2021年5月23日日曜日

金のように、銀のように

金のように、銀のように
2021年5月23日、吉祥寺(ZOOM)福音集会
岡本 雅文

創世記
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

新約聖書の中の不思議な箇所のひとつは、ヘブル書11章ではないかと思います。そこには、旧約聖書の時代の多くの信仰者たちが紹介されています。そして、ヘブル書の著者は、多くの信仰者を紹介し終えて、12章の1節から3節のように――次のように――述べています。少し省略しながら、ヘブル書の12章の1節から3節をお読みします。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、・・・・
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・・
12:3 ・・・・それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

私自身も、ヘブル書11章の中で、次々と紹介される信仰に生きた証人たちに、雲のように取り巻かれているというこの事実に、平安と励ましを与えられてまいりました。しかし、それと同時に、何か釈然としないある思いも感じていました。彼らが、すなわち、紹介される旧約時代の証人たちが、あまりにも賞賛されすぎているように、また、美化されすぎてるように感じていたからです。

旧約聖書で紹介されている多くの証人たちの実際の姿は、ヘブル人への手紙の11章に書かれているよりも、はるかに愚かで、また、弱く、彼ら自身の人格は、そこに書かれているほど――ヘブル書の11章に書かれているほど――、高尚な人物ではありませんでした。多くの場面で、彼らは、私たちが首を傾げるほど、愚かな姿をさらけ出す人たちだったからであります。

例えば、信仰の父として知られているアブラハムは、自分の身を守るために、妻のサラを妹と呼びました。また、そのサラは、正妻としての自分の立場を守るために、自分から女奴隷のハガルを夫に与えました。そのハガルが身ごもった後は、彼女とのあいだでトラブルが続きました。

モーセは、殺人者であり、逃亡者でもありました。遊女ラハブも、リストに名を連ねています。また、ヘブル書の11章の32節以降に、これ以上、何を言いましょうかと書かれた後に、名前を挙げられているギデオン以降の証人たちも、全く同様です。そのうちの一人、ダビデに至っては、この世では到底、許されない卑怯極まりない男でありました。

本日は、ヘブル書11章で紹介された人々の中で、信仰の父といわれるアブラハムとその妻、サラを証人たちの代表者として、彼らの信仰が、どうしてこれほどまで、賞賛されているのかを切り口として、考えてみたいと思います。

サラは、ヘブル書11章11節で、次のように書かれています。

ヘブル
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

このように、サラが全くの信仰の人として紹介されているこの記事は、うなづけませんでした。先ほど兄弟に読んでいただいた旧約聖書、創世記18章の9節から15節には、主なる神が、九十歳のサラに、子供が生まれる約束をされた経緯(いきさつ)が詳しく書かれています。もう一度、ゆっくり読んでみます。

創世記
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。(・・・・この一人とは、おそらく、神ご自身ではないかと思われます・・・・)「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

これが、サラについて書かれた、すべてでした。

新約聖書のヘブル書、11章の11節に書かれたサラを賞賛するみ言葉に相当する箇所は、旧約聖書には見当たりません。世の常識的な判断をする普通の一人の女性が記されているだけなのであります。サラは、主に出会った日に、主の約束を信じることができませんでした。彼女は、心の中で笑いました。神の約束を、どうしても、そのまま、その時、信じることができなかったのであります。それにもかからず、新約聖書の言葉は、『彼女は約束してくださった方を真実な方と考えた』と、一言で評価しておられます。不思議でした。

同じように、アブラハムは、新約聖書、ローマ書の4章の18節から21節で、次のように書かれています。

ローマ
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

アブラハムに対する私の思いは、サラに対するものと同じでした。新約聖書と旧約聖書に、明らかに乖離(かいり)があると思わされたのであります。長いあいだ、何か、どうしても、すんなりと受け入れることができない何かがありました。サラと同じように、旧約聖書の創世記、17章の16節から18節で、神がアブラハムに現れた時の様子が次のように書かれています。

創世記
17:16 「わたしは彼女を(・・・・サラを・・・・)祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。・・・・」
17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」
17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが(・・・・女奴隷ハガルが生んだイシュマエルが・・・・)、あなたの御前で生きながらえますように。」

アブラハムも、サラと同じように、心の中で笑いました。彼もサラと全く同じでした。神の約束を信じることができませんでした。新約聖書に書かれたように、アブラハムが固く信じた根拠となるべき事実は、少なくとも文字の上では、旧約聖書で確認することはできません。それにもかかわらず、新約聖書、ローマ書の4章の20節には、『彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず・・・・』と、書かれているのです。

アブラハムとサラについての旧約聖書と新約聖書の違いは、何を語っているのでありましょうか。今、私は、これこそが、聖書の約束が確かであることの証拠であると、確信するようになりました。旧約聖書と新約聖書を一箇所ずつを読みたします。

イザヤ
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

ヘブル
8:12 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。

アブラハムとサラに関する旧約聖書と新約聖書の乖離は――違いは――、父なる神が預言者イザヤやエレミヤを通して、繰り返して告げてくださった、『もうあなたの罪を思い出さない』という神の約束も成就、すなわち、結果であり、証拠であると思うように導かれました。私たちのうちにある悪いもの、すなわち、信仰から出ていないあらゆる罪を、根こそぎ忘れてくださった結果に違いないと思うようになりました。決して、思い出さないというみ言葉は、また、約束は本当だったのであります。

イエス様を信じる者は、一人の例外もなく、精錬された金のように、銀のように純粋にされて、新約の時代に紹介されました。旧約のマラキ書、3章の3節、4節に書かれた通りでした。旧約時代から新約への橋渡しとなる最後の旧約の結果として、こう書かれています。

マラキ
3:3 この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、
3:4 ・・・・主を喜ばせる。

ヘブル書11章とローマ書4章で賞賛されている、アブラハムとサラが語っている事実は、実際に愚かな、また、不真実な行為を犯してきた、アブラハムとサラと同じような私たちを、イエス様はまるで、かなかすが一切ない、精錬された金のように、また、銀のように、私たちを見てくださっているということではないでしょうか。全ての不真実、全ての罪を、既にもう忘れられた金、銀として、主のうちにある恵みを、心から感謝したいと、今では、この箇所を読むと、思うようになりました。

こういうわけで、アブラハムもサラも、その他、全ての証人たちも、精錬された金のように、また、銀のように、私たちに紹介されていると思わされるのであります。神が、彼らに告げられた言葉に対するアブラハムの不信の笑いも、サラの二重の不真実も、主なる神は――イエス様は――、忘れさせてくださいました。

このようなアブラハムとサラに、主なる神はどのように働いてくださったか、聖書から正確に知ることはできません。文字で記されていないからであります。しかし、創世記18章15節で、サラが神に出会った日に、心を貫き通されるような聖なる恐れを抱いたという一言が、間違いない事実でありましょう。

創世記
18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。(・・・・サラが初めて、恐れに出会った、その日だとわかります・・・・)しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

これで、サラと主なる神の会話は終わっています。それから、一年が経ちました。ここに、主なる神がサラにまた、アブラハムにも、のぞんでくださった聖なる取り扱いを見る思いがいたします。彼らが真の知識を知る取り扱いであります。

怖れることは、知識の始めと、聖書は告げています。こうして、一年後、約束通り、神はサラになさったと、しばらく、時をおいて、聖書は再び、淡々と語り始めました。アブラハムもサラも、沈黙のまま、イサクが生まれました。

創世記
21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

21:6 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」

一年前は、サラが笑いました。嘲笑の笑いでありましょう。そして、この時の笑いは、神が、また、多くの人が、サラを見て、笑ってくれたと書いてあります。この笑いは、笑みを浮かべざるを得ない、喜びに感謝するへりくだりを表していると、多くの信仰者が本に書いております。

心から、私たちに対する主なる神の取扱いに、感謝せざるを得ません。その取り扱いの詳細については、聖書は、一切、開示していません。御霊のとりなしによる、イエス様と私たちの個人的な交わりであり、個人的な信頼であり、確信そのものであります。

神との交わり、それは、一年間、一言もふれられずに、アブラハムとサラに与えられました。そして、その見えないところで与えられた彼らの思いが、ヘブル書の11章で一言、賞賛され、後は一切、忘れ去られています。これが、私が全て、私たちの罪を忘れさせてくださるという約束が、現実に成就している、神そのものがそう私たちを見てくださっている、嘘ではない――本当であるという確信であります。

ヘブル書、11章には、新約の信仰者については、書かれていません。しかし、ヘブル書、11章の最後の40節と、12章の1節のあいだに、新約聖書の信仰者たちの名前が浮かんでまいります。

ペンテコステの日――五旬節の日――、今日、兄弟が読んでいただいた使徒行伝に詳しく書かれています。すなわち、イエス様が復活されて、五十日目でありました。聖霊が初代教会の兄妹姉妹に下ったその日、立ち上がって証しした十二人のイエス様の弟子たちのことを、ご一緒に考えて終わりにしたいと思います。

十二人の弟子たちは、ヘブル書11章の旧約時代の兄弟姉妹よりも、ずっとずっと普通の人々でした。全員が、弱さゆえに、イエス様を裏切った者でありました。それにもかかわらず、彼らは、その日、別人のように立ち上がりました。約束された聖霊、もう一人の助け主、イエス様が約束してくださった、父なる神に願ってくださった聖霊を受けたからでありました。彼らも、五十日前の彼らと、全く異なる新しい人として、精錬された金のように、銀のように、出てきたのであります。

これも、アブラハムやサラを取り扱ってくださった、同じ主の新約の時代に生きる私たちへの、さらにさらに増し加えられた、約束の答えではないでしょうか。

私たちが信じてるイエス様は、本当にもうあなたの罪を思い出さないと言われた約束通りに、私たちをも見てくださっています。そして、さらにその上、もう一人の助け主、真理の御霊が、いつまでも私たちと共におられるという、永遠の約束が、初代教会の兄妹姉妹たちと同じように、私たちにも与えられています。そして、私たちはすでに、もうすでに、御霊によって、取りなしを受ける別の道を歩んでいる――そう聖書は告げていると、確信できるのであります。

この二つの約束が今、既に私たちの中に成就している。ただ、告げられただけではなくて、すでに過去形になっている――成就していると、聖書は繰り返し、いろいろな表現をもって、語っています。既に主にあって、実現してると語っています。

精錬された金のように、銀のように純粋にするという、旧約聖書の最後のマラキ書三章のみことばが、私たちのうちには実現している、過去のものとなっていると、聖書はこのペンテコステの日に、十二人の兄弟を通して、証明してくださいました。そして、私たちは、あの十二人と同じように、同じ聖霊を、御霊をいただいている、同じ恵みをいただいていると、聖書は証ししています。

決して、私たちが何かをするのではないと、アブラハム、サラ、そして、モーセもダビデも皆、経験いたしました。そして、全員があるとき、心を貫かれる、そのような恐れに出会い、主の前にへりくだり、そして、――言葉では知っていましたけれども――へりくだること、そのことを初めて体験したように、聖書を通して教えられます。しかし、そのことは一切、聖書には書かれていません。

ダビデも、ナタンにそれはあなただと一言、言われた――それだけが書かれているだけで、彼の内面は一切、秘密にされています。主が御霊によってなしてくださること、主の恵みこそすべてである、そのことを確信することこそ、私たちの力の源、そのものではないでしょうか。

最後に、ペンテコステの日の記念のみ言葉として、今日、礼拝で兄弟が語ってくださった第一テサロニケの5章の16節から19節、このみ言葉をお読みして、味わって、終わりにしたいと思います。この第一テサロニケの5章の16節から19節は19節からお読みした方がよく分かると思います。

私たちがよく、よく耳にする、また、口にする、そして、もう十分わかっていると思っている言葉であります。しかし19節にはこう書かれています、『御霊を消してはなりません。』ですから、その前の三節がひとつでも欠けると、御霊が消えるということを、示しているのではないでしょうか。

同じ第一テサロニケの5章の16節、『いつも喜んでいなさい。』喜びが消えると、御霊も消える。『絶えず祈りなさい。』祈らなければ御霊も消えます。『すべての事について、感謝しなさい。』感謝がなくなれば、御霊も消えると書かれています。『これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』

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