2021年4月24日土曜日

病気の苦しみを通して与えられるもの

病気の苦しみを通して与えられるもの
2021年4月25日、秋田福音集会
翻訳虫

哀歌
3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。
3:32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
3:33 主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。

はじめに

昨年を振り返ってみますと、病気というものについて考える一年であったように思います。

まずは、約一年前に初めての感染者が出てから、またたく間に全世界に広がったコロナ・ウィルスの問題がありました。また個人的にも、身近にいる何人かの方が大変な重病にかかりました。今も苦しんでいる姉妹、天に召された方もいました。

ウィルスが生まれることも、細胞ががんに変わることも、神はご存知であり、それを止めることもできるし、そのままにしておくこともおできになります。初めのみ言葉にもあったように、病気を与える神の目的は、人を意味もなく苦しめ、悩ませることではなく、そこには辛い体験を通して、人間が得るものがあるのではないかと思います。

その目的が何かということは、あまりに深く大きな謎であり、簡単に答えが見つかるはずもありません。しかし、聖書には、主が病を癒やされた実例が数多く記録されており、それぞれの中に、人が受けた祝福が認められるように思われます。

ここでは、聖書から、病気の苦しみ、絶望の中で神に近づいた例を拾い集めながら、病を通して、人が得るものは何かということを考えてみたいと思います。

(1)主との交わり

病気を通して与えられる恵みのひとつ目として、それまでなかったほど、真摯に神との交わりを求める勇気が生まれるのではないかと思います。

その例として、マルコ伝から、長血の女の話を見てみます。

マルコ
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。

イエス様が人を苦しみから解放してくれるという噂が、既に知れ渡っており、この女も、その話をどこかで聞いたのだと思います。しかし、それだけでは、実際に主の近くに行こうとまでは思わなかったかも知れません。誰にも治せなかったこの病気に、長年に渡って、苦しめられてきたことが、彼女に主に近づく勇気を与えました。

マルコ
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

長血の女は、この信頼を持って、主に近づき、そして、信じていたとおりに、ひどかった痛みが消えました。それから主はこの女にこう言われています。

マルコ
5:34 ・・・・イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

イエス様は、信じるもの一人ひとりが、知識や伝聞ではなく、個人的な体験を通して、ご自身を深く知ることを望んでいます。長血の女が主に近づいたのは、痛みを取り去っていただくためでした。病気の辛さが、人を神に近づける原動力となってくれるのではないかと思います。

(2)へりくだり

二番目の点として、病を通して、真のへりくだリが与えられるということがあげられます。

今度は旧約聖書から、第二列王記に出てくるナアマン将軍の例を見てみたいと思います。多くの兄弟がメッセージでも取り上げてきた有名なはなしなので、ここはかいつまんでご説明します。

第二列王記
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。

強大なアラム国の将軍であるナアマンが、らい病にかかったとき、彼は、隣国イスラエルに住むエリシャがこの病を癒やしてくれるということを聞き、金銀財宝を携えて、この預言者のもとを訪れます。しかし、エリシャはその贈り物を拒絶してこう言います。

5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。

エリシャが神の奇蹟を行ってくれると信じていたナアマンの期待は裏切られてしまいました。ここにあるのは、強大国の将軍である自分が、わざわざ出向いてきたのだという奢りであります。激昂したナアマンですが、部下の進言を聞いて、ヨルダン川に身を浸しました。

5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

ナアマンは、らい病に侵されていなければ、エリシャのことばに従うこともなかったでしょう。病気の苦しみが、尊大だったナアマンを、神の前にひざまずくものに変えました。清められた後、ナアマンは、エリシャのもとに立ち返ってこのように言っています。

5:15 ・・・・「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。それで、どうか今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」

ここにいるのは、自分を『あなたのしもべ』と呼ぶほどにへりくだった将軍の姿であります。

人が神の声に従えば、神は、その病の苦しみを、その人の信仰を成熟させ、真にへりくだったものに変えるために用いることができるのではないかと思います。

(3)不純物を取り除く

三つ目の点です。病気の苦しみや不安は、信仰の中から不純物、すなわち、主以外のものにも頼る気持ちを取り除いてくれるのではないかと思います。

祈りの中で、よく、自分の思いを捨てて、全てを主に明け渡すと言われます。しかし、実際に、心の中を見つめてみれば、誰もが、あるときは、自分で問題を解決しようと試みながら、うまく行かないときだけ、『主にお委ねします』と言う態度をとっていることに思い当たるのではないでしょうか。

病気のことで言いますと、手術の成功率、薬の効能といったものに、慰めを見出そうとすることは、誰にとっても、当然のことではあります。しかし、知識だけを追い求めて、神に近づきたいという気持ちが失われるなら、そこにあるのは、信仰を曇らせる不純物であると言えます。

イザヤ書に次のような御言葉があります

イザヤ
48:10 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。

悩みの炉で受ける試み、そのひとつの例として、病気の苦しみが不純物を表面に浮き立たせてくれます。精錬されて浮きかすが表面に浮かんでくるとき、主がそれを濾し取ってくれるのではないかと思います。

主のいやしの例として、マルコ伝から、悪霊にとりつかれた息子の事例を取り上げてみます。

マルコ
9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。
9:18 その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。」

子供の父親は、息子のつらい状態を救っていただくため主に近づき、懇願いたしました。

マルコ
9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。

この父親は、主の一行に近づいたのですから、彼が主の奇蹟の力に頼ろうと思ったことは確かです。しかし、その時点で、父親の信仰は、主だけを絶対的に信頼するものではなく、それまでに試みてきた様々な手段の延長だったのではないでしょうか。

この『おできになるものなら』という父親のことばに込められたこの心の内を、主は見抜かれ、お答えになりました。

マルコ
9:23 ・・・・「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

この主の言葉に、父親は自分の信仰の不純物に気付かされたのではないかと思います。

マルコ
9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

自分だけでなく、家族の苦しみの中でも、心から他の支えが全て切り捨てられ、主だけにすべてを委ねる純粋な信仰へと少しずつ練り上げられていくのではないかと思います。

(4)主の証し人となる

そして、最後の点として、病気の苦しみの中で、主の臨在を確信した人は、その経験を通して、主を証しする機会を与えられるのではないかと思います。

ヨハネ伝には、主の力で癒やされた盲人の話が出てきます。

ヨハネ
9:1 イエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

この男性は、イエス様の力で、見えなかった目を開けていただきました。それを目撃したパリサイ人たちは、救い主としての主の権威を否定しようと躍起になり、この男に対し、主を否定することばを述べるように、強要します。

9:24 そこで彼らは、盲目であった人をもう一度呼び出して言った。「神に栄光を帰しなさい。私たちはあの人が罪人であることを知っているのだ。」

しかし、盲人はこれをはっきりと拒絶してこう答えています。

9:25 ・・・・あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。

彼は、主との出会いを通して、『今は見える』と証しするようになりました。そして、少しあとの方でこう言っています。

9:31 神は、罪人の言うことはお聞きになりません。しかし、だれでも神を敬い、そのみこころを行なうなら、神はその人の言うことを聞いてくださると、私たちは知っています。

道端で物乞いをしてきたこの盲人は、パリサイ人たちの恫喝とも言える要求に屈することなく、このような力強い証し人に変えられたのであります。

このように、病の苦しみに屈服することを拒否したものには、主の証し人となる絶好の機会が与えられるのではないかと思います。

ところで、この同じ機会は、今に生きる私たちにも同じように、与えられているのはではないでしょうか。

私たちの場合、目の前にイエス様が現れて、病気を消してくださるということはありません。また、実際にすべての病が癒やされるわけでもありません。しかし、何が起ころうとも、すべてが主のご支配のもとで行われていることを信じ、主だけを見上げる心を失わなければ、そのことによって、私たちも主に栄光を帰すことができます。

ある姉妹は、重病を患い、数回に渡る手術を受けられました。しかし、そのようなときも、周囲の人たちにいつも、『私はイエス様を信じているから、死ぬことはちっとも怖くない』と語っていたそうです。最後の時に至るまで、主への信頼を伝えたこの言葉は、聞いた人を勇気付けたに違いないと思います。

これに対し、ある残念な例をご紹介したいと思います。何年も前ですが、私はある方に、ベックさんの書かれた『実を結ぶ命』という本を送りました。読まれた方も多いと思いますが、この本は、若くして天に召されながらも、最後まで揺るぎない信仰を保ち続けたリンデさんの記録であります。

しばらくしてから、本の感想などを尋ねてみたところ、その方は、リンデが死んでしまうとは思わなかったというのです。『実を結ぶ命』の表紙には、副題として、『がんにうち勝ったドイツ少女』と書かれています。その方は、この副題を見て、これは、がんが治って元気になる人の話だと思ってしまったと言うのです。

主を知らない人からすれば、『がんにうち勝つ』と言われれば、治療が成功して生き伸びることと考えるのは自然なことかも知れません。しかし、私たちにとっては、病の苦しみや死の恐怖の中にあっても、キリストを思う心を失うことなく、信仰を保ち続けて、初めて病気に勝ったと言えるのではないでしょうか。

まとめ

以上、聖書から病の癒やしの例を拾い上げながら考えてまいりました。

新約聖書の時代、試みを受けた兄弟姉妹たちを励ます手紙の中で、パウロはこう語っています。

ガラテヤ
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。

イエス様がすすんで木にかけられて、人を罪に定めるのろいを引き受けてくれたのですから、そのご支配のもとで私たちが受ける病気は、のろいでも、懲罰でもなく、天国に向かう光の道であって、苦しみの中でも希望を失う必要がないことを、この御言葉が教えてくれるのではないかと思います。

主によって、すべてののろいが取り去られたことを信じて、祈り続けることができれば、そのことによって、主はご栄光をお受けになるに違いないと思います。

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