2021年11月6日土曜日

わたしは集会を愛している

わたしは集会を愛している
2021年11月6日、11月の御代田よろこびの集い
岡本 雅文

エペソ
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

この数年間に起こされた様々な事柄をとおして、今、私たちひとりひとりに、また、集会に、イエス様は何を望んでおられるのか、何を願っておられるのか、兄弟姉妹がたの多くは、聖書に尋ねて来られたのではないでしょうか?言葉では表現しにくいですけど、私自身も、イエス様のみこころを次々と与えられてきたにもかかわらず、もう一歩、すっきりしないところがありました。あらゆる出来事全体を、ふさわしい形で理解することができなかったと言った方がいいかもしれません。

緊急事態宣言が解除されてしばらく経った、今から二週間ほど前でした。一人の信仰の先輩の兄弟から電話がありました。私もお話ししたいと考えておりましたので、すぐに、主が彼を送ってくださったと思いました。次の日に、お会いして、三時間以上、徹底的にみことばと照らし合わせながら語り合いました。その交わりの中で、すっきりしなかった思いに、形が現れてまいりました。

それは、言葉を換えれば、私自身がなぜ、この集会に集い続けているのかという問いに対する答えでもありました。同時に、その兄弟も同じように、その交わりの中で導かれていると言う互いに心が通じ合う、そのような恵みも、いただきました。その日、私たちが導かれたところは、次のことでした。『僕は、集会を愛していた』という一言です。

その日、ひとつのみことばを深く味わいました。すでに私のうちに刻み込まれていたみ言葉であったにもかかわらず、このときのように、光り輝いていませんでした。み言葉の戸が半開きになっていたからでありましょう。冒頭で読んでいただいた、エペソ書の5章の25節から数節です。

エペソ
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、(・・・・同じように・・・・)あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とを(・・・・すなわち、集会とを・・・・)さして言っているのです。

これは、奥義だったのであります。これから先は、み言葉をお読みする時以外は、『教会』と言わず、『集会』と呼びたいと思います。

『僕は、集会を愛している』とは、どういうことかについて、少し考えてみたいと思います。

今、お読みしたエペソの5章の25節の『キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた』というみ言葉によって、イエス様は集会を愛しておられると、宣言しておられます。さらに、イエス様は、私たちが集っている集会をどれほど深く愛しているかが、同時に告げられています。そのキリストの愛は、集会のためにご自身を捧げられたほどであったと、書かれています。教会、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたと、書かれているからであります。

そして、さらにそれは、私自身のためであるだけでなく、主なる神の目的、奥義として、私たちの集会を、栄光の教会へと導こうとされていると書かれています。こうして、私のうちに、僕も、キリストと同じように、集会を愛しているというイエス様ご自身の心が、私のうちにすでにあった、すでに住んでおられる、存在しているということを、確認したのであります。

ローマ書、8章の9節から17節をお読みいたします。大切なみことばではないかと思います。

ローマ
8:9 ・・・・もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
8:10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

繰り返し、繰り返し、くどいように語ってくださいました。この箇所では、私たち自身と、ひとりひとりと、また、集会の真ん中で、どのような奇蹟が繰り広げられているかを明らかにしてくださっています。

9節では、御霊のことを、『神の御霊』とも、『キリストの御霊』とも、言っていますけれども、10節では、キリスト、『キリストご自身があなたがたのうちにおられるなら』と、語っています。また、11節では、『イエスを死者の中からよみがえらせた方』、すなわち、父なる神の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら・・・・と、御霊をいくつかの言葉によって、告げています。このような表現をもって、このみ言葉は、御父と御子と聖霊の三位一体の神が、深い結び付きの中にも、神の秩序を保って、私たちを取り扱ってくださっている、そのような神の愛の実態を告げています。

パウロだけでなく、ペテロもヨハネも、異口同音に、この恵みを告げています。

今、お読みしたローマ書の8章の9節のように、神の御霊が私たちの内に住んでおられると信じるなら、『わたしはあなたを――集会を――愛している』と言われる、このキリストの愛が、私たちの内に住んでいるのだと確信いたします。

イエス様を愛しているというのは、この御言葉が、私のうちに成就していること、完了していることを、よろこんで感謝できることであると考えます。そして、私たちが神の御心を知り、その御心のとおりに祈ったことは、神が必ず聞いてくださるという確信に導いてくださると、ヨハネは第一ヨハネの手紙で書いています。さらに、その確信どおりに願えば、そのことはすでにかなえられた――すでに完了したと、ピリオドが打たれるとも、ヨハネは、手紙で書いてくれています。

これが、聖書の約束ではないでしょうか。御霊が取りなしてくださる、御父と御子との神の愛そのものです。私はみ言葉をこのように信じています。そして、新約聖書は、これと同じようなみ言葉で満ち溢れています。マタイでもマルコでもヨハネでも、そして、ヨハネの手紙でも同様です。

今、私自身の心を占めているのは、集会に集うおひとりひとりの心の問題ではありません。キリストの心が、この集会にとどまっておられるかどうか、それだけが第一の問題となりました。そして、本日、ご一緒に考えたいことは、私たち自身の見えるところはどのような状態であったとしても、イエス様が愛しておられるこの集会を、すなわち、世の光として、日本の東京にある吉祥寺や、各地に建て上げてくださったこの諸集会を、イエス様は、決して、捨てないと言われていること、また、事実、主なる神の御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのために、とりなしてくださっているという恵みです。

ですから、私は、この集会が正しいとか、間違っているとか、そういうことを問題にしているのではありません。これまで見てきたみ言葉を土台にして考えると、私たちが集っている集会は、私たち自身のものではなく、主のものであります。そうであるなら、私たちが喜べるところだから集っている、私たちが喜べなくなったところだから集わないという、私たちが考えやすい思いは、聖書の心ではないと、聖書は告げていると思うのです。なぜなら、イエスさまは、喜べない状態の集会であっても、心から愛してくださったからです。

イエス様は最後の晩餐の夜、ご自身を銀貨三十枚で売ったユダを含めた十二人全員の足を洗ってくださいました。ヨハネの福音書、13章をお読みいたします。この御言葉は、ユダも聞きました。

ヨハネ
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。

何ひとつ理解していない、また、崩壊寸前の弟子たちの群れを、その弱い者のままで、心から、心ゆくまで、愛されました。自分たちが、どれほどレベルの低いものであるか、自分の正体を知らないこのような弟子たちを、愛してくださいました。こうして弟子たち全員を、イエス様ご自身を裏切る惨めな道へと、送り出されたのでります。それが、最後の最後に、弟子たちにお与えになった――残るところなく示された――愛、そのものでした。

同じようにパウロも、彼自身、その時 、悲しみのもっとも大きな原因となっていた、また、彼自身が福音を伝えた、彼自身が生んだ、コリントの集会を愛し続けました。彼は、心を本当に痛めながらも、このコリントの集会を決して、見放しませんでした。パウロの手紙全体が、彼が心から愛した集会への願いであり、祈り、そのものです。

同じようにイエス様が、日本の吉祥寺に建てられ、主が愛しておられる主ご自身の集会を、また、各地に建てられた主が愛しておられる主ご自身の集会を、約二千年前のあの十二弟子たち同様に取り扱っておられると、私たちは受けとるべきではないでしょうか?

この集会は、イエス様が愛された主ご自身の集会です。私たちのものでは、決してありません。今も手放すことなく、十二弟子とその仲間たちからなる集会を愛されたように、私たちをも愛してくださっておられます。また、あの混乱に満ちたコリントの集会を、パウロが愛したそれ以上に、私たちを、イエス様は、愛してくださっておられます。ですから、私たちは、このイエス様に愛されている事実を、心からよろこび、深く感謝するとき、すでに、み言葉通り、互いに愛しあっているのではないでしょうか?私たち自身の愛とは全く別物の愛が、私たちの内に住んでいるという奇蹟が、今、私たちには、与えられているのであります。

最近、お聞きした兄弟のメッセージの中に、『兄弟姉妹のあいだの煩わしい関係』というような言葉がありました。それを聞いて、これこそ主が与えられた恵みを体験する現場であると、私自身も思ったのであります。次の御言葉の中にも、はっきりとした御心が明らかにされています。ローマ書、14章の15節です。『もし、食べ物のことで・・・・』――この食べ物とは、私たちの思い、あるいは、考え、全てについて言える言葉ではないかと思います。

ローマ
14:15 もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物(・・・・あなたの思い、あなたの考え・・・・)のことで、滅ぼさないでください。

私たちのうちに、愛が住んでおられるのに、これが私たちの悲しい現実ではないでしょうか?キリストが――イエス様が――代わりに死んでくださったほどの人を、私たちは滅ぼしているという現実です。兄弟姉妹が、一人残らず、キリストが代わりに死んでくださった程の人ですと、聖書は語っています。

もし、これほどの人をないがしろにするなら、キリストの十字架の死を無意味なものにすることであると、聖書から教えられます。そのような愚かな私たちを、主なる神は、忍耐の限りを尽くして、今も導いてくださっています。私たちは、兄弟姉妹のあいだの煩わしい関係の織りなす現場で、毎日、イエスさまとの交わり、イエス様とのよろこびの集いの機会が与えられています。何もなければ、イエス様に出会うことすら、願うことすら、できないのではないでしょうか?

聖書の最後の黙示録で、七つの諸集会に御言葉が書き送られました。その最後の二つの集会、フィラデルフィアとラオデキヤの集会に、書き送られた御言葉の中に、私たちが目を留めるべき箇所があります。

短く見て終わりにしたいと思うんです。最後のラオデキヤの集会からお読みいたします。

黙示録
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

3:22 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。

彼らのうち――ラオデキヤの集会のうちに、御霊が住んでおられないかに見える、その集会は、自分の内側が、自分の思いでいっぱいで、外も内も見分けがつかないほど、荒れ果てているようであります。

イエス様は、御霊を通して、イエス様は、外に立っておられると書かれています。それでも、主はラオデキヤの集会をお捨てにならず、集会によって――集会自身によって――閉じられた戸を叩き続けてくださいました。

戸を叩く音、その声は最後の晩餐の日に、十二人の弟子たちの足を洗ってくださった主の愛の訪れではないでしょうか?『わたしはあなたを愛している――わたしは集会を愛している』という声です。また、その愛を受けて、言いようもない深いうめきによってとりなしてくださる御霊のうめきかもしれません。今、私たち諸集会に、主が願っておられることは、フィラデルフィアの集会に書き送った恵みに預かって欲しいという主の願いではないでしょうか?

黙示録
3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。
3:8 「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。

私たちにも、少しばかりの力を、残してくださっているのではないでしょうか?私たち自身が閉じていた戸を開けると、そこには開いた門があります。その門には、『わたしは門です』と書かれているでしょう。イエス様が約束してくださった通りが、私たちの目の前に開いています。新約聖書全体が、この新しい契約で満ち溢れていると、聖書は言葉を換え、今に至るまで、呼び続けておられます。いつでも、どこでも、ヨハネの福音書の10章の9節の御声が、鳴り響いているようです。

ヨハネ
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

これらの御心を持っておられるイエス・キリストの霊が住んでおられるなら、私たちはすでに、ひとつであると、聖書は断言しています。主が集会を捨てられるまでは、私たちはひとつです。しかし、このイエス様は、決して、私たちを捨てないと言われているのですから、誰が何と言おうと、ひとつであります。

本日、ご一緒に考えてきたことは、主のめぐみのほんのひとつの側面であります。聖書が告げるひとつの御心は、自分を喜ばすことが一切の悪の根、戦う欲望の根であると告げておられるのではないでしょうか?それは、主が絶えず戸を叩いてくださっている。主の愛の声をかたくなで、小さな私たち自身の思いによって聞こえなくされるからであります。

聖書は、耳のある者は聞きなさいと、七つの集会に向かって、語ってくださいました。 

私たちに、フィラデルフィアの集会に告げられた、閉じることのできない開いた門が、目の前に用意されています。そして、私たちは、その小羊の門を潜るように選ばれているのではないでしょうか?集会を愛しておられるキリストが、私のうちに住んでおられる――これが、私たち自身の確かな望みとなれば、主が必ず喜んでくださると、確信いたします。

最後に、旧約聖書の詩篇の24篇をお読みして、終わりにいたします。

詩篇
24:7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
24:8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。
24:9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。
24:10 その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。

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