた新しい人をささげなければなりません。

神に自らをささげるというのは、「古い人は主イエス様とともに十字架に死んで、すでにさばかれてしまっている」という信仰の計算をした結果、初めてなされるものです。この信仰の計算は、イエス様の救いの事実を知ることを土台としているのは言うまでもありません。はじめに知り、次に信仰の計算をすると、神は私たちに「自分自身を神にささげなさい」と言われます。

もし私たちが、自分の古い人は主とともに十字架で死んでいることを心の目で見て、知るならば、それを計算して自分のものとするのは当たり前のことです。

ですから、以前、述べたように、ローマ人への手紙6章6節と11節とは、いっしょに読むべきです。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(6節)、「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(11節)と、みことばは語っています。

もし、私たちが自らが新しい人として、主とともによみがえらされていることを心の目で見るならば、私たちがキリストにあって、神に生きている者であることも、当然のこととして知ることができるはずです。この二つの段階を自分のものとした人は、自然に第三の段階に導かれます。すなわち、自分自身を「奴隷」として、神にささげるように導かれます。

人は、死からよみがえることがなければ、神にささげることはあり得ません。なぜなら神は、決して、汚れた古い人を受け入れられないからです。私たちが自分自身を主なる神にささげるために準備となるその土台は、「死んで、よみがえること」です。

ここから三つの問いを設けて、もう少し学んでいきたいと思います。第一番目は、「何をささげなければいけないのか」。答えは、「私たち自身」です。第二番目は、「誰にささげなければいけないのか」。その答えは、「主に」です。そして、第三番目は、「どういう者としてささげるのか」。答えは、「奴隷として」です。

その1 何をささげるのか

では、一番目から順に学んで行きましょう。私たちは何をささげなければいけないのでしょうか。

ローマ人への手紙6章13節と17節には、自分の肢体を「義の器」(道具)として、また「義の奴隷」としてささげなさい、と書いてあります。主は、私たちが肢体の全部をささげることを望んでおられます。自分はもう自分のものではなく、「主のものである」ということを知るのは、実に深い体験です。

例えば、五千円があなたのポケットにあるとします。それがあなたのものならば自由に使うことができますが、そうでないなら使えません。自分のものでないお金は自由に使えません。これと同じように、自分はもう自分のものではなく、、主のものだ、ということをよくわきまえているなら、信仰生活は急速に前進することでしょう。

私たちは、「死んで、よみがえることにより」、自分自身が主のものとなってしまったことを、本当に知っているのでしょうか。私たちにあるすべてのものは、私たちのものではなく主のものです。

私たちの所有しているお金は、自分のものではなく、主イエス様のものです。私たちが毎日、過ごす時間も主のものです。私たちは時間を自分で計画して使うのでしょうか、それとも、主の導きのままに用いるのでしょうか。私たちの時間は主のものです。また、あなたはいろいろな賜物や能力を持っていますが、誰がそれを自由に使うのでしょうか。あなたですか、それとも、主でしょうか。お金を自分で分け与えたり、時間を自分の都合で使ったり、賜物を自分の考えで使うのでしょうか。それとも、主が指図して下さるように使うでしょうか。

私たちは、自分の金銭や時や賜物が、すべて主のものであることを深くわきまえているでしょうか。

ある日、一人のクリスチャンが、未信者の人と電車で向かい合って座りました。未信者の人は三人でした。しばらく行くうちに、未信者の三人は退屈してきて、「遊ぼう」と言い始めたのです。ところが遊びは、四人でやる遊びです。三人は信者の兄弟に、「いっしょに遊ぼう」と言いました。

ところが、信者の兄弟は、私には、「手がありません」と言います。三人が驚いたような顔をして不思議がると、信者の兄弟は言いました。「私が持っているこの手、また私の持っているすべてのものは私のものではありません。私を救って下さったイエス様ものです」と説明しました。

愛するみなさん、これが主の聖さにあずかっている人の特徴です。みことばに、「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」(19節)と書き記されています。

その2 誰にささげるのか

続いて第二番目の点、私たちは自分自身を誰にささげるのでしょうか。

13節に、「あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」と書かれています。

多くの人々は、キリスト者が聖くされるのは、その人の内から悪いものが取り除かれることだと考えていますが、それは誤りです。聖さは、自分を全く主にゆだねることです。繰り返して言いますが、「聖さとは、自分を全く主にゆだねること」です。

旧約聖書を見ると、神はある人をご自分のものとして用いたいと思われた時、その人に油を注がれました。人々はその人が油注がれた時、聖くされたと認めたのです。なぜなら、油注がれた人は、その時から主の指図に従う者となり、主のものとなるからです。

人間の場合だけではなく、小羊やまた、金、銀も、油を注がれた時に聖いものとされました。小羊や金から、悪いものを取り除くなどということは考えられません。油注がれることにより主のものとなって、聖いものとされるのです。

「自分のすべてを主にささげます。私は全く主のお指図に従います」と心から言い表わすことが、真に聖くされることです。

ところで、自らを主にささげるためには、私たちはもうすでに自分が主のものとなっていることを知らなければなりません。主のものであるから、当然、持ち主である主にささげるのです。

主にささげるというのは、何かぼんやり漠然としたことではありません。はっきりとした体験です。私たちは、「私は自分のものではない。主のものである。だから、今日、今から、主にささげます」とはっきりした一つの線が引かれる日があったはずですし、また、そうでなければ、今後、あるはずです。

多くのクリスチャンは、ささげるということを誤って考えています。ささげるということは、神学校へ行ったり、宣教師、伝道師になることだと思っています。そして神学校を卒業して、意気揚々と、ご奉仕を始めるのはよいのですが、生まれつきの古い人のままで、ご奉仕をしようとします。これは決して、主にささげることではありません。本当の献身ではないのです。

ささげるということは、いわゆる「ご奉仕」をすることでしょうか。決して、そうではありません。真の決心、真の献身は、「主の御心に自らをゆだね、主の望まれるままに事をなすこと」です。

ダビデ王は立派な家来たちを持っていました。しかし、この家来の中には、門番もいたでしょうし、将軍もいたことでしょう。ダビデは自分の思いのままに、家来をそれぞれの務めに任命しました。

これと同じように、もし主がそうしなさいと言われ、それが主のみ旨ならば、私たちは門番にもならなければいけませんし、将軍にもなりましょう。

おわかりになったでしょう。大切なのは、主の御心です。私たちが、あれやこれやと選ぶのは、いけないことです。もし私たちが主のものなら、私たち一人ひとりに、主のお定めになった道が備えられているはずです。

また一番、大切なことは、「主」は、私たちをどの道に導きたいのか、ということを自分自身が知り、主の求めておられる道を歩むことです。

「主よ。私は自分をあなたにささげます。あなたが求めておられる道を知り、その上を歩みたいです。それが私の唯一の願いです」と、心から主に言い表せたら、それこそが、まことの献身です。

私たちは生涯の終りに、「私は戦いを立派に戦い抜き、走るべき行程を走り尽くし、信仰を守り通した」と言えるようにしたいものです。しかし、これと違い生涯の終わりに、「私は、主の道を歩まなかった。小羊の行くところに従わなかった。私は自らの道を選んでしまった」と言わなければならないようなら、それこそ悲劇です。

私たちのいのちは、一つしかありません。私たちが、この地上で生活できるのは、ただの一度だけです。もし、この生涯において、自らの道を、自分の意志で選びとるなら、主は決して、ご栄光をお受けになることができません。

「私は自分のために何にも欲しくありません。ただ主だけがみ栄を得てくださいますように」という立場を、その願いを、あこがれを、絶えず持ち続けたいものです。

私たちは自らの願い、計画、目的を握っているのでしょうか。それとも、主の御心をなすことが、自分のすべてとなっているのでしょうか。神のみ旨はあなたにとって善であり、喜ばしいことであり、また、完全であるのでしょうか。

問題は、私たちの意志です。自らの意志を十字架に付けてしまい、そして、あますところなく、主にすべてをささげるかどうかが問題です。

仕立て屋さんに洋服を作ってもらう時、生地を与えなければ洋服屋さんはどうすることもできません。家を建てる時、建築業者にお金を払わなければ、業者は材料を買えませんから、どうすることもできないでしょう。

それと同じように、もし主がご自分のいのちを私たちのうちに豊かに与え、ご自身の形を私たちのうちに形造ろうとされても、私たちが自分自身を主にささげなければ、どうすることもできないのです。あますところなく、全く主におささげしましょう。

その3 どういうものとしてささげるのか

最後に、第三番目の問いになりますが、私たちは、自分自身をどういうものとして神にささげればよいのでしょうか。

みことばは、私たちが自分を「奴隷」としてささげるよう求めています。もし私たちが、自分自身をあますところなく、全く主にささげ、ゆだねるなら、いろいろな点で改めるべきことが起こってきます。職場の中で、家庭の中で、自分の私生活で変化が起こるはずです。考え方も変わってくるはずです。

なぜなら、主は、私たち自らのうちから出るものをお喜びになりません。古い人のままでささげることをお嫌いになります。主は、私たちの痛いところに手を置き、これはいけない、直さなければいけないとおっしゃいます。

また、あなたは、今まで自分がかけがえのないものとして大切にしてきたものを主におささげしているでしょうか。自分の好みを捨てて、主におささげしているのでしょうか。あの関係、この関係と主に喜ばれていない関係を、すっきりと絶ち切っているでしょうか。また、これから絶ち切ろうとしているのでしょうか。

主に逆らおうとするのは、もっとも愚かしいことです。あなたは、まだ主におささげしていないものを持ったままでいるのではないでしょうか。もし、すべてを主にささげたら平安がなくなるという思いから、そのことのために心を用いて祈ろうともしていないのではないでしょうか。もちろん、そのままの状態を続けることはできるでしょう。しかし、それは、主の御心ではありません。主に逆らうのを止めて、自分の心に主をお迎えする場所を空け、主にすべてをおゆだねするなら、限りなく豊かなすばらしい祝福があなたに訪れることでしょう。

私は自分のものではなく、主のものであるということを知るのはすばらしいことです。地上で、これ以上、偉大な喜びに満ちたすばらしいことはありません。

この真の知識を得て初めて、主が絶えずご臨在されるのを知ることができるのです。もし、自分が完全に主に属する者であること知らないなら、主が常に自分のかたわらにおられることもわからないでしょう。

もし、私たちが主にすべてをささげ、主の指図される通りにして自らを全くゆだね、主のご支配の下に入るなら、自分の興味を満足させようなどという考えはなくなります。ローマ人への手紙6章16節に、次のように書き記されています。

あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6・16)

ここに、しもべではなく「奴隷」ということばが使われていますが、しもべと奴隷との間にはどんな違いがあるのでしょうか。

しもべは一人の主人に仕えて働きますが、自分自身が自分の主人であることには変わりがありません。自主性があります。ですから、しもべは、もし主人が愛してくれなければ、こんなところはもうたくさんだと言って、他の主人を選び、そこへ行って働くことができます。

これに対し、奴隷は主人に仕えるばかりではなく、奴隷自身が主人のものなのです。奴隷は自分自身のことを自分で決めることも、選ぶこともできません。自らは自分のものではなく主人のものだからです。

聖書は、救われたキリスト者は、例外なく主イエス様の奴隷であると言っています。主イエス様は、その尊い血潮で私たちを買い取って下さいました。

「主に買われた」という事実を知るなら、私たちはそのすべてを主にささげなければいけません。私たちは、自ら決定して、主の奴隷とならなければいけません。主は私たちに強制されません。強制されて奴隷になった奴隷を主はお喜びになりません。

今日のクリスチャン生活における多くの悩みは何でしょうか。

多くの信者は、「私は主のためにご奉仕します、私は主に自らをささげます」と言いますが、回心前の生まれながらのものをもって、そのように言っています。これは、まことの献身とは言えません。まことの献身を、聖書はどのように記しているでしょうか。

ヨハネの福音書6章に書き記されていますが、ガリラヤの湖畔で、主イエス様に自分の持っていたパンをささげた一人の少年がいました。ささげられたパンを、主はどうされたでしょうか。いくつにも裂かれました。主はそのように、ささげられたものを裂いておしまいになります。主はささげられたものを、御手の内に納め、砕き、全く粉々に砕かれます。しかし、主はパンを裂いた後、それを祝福し、五千人の空腹を満たされました。

同じように、主にささげたものを主は砕かれますが、その後に祝福し、他の人の悩みを癒すために用いたまいます。

もし、今日あなたが、「主よ、すべてをおささげします」と言って自らをささげるなら、主は御手の内であなたを砕きます。

「私たちは簡単に、また、いたずらに「主におささげします。献身します」と言わないようにしましょう。主は、あなたのその言葉をいたずらに受け取ることはなさいません。真面目に受け取ります。そのとき、あなたは砕かれ、自らの有り様を知り、失敗と弱さを悟り、失望し、主の導きを疑うようになるかも知れません。もし、そのまま疑い続けたら、その最後は、どのようなことになるのでしょうか。砕かれた器、役に立たない器がそこに残るだけです。他の人の悩みも、あなたを通して癒されることはなく、主もあなたを祝福することができません。これはどういうわけでしょうか。

それは、あなたが主の御手の内で、全く砕かれ切ることを望んでいないからです。これは多くのクリスチャンの悲劇です。

奴隷として、私たちは自らを主にゆだねましょう。奴隷として、私たちは自らを主にゆだねなければいけません。奴隷は、自分のすべてが主人のものであることを知っており、自分はどうなろうと、どうされようと主人の権利だということを認めています。

この態度をとることを、主は待ち望んでおられます。もし、この態度をとるならば、それこそが真の献身です。

真の献身とは、伝道者や宣教師になることではありません。自分の意志を主のご意志にゆだねることです。どこに行っても、時と所を限らず、会社でも、家庭でも、また、海の上にいても、野原にいても、すべてを主にささげることです。

どこに主があなたを導かれようと、主の導かれるところはあなたにとって最上のところであるはずです。全く主にゆだね、小羊の行くところに従う人は、誤解と、悩みと、迫害の道を歩むようになるでしょう。しかし、小羊に従う者は、やがて小羊のおられる栄光に満ちた天に導き入れられるのです。

愛する兄弟姉妹よ、私たちは全く主のものです。あますところなく、主イエス様のものです。私たちの体、私たちの肢体全部が主のものです。

しかし、私たちが自分で事をなし、自分で事を決するなら、霊的な断絶、放蕩に陥ることになります。主の前では、いわゆる姦淫が悪いでしょうか、それとも霊的な姦淫の方が悪いのでしょうか。コリント人への手紙第一6章13節の後半をお読みいたします。

からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。(1コリント6・13)

最後に、同じく6章15節と19節、また20節を読んで、終わりたいと思います。

あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(1コリント6・16、19~20)

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