2023年8月4日金曜日

ヨナタンに重なるイエス様の影

ヨナタンに重なるイエス様の影

2023年8月6日、秋田福音集会
翻訳虫

第一サムエル
18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。

前回のメッセージで、主イエス様が弟子たちを友と呼んでくださったことをお話ししました。

聖書の中にも、深い友情で結ばれた人間たちの記録がいくつか残されております。その中で、本日は旧約聖書に出てくる二人の人物に焦点を当ててお話ししたいと思います。その二人とは、ヨナタンとダビデであります。

ヨナタンはイスラエル国の王子であり、ダビデは羊飼いでした。しかし、ふたりは立場を超えたきずなで結ばれていたと言うことができます。そして、ヨナタンがダビデに対してとった行動には、イエス様が人間たちに対して真実を尽くした姿と重なる部分が多く見られます。

本日は、このヨナタンの生涯を追いながら、ヨナタンがイエス様の型として捕らえられることを、ご一緒に見ていけたらと思います。

ヨナタンの生涯


第一サムエル記は、イスラエル王国の初代の王であるサウルと、そのしもべであったダビデを軸として展開しております。この有名な二人に比べるとサウルの息子であるヨナタンは影が薄く、あまり注目されることのない人物かもしれません。

しかしながら、聖書に登場するたくさんの人物の中で、この人は人間的に見て、本当にいい人だなと思う人はあまり多くはないものですが、このヨナタンは本当に裏表のない誠実な人であったと、この書を読むたびに感じさせられます。

さて、このイスラエルという国ですが、建国当初から外敵との絶え間ない攻撃にさらされており、王子であったヨナタンも、厳しい戦いの日々を送っていました。

そんな中、イスラエル国にたいへんなヒーローが現れます。羊飼いの少年であったダビデが巨人ゴリアテとを倒すという大きな戦功をおさめます。

第一サムエル
17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。

ダビデはサウル王によって戦士として召し抱えられます。そして、サウルの息子であったヨナタンとも親友となります。

第一サムエル
18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。

ダビデは有能な戦士として頭角を現します。そして、多くの戦果をあげて、民に愛されるようになります。

第一サムエル
18:7 女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」

しかし、こうして、国民のあいだで王をしのぐほどの人気を得るようになると、サウルは恐れを抱くようになり、ついには、ダビデを亡き者にしようとたくらみます。

第一サムエル
19:1 サウルは、ダビデを殺すことを、息子ヨナタンや家来の全部に告げた。しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた。

王子であるヨナタンは、父サウルからダビデを守るために、荒れ野へと彼を逃します。そして、希望を失って、ジフの荒野にいたダビデをヨナタンは探し出し、決して希望を失わないように語りかけます。

第一サムエル
23:16 サウルの子ヨナタンは、ホレシュのダビデのところに来て、神の御名によってダビデを力づけた。

ヨナタンはこうして、ダビデとの友情を生涯つらぬいたのであります。

キリストの型であったあるヨナタン


さて、ヨナタンは、このようにまことに誠実な人格の持ち主でした。そして、このヨナタンの生涯には、私たちを友と呼んでくださる主イエス様のすがたが重なって見えるように思われるところが、繰り返し見られるのであります。

ここからは、あらためてヨナタンの生涯を追いながら、ヨナタンの姿にかいま見られるイエス様の恵みの型とも言える点を取り上げてみたいと思います。大きく四つの点があります。

(一)友のために、地位を捨てる


そのひとつ目は、ヨナタンが王の子供という地位を、進んで投げ捨てたことであります。ペリシテ人との戦いで巨人ゴリアテを倒したダビデとヨナタンが初めて出会う部分をお読みします。

第一サムエル
18:3 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。
18:4 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。

ダビデとのあいだに友情に基づいた契約が結ばれたとき、ヨナタンはそのしるしとして、身に着けていたものを全てダビデに与えています。

本来、王位を継ぐべき立場にあったヨナタンが、ダビデを妬んだり、敵視したとしても不思議ではありません。しかし、ダビデが次の王となることが神の御心であると悟ると、静かに身を引きました。ヨナタンは、自分の権威に固執することをせず、神の御心を受け入れ、ダビデにもこう語っています。

第一サムエル
23:17 彼はダビデに言った。「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」

『私はあなたの次に立つ者となる。』ヨナタンは、ダビデの真の友となるべく、自分から王座を降りて、自分が持てる地位や特権の全てを放棄しました。

私たち人間のためにも、同じことをされた方がいることを、誰もがご存じだと思います。ヨナタンと同じように、主イエス様も私たちの救いのために、神の右の座にあった御国の権威と地位を自分からお捨てになったのであります。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

このヨナタンの行動の中に、イエス様が私たちのために払われる犠牲のひとつ目を見ることができます。

(二)友のためにとりなす


さて、ヨナタンのとった行動がイエス様の御業と重なる次の点として、友となったダビデのために、父であるサウル王にとりなしをしたことが挙げられます。

初めにご説明しましたが、サウル王は次第にダビデの人気を恐れるようになります。サウル王の考えを知ったヨナタンは、ダビデのいのちを奪わないように父に懇願しています。

第一サムエル
19:4 ヨナタンは父サウルにダビデの良いことを話し、父に言った。「王よ。あなたのしもべダビデについて罪を犯さないでください。彼はあなたに対して罪を犯してはいません。かえって、彼のしたことは、あなたにとっては非常な益となっています。」

このヨナタンの必死のとりなしによってダビデのいのちは救われます。

19:6 サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。「主は生きておられる。あれは殺されることはない。」

地上で働いていた時、主イエス様もことあるごとに、人間のために父なる神に対してとりなしをされました。いのちが取り去られようとしているときでさえ、主はご自身を十字架に付けた人々のためにとりなしをされています。

ルカ
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

そして今も、イエス様は、神の前の仲介者として私たちのためにとりなしをしていてくださいます。

ヘブル
7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

このみ言葉から、主が現在も行っているとりなしのゆえに、私たちの救いが失われることがないことが分かります。ヨナタンが友のために行ったとりなしもまた、イエス様が真の友として私たちのために行ってくださるとりなしの型であったと言えるのではないでしょうか。

(三)荒野で友を励ます


さて、ヨナタンの姿がイエス様と重なる第三の点をお話しします。それは、絶望しきって荒れ野をさまよっていた友を励まし、勇気を与えたということであります。先ほどもお話ししたように、サウルはダビデのいのちを狙い、執拗に追走を続けました。そして、ダビデは、追手から逃れるために荒れ野に逃れます。

第一サムエル
23:15 ダビデは、サウルが自分のいのちをねらって出て来たので恐れていた。そのときダビデはジフの荒野のホレシュにいた。

かつては誠実に仕えた王から身を隠すしかなかったダビデが、どれほどつらく絶望的な気持ちであったか、察するに余りあります。

そんな中、ヨナタンは、ダビデを力づけるために荒れ野に出かけています。そして、ダビデこそ次の王であるという神の約束を思い出させ、神が約束されたことは必ず実現するとダビデを励ましたのであります。

第一サムエル
20:4 するとヨナタンはダビデに言った。「あなたの言われることは、何でもあなたのためにしましょう。」

ヨナタンはこう言って、自分がどんな時もダビデの味方であることを確約しました。この姿は、試練の時、御霊を通して私たちを力強く励ましてくれる主イエス・キリストの姿とも重なるのではないでしょうか。

ヨハネ
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

主を信じる私たちも、一人ぼっちで荒れ野に置き去りにされたような気持ちになったことがあると思います。自分にのしかかる試練はあまりに大きく、神が沈黙しているようにしか思えないという経験をされることは、多くの方にあるのではないかと思います。

ヨナタンが荒れ野にいるダビデに会いに来たように、苦難のときに、主は私たちを探し出してくださいます。

ローマ
15:4 昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。
15:5 どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。

このように主もまた、苦難の中でも希望を捨てる必要はないと私たちを励ましてくれるのではないでしょうか。

(四)友のためにいのちを捨てる


友であるダビデのために、ヨナタンが行ったことの四つ目です。

ヨナタンは、ダビデを守るために、自分のいのちを危険にさらしすことさえしました。父であるサウル王がダビデを殺そうという計画をヨナタンに話す場面を見てみます。

第一サムエル
20:31 エッサイの子(・・・・ダビデ・・・・)がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。
20:32 ヨナタンは父サウルに答えて言った。「なぜ、あの人は殺されなければならないのですか。あの人が何をしたというのですか。」

怒り狂ったサウルに対し、ヨナタンは体を張ってダビデには何も悪いところはないと、彼をかばっております。

第一サムエル
20:33 すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて打ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。

この時、ヨナタンは友であるダビデを守ったことで、自分のいのちが危険にさらされました。これは、私たちの主であるイエス・キリストが示された真の友情の姿でもあります。イエス様ご自身がこう言われています。

ヨハネ
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

ヨナタンは、ダビデを守るために、ダビデに向けられた父であるサウルの憎しみを自分の身に負いました。イエス様もまた、人類に対する呪いを自分の身に背負われました。イエス様は、自分を蔑んだ人間たちが罪から解放されて、自由になるために、自分が犠牲となることを良しとされたのであります。

ヨナタンの最後


さて、ヨナタンがダビデに示した友情と真実の中に、イエス様の恵みの型が現れていたことを駆け足で見てまいりました。ヨナタンは荒れ野に隠れていたダビデに会った後、ペリシテ人との戦いで、サウルとともに戦死いたしました。この知らせをきいたダビデは悲しみの中で歌っています。

第二サムエル
1:26 あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。

ヨナタンは、神がサウルを退けていることを知りながらも、父親のもとに戻りました。ここにも、子として父に従う姿勢を貫いたヨナタンの高潔な人格を見ることができるのではないかと思います。

イエス様が与える恵み


さて、ダビデにとって、ヨナタンは必要な時に必要な行動をとってくれる友であり、良い時も悪い時も変わることのない忠実な友でありました。

私たちは、主を信じたとき、イエス様の中にそのような友を見つけました。そのことで私たちの人生の意味は永遠に変わったといえると思います。

国の王子であったヨナタンは一介の羊飼いであったダビデを生涯の友としました。同じように、主は私たちが立派で優れた人間として生まれたから、友となってくれたのではなく、何の価値もないみじめな罪人であった私たちを友と呼んでくださったのであります。

ローマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

ヨナタンがダビデに示した真実の中には、イエス様が弟子たち、そして、全ての主を信じる者に今も与えてくださる恵みの型が現れていました。

聖書を読み返して、ヨナタンを深く知ることによって、私たちは主の御心に近づくことができるのではないかと思いました。

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