2021年2月7日日曜日

パウロの異言

パウロの異言
2021年2月7日、秋田福音集会
岡本 雅文

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

イエス様を心から信じるようになって、そして、イエス様を受け入れたときから、理解しにくい聖書の箇所に、たくさん出会いました。そのような箇所の中には、聖書が書かれた時代と現代の風習や様々な背景の違い、また、御言葉の現代訳と言語の意味の違いなどの情報が与えられることによって、理解が進むことも確かにあります。ですけれども、聖書が伝えるもっとも大切な神ご自身との交わりは、そのような情報のあるなしにかかわらず、最後の晩餐でイエス様が約束してくださった、もう一人の助け主、すなわち、聖霊、御霊によって、私たちを導いてくださるということが分かります。

ヨハネの福音書の14章の26節をお読みまします。最後の晩餐のあの場面です。

ヨハネ
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

聖霊が全てのことを教えてくださる。そして、イエス様が話してくださったことを、全て思い起こさせてくださると、イエス様ご自身が、最後に約束してくださいました。今日も同じですけれども、人が語る聖書のメッセージは、次に紹介する黙示録の御言葉に抵触する場合や、説明不足による大きな誤解を与える危険性が常につきまといます。

黙示録
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

ここには、この書と書いて、黙示録のことを指していると思われますけども、聖書全編もこの精神、この御言葉のとおりに、つけ加えることも、取り去ることもできないと言われていると思います。この御言葉を怖れつつ、パウロが注意深く取り扱っている異言という言葉を切り口にして、主イエス様の御心、すなわち、主なる神の御心を、聖書に、ともに、訪ねてみたいと思います。

今日はまず、聖書では、異言をどのように扱っているかを、パウロの手紙から確認したいと思います。そして、その後、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、目標を目指して一心に走り続けた、あのパウロに与えられた力と喜びと平安が、どのような恵みだったか、どのような種類の恵みであったかを確認したいと思います。そして、最後に、パウロに与えられた恵みと、全く同じ恵みが私たちにも約束されているということを確信できるように、ご一緒に、主に願い求めたいと思っています。

私は昔から、理解しがたい御言葉を、仮置きする場所、一時保留しておく場所を、自分自身の心の中に作って、心の蔵、あるいは、宝の蔵という名前で、勝手に呼んでいるんですね。そして、理解しにくい聖書の箇所に出会うたびに、この心の蔵に放り込んでまいりました。保留してきたということなんですね。たくさん、入っています。そして、この蔵に納められた御言葉の多くは、時が来ると、根が這い出るように、御言葉自身が語り出してくださいました。このような経験を数多くしてまいりました。

本日のテーマであるパウロの異言に関する一連の御言葉は、このような私自身の心の蔵に、長いあいだ、しまい込んでいた、理解し難い御言葉のひとつであります。その御言葉は、新約聖書に書かれている第一コリントの十四章、その中から少し、飛び飛びにお読みいたします。

第一コリント
14:5 私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。

14:18 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています。

14:39 それゆえ、わたしの兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。
14:40 ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。

私が、異言ということについて、簡単に、切って捨てることができなかった理由は、今、お読みした18節の『私は(パウロは)、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています』というくだりと、39節の『異言を話すことも禁じてはいけません』という御言葉の存在でありました。どのような理性を納得させるような理由があるにしても、簡単にこの御言葉を無視すること、すなわち、取り除くことは、私自身とってできなかったことであります。

現代では、異言はもう必要ない、むしろ、福音のつまずきになると、多くのキリスト者は考えているのではないかと思います。ほとんどの場合は、私自身もその通りであると考えています。しかし、今、申し上げたように、パウロ自身が語る箇所を聖書から取り除くことは、私にはできませんでした。『できませんでした』というよりも、できません。ですから、異言は必要ない、福音のつまづきになると言い切るには、何かが足りない、何かが欠けているという思いが、ぬぐえなかったのであります。

確かに、私が耳にする、現代に見られる異言の多くは、狂信的で、人々を福音から遠ざけるものであると考えます。2000年前のパウロが福音を伝えたコリントの教会、コリントの集会でもそうだったようです。パウロが同じ第一コリントの14章の23節で語った通りであります。

第一コリント
14:23 ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。

このように考えた冷静なパウロが、そのうえで、集会で異言を話すなら、どのように話すべきかを次の、同じ14章の27節、28節で、冷静に、また、明確に告げています。

第一コリント
14:27 もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。

解き明かしをしなさい。不明瞭なままではいけないと、言っています。

第一コリント
14:28 もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。

ですから、このパウロの言葉によれば、私たちは、不明瞭な異言を聞くことが無いはずであります。もし、聞いているとしたら、それはおかしいこと、聖書に反すること、そのように、パウロは告げています。ですから、パウロによれば、意味不明な異言だけが、複数の人々の前で語られるということは、主イエス様に対する信仰から出たことではないと、言っていると判断して良いのではないかと思うんですね。そのような信仰から出ていないことは、みな罪ですと、パウロは別の手紙、ローマ人への手紙、14章の23節で語っています。

ローマ
14:23 ・・・・信仰から出ていないことは、みな罪です。

ですから、聖書そのもので、異言のことを考えると、解き明かされない意味不明な異言が語られるということは、罪そのものであると、聖書自身が語っているように思われます。兄妹姉妹がたがよくて知っておられる通り、パウロは異言について、次のようにも述べています。

第一コリント
14:26 兄弟たち。では、どうすればよいのでしょう。あなたがたが集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。

当時、コリントの集会では、異言が話されていたと分かります。しかし、解き明かしと共にされていた、そして、その目的は、徳を高めるため、集会の徳を高めるため、救われたものの徳、そのように聖書は語っています。

このように手紙に書いたパウロ自身が、前にお読みした18節の『私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています』という言葉と、『異言を話すことも禁じてはいけません』と、明確に告げているとすれば、異言を語る全てを、一律に否定すべきではない。これが、黙示録の22章の18節、19節、最初にお読みしたその御言葉に従う信仰者の態度ではないかと、ずっと思わされてきたのであります。

それに加えて、パウロのようなあの人格を持った兄弟が、人が気違いというような異言を語るだろうかという思いも、ずっと持っておりました。何かが足らない、まだ、何か聖書が語りたいことがあるのではないかという思いを持っていたのであります。こうして、パウロが話す異言とはどのような異言なのかがぼんやりとしたまま、何かが足らない、何かが欠けているという思いが残った状態で、心の蔵の中に放り込んでおりました。そして、長いあいだ、第二コリントの14章の39節の『異言を話すことも禁じてはいけません』という御言葉は、パウロが話す異言について、聖書は、何かを告げようとしておられるという期待とともに、心の蔵に保管されたままでありました。

私自身の理性と信仰による御言葉への探求と言いましょうか、その求める思いは、ここまでが限界でした。パウロが告げる異言について、ピリオドを打つことができませんでした。一方、私は、今日、最初に読んでいただいたローマ書の8章の26節の御言葉が、いつも気になっていました。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのために(・・・・私のために・・・・)とりなしてくださいます。

日本語の意味は分かるのですが、本当の意味、霊的な意味は、よく理解できませんでした。それでも、この箇所を読むといつも、慰めと平安が与えられていたのです。

あるとき、この御言葉を読みながら、自然に祈りに導かれたときでした。私自身の内側で何かが起こっているというのが分かりました。主の霊、御霊がうめいてくださっている、私のためにうめきによって、神にとりなしてくださっている方がおられる。御霊が、神の御心に従って、御心にかなうとりなしをしておられる、また、御心にかなう願いをしてくださっている。神は、必ず御霊の思いを知っておられ、聞いてくださっている。もう御霊のとりなしが天に届いている。どう祈ったらよいか分からない私自身の言葉にならない祈りは、もうすでに神に届いている。それどころか、私の望み、想い、願いをはるかに超えた祈りが、既に天に届けられた、既にかなられたと、聖書全編から聞こえてくる御言葉通りに、既に完了しているという喜びが、また、確信が、この中に満ち溢れたのであります。

このような種類の恵みが、パウロが経験した体験であり、彼の霊の証しであり、パウロはいつも、このような神との交わりの中で生きていたのではないかという思いに導かれたのであります。この26節そのものが、パウロ自身が体験した証しそのもので、今もずっとそのような生活をしていたのではないか。この手紙は、パウロ自身の手紙ですから、彼の内側に与えられた神との祈りの交わりの説き明かしに違いないと、主に感謝せざるを得ませんでした。

そして、第一コリントの14章の18節で、パウロが語った御言葉が思い起こされたのであります。

第一コリント
14:18 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています。

そして、さらに、ローマ書の8章の26節、27節は、パウロの言葉にならない異言、いや、むしろ御霊ご自身のいいようもない深いうめきの異言の交わりを、彼自身が、彼自身が経験したその異言そのものの意味を、解き明かしてくれている御言葉ではないかと導かれました。

第一コリントの14章の13節は、パウロ自身に与えられた恵みの証しではないかと思います。こう書かれています。

第一コリント
14:13 こういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

パウロは、こう祈っていたのではないでしょうか。

本日、ご一緒に味わった、パウロが手紙に書いて残してくれた、これらの御言葉に触れるとき、また、これらの御言葉をもって主に祈り始めるとき、繰り返し、この喜びに触れるようになりました。そして、パウロが神に話した声にならない異言と、言いようもない深いうめきによってとりなしをされた、御霊の応答は、決して、人が気違いというような異言ではなかったという、嬉しい想いに満たされました。

パウロが解き明かした彼の異言は、私にとっても、どのように祈ったらよいか分からない弱いパウロを助け、御霊ご自身がいいようもない深いうめきによって、彼のためにとりなしてくださった、そのような喜びと感謝と励ましの満ち溢れた、平和そのものでありました。

その日、私は一人、静かに異言にピリオドを打つことができました。たとえ、どのように祈ったらよいか、分からなくても、主に向かってに真実に求めるなら、深いうめきによって、とりなして助けてくださる方がおられるということ、パウロが自分自身のその状態を、私たちにこれほどまでに開示してくれたのですから、この恵みが私たちのものであることを、確信させていただけるように、互いに祈り合うことができたら、本当に幸いであります。

今日、兄弟、また、姉妹とともに体験したかったこととは、この主の、イエス様の恵み、主の御愛を確信にまで――確かめるだけではなくて――確信にまで高めていただきたいという、そういう御心にかなった願い、また、御心にかなった祈り、そして、パウロの異言を、私たち自身の生活の中に、実現させていただきたいと心から願います。

第一コリントの14章の2節をお読みいたします。パウロの言葉です。

第一コリント
14:2 異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。

このように導かれる。それは、気が触れた、そのような言葉では、決して、ありません。

終わりに、少し長いですけれども、二箇所、お読みして終わりたいと思います。最初は、冒頭で読んでいいただいた箇所の前後を含めて、お読みいたします。

ローマ
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

聖書には書かれてませんけど、『そういうわけですから、』

8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

そして、もう少し後の同じローマ書の15章の13、14節。

ローマ
15:13 どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
15:14 私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。

以上で終わりにいたします。どうも、ありがとうございました。

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