2021年5月22日土曜日

どんなことでも、神にはできるのです

どんなことでも、神にはできるのです
2021年5月23日、秋田福音集会
藤田 匡

マルコ
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

これは、イエス様が語られた言葉でございます。これは、弟子たちに、イエス様が語られた言葉ですけれども、この直前に、イエス様を一人の青年が訪ねてまいりました。その会話の後で、この言葉をイエス様が語られました。この青年とイエス様のやりとりの場面につきまして、少し見させていただきたいと思います。

マルコ
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。」

このように、主の御前に、一人の青年が訪ねてまいりました。そして、この青年は、『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうか』と、そのように、イエス様に尋ねております。この青年は、永遠のいのちを受けることを望んでおりました。そして、彼は、ここで、『私は何をしたら良いのでしょうか、私は何をしたら良いでしょうか』と、そのように語っております。

この青年は、自分自身がすることによって、永遠のいのちを受けることができると、そのように考えておりました。そして、ここで青年は、主イエス様を、『尊い先生』と呼んでおります。卓越した人物、また、真理を教えて、指し示す方、そして、できる限り、近づけるよう努力して、目標とすべき方として、主イエス様を、彼は見ておりました。

しかし、主イエス様は、真理そのもの、また、いのちそのものであられるお方でありました。そして、このような青年に対して、主イエス様は戒めを示されました。

マルコ
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」

この青年は、自信に満ちておりました。20節にありますように、『先生、私はそのようなことをみな、小さい時から守っております』と、彼は述べております。この青年は、自分の行いの正しさを根拠として、主の前に出、そして、救いを自分のものとすることができると、信じて疑いませんでした。この青年は、自分自身の主から離れた、失われた状態には、全く目が開かれておりませんでした。この青年にとりまして、自分が主を必要としており、十字架の贖いを必要としている者であるということは、全く思いもよらないことでありました。

マルコ
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。・・・・

主イエス様は、このような青年を見つめられ、そして、いつくしまれたと、書いております。

マルコ
10:21 ・・・・「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

ここで、主イエス様は、この青年が到底なしえないことを示されました。財産を売り払って、貧しい人たちに与えなさい。そして、さらに、その上で主についてくるようにと、このように語られました。これは、青年の善意や熱意では、全く不可能なことでありました。

マルコ
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

青年は、主イエス様が示されたことが、自分自身では、とても負うことができないことだと、自分の力のなさを見せられました。この時、彼が、『私にはできません。私は汚れきったものです。助けてください』と、主に叫べば、そして、何も持たない汚れきった者として、へりくだりをもって、主の前に出れば、主は喜んで彼を受け入れ、十字架の救いのうちに招き入れて、彼のいのち、そのものとなってくださったことでしょう。

しかし、この時、彼は悲しみながら立ち去ったと書いてあります。この青年は、自分にはできないということを受け入れられなかったようでありました。この青年は、多くの財産を持っておりました。しかし、同時に、心の内でも、彼自身の正しさ、また、有能さ、そして、彼自身が持つものを、固く握っておりました。

マルコ
10:23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

弟子たちは、この様子を見て、救いが人間の手のはるかに及ばないところにあるということに驚きました。主イエス様は、はっきりとここで、それは、人にはできないことですおっしゃいました。人には、自分のいのちを救うことは、決して、できない。人間には贖いの代価を負うことは不可能であると、おっしゃいました。汚れきった人間から出る肉の働きは、主の御前から、完全に退けられていることを示されました。

しかし、同時に、イエス様は、『神はそうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。』このようにおっしゃいました。人の働きがやみ、人が力ないものとされ、主のみに望みが置かれ、主にのみ栄光が帰される時に、主が働かれます。そして、一点の汚れもない主は、救いを完全に成し遂げられるお方であられます。

主は、私たち一人一人のために、十字架でご自身のいのちを捨ててくださるお方であり、また、私たち一人一人のうちに、いのちをもたらされるお方であられます。

マルコ
10:28 ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」
10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、
10:30 その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。
10:31 しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」

ここに、一人一人の歩みにおける、十字架の働きのことが書かれております。ここで29節に、『わたしのために家族や所有物を捨てる』と、このように書かれております。すなわち、すべて自分のものではなく、主のものとすることが書かれております。自分の持つもの、さらに、自分自身を主に明け渡し、主にお委ねすることが、ここに求められております。

そして、『迫害の中で受ける』とあります。自分は理解を得られなくてもよいという態度をとる――自己否定がここに示されております。主との関係が第一とされること、自分の上に起こされるすべてに、主の支配権を認めることが、ここに求められております。歩みにおけるひとつひとつの働きが、主イエス様の十字架の贖いの対処を受ける必要が示されています。歩みにおけるひとふひとつの働きを通して、主イエス様のいのちが流れ出る必要があることが示されております。

主イエス様は、私たち一人一人のうちに生きて働いてくださるお方であられます。私たちが小さいものとされ、私たちに代わって、主ご自身が私たちのうちに計り知れない力を持って働かれる時、手放したものの百倍もの祝福があるということが、ここに書かれております。このお方の御前にひれ伏し、このお方により頼むべきであります。このお方が全てにおいて、全てとなられるべきであります。

そして、同時に31節でイエス様は、『しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです』と、語られました。28節でペテロは、血気盛んに、『ご覧ください。私は、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました』と、力強く語りました。ペテロは、自分自身の力に自信を持っており、誇りとしておりました。

しかし、主に従うことにおきましても、人間は無力であります。主のみわざは、主ご自身によってなされる必要がありました。汚れた人間から出る働きが、道を占めることは認められませんでした。人には、ただ主により頼み、主の前に小さいものとして出ることが求められます。

マルコ
10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。
10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

これら、いのちのみわざのすべてが、主イエス様の十字架のみわざによっております。主イエス様は、この大いなるみわざを成し遂げられるため、十字架にまっすぐに向かわれました。

主の御前に導かれて、主の御前に立つ立場を明らかにされた人について、別の箇所に記されております。

マタイ
15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。

ここで、カナン人の女がイエス様のもとに来たことが書かれております。彼女は、異邦人でありました。ここで、彼女が、『ダビデの子よ』と呼んだとき、イエス様は、『わたしはイスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません』と、弟子たちに向かって言われました。イエス様は、イスラエルの民に遣わされておりました。異邦人への働きは使徒の時代からでありました。

マタイ
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。

彼女は、ここにありますように、さらに、『主よ』と、造り主であられる主イエス様にひれ伏して、呼びかけております。『私をお助けください』と語っております。彼女は、滅びた羊として、自分ではどうすることもできない、主に救い出していただくしかできない無力な者として、主の前に出ました。

マタイ
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

主イエス様は、ここで、このカナン人の女に向かって、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』と、彼女が異邦人であることを告げられました。これに対して、彼女は、『主よ、そのとおりです』と申し上げました。自分は主が言われるとおりのものであると申し上げました。自分は、主に目を留めていただく理由のない、汚れきった、どうしようもないものであるということを、主の御前に申し上げました。しかし、主なしでは、やっていけないものである――主を必要とするものであると、彼女は告白しました。彼女は、主が示される自分の姿に、ただ、『主よ、そのとおりです』と、申し上げました。

マタイ
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

このような彼女に対して、イエス様は、『ああ、あなたの信仰は立派です』と語られました。決して、主は、『仕方がないのであなたの願い通りにする』とは、言われませんでした。『あなたの信仰は立派です』と、おっしゃったのであります。

主の御前に、何も持たない小さいものとして、へりくだりと従順を持って出るものを、ここに主は、心からよろこんで、受け入れてくださったのを見るわけであります。

ルカ
18:15 イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
18:16 しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
18:17 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」

イエス様はここで、『子どものように神の国を受け入れるものでなければ、決してそこに入ることはできません』と語られました。

幼子は、自分自身では何もすることができないものであります。親に全てを依存しております。幼子は、親を見失うと平安を失い、泣き叫んで親を求めます。彼らは、自分自身の内には、平安の根拠を何も持っていないわけであります。しかし、また、親を再び見出すと、それだけで平安のうちに戻ります。親のもとにいることが、彼らの唯一の平安の根拠であります。このような幼子の姿に、従順、より頼み、また、へりくだりを見ることができます。主イエス様は、『神の国はこのような者たちのものです』と語られました。

主イエス様は、ご自身と父なる神様との関係につきまして、次のように語っておられます。

ヨハネ
5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」

主イエス様は、父なる神様との絶えざる交わりのうちにおられました。絶えず、父なる神様の御心を求められ、これに完全に従われました。父なる神様に対する完全な従順を全うされました。従順とへりくだりによって特徴づけられる主イエス様の姿に、先ほどの幼子たちと同じものを見ることができます。このような主イエス様と父なる神様とのあいだの関係と同じような関係を、主イエス様は、ご自身と私たちとのあいだに求めておられます。

ヨハネ
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

ここに、主イエス様なしでは何事もすることができない人の姿が書かれております。この人は、従順とへりくだりをもって主の前におります。主に絶えず、より頼み、どのようにしたらよいのでしょうかと、主に尋ねつつ歩む人が描かれております。その人は、主のうちにとどまり、主もその人のうちにとどまる書いてあります。

主との絶えざる交わりのうちをあゆみ、主とひとつとされた人の姿であります。そして、『そういう人は多くの実を結びます』と書かれております。小さいものとして、へりくだりを持って、主の御前に出る人を通し、主ご自身が豊かに働いてくださり、計り知れない力をもってみわざを成し遂げてくださいますことは、大きな恵みであります。

最後にみことばを読ませていただいて終わりたいと思います。

詩篇
8:1 私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたはご威光を天に置かれました。
8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。

イザヤ
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

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