2021年6月7日月曜日

自分の十字架を負う

自分の十字架を負う
2021年6月6日、静岡集会
黒田 禮吉

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

自分の十字架を負うとは、どういう意味でしょうか?世間で言われているように、自分の暗い過去や、罪などを背負うことなのでしょうか?イエス様は、そんなことを言っておられるのではありません。もしそうなら、『自分を捨て、十字架を負え』とは救いではなく、絶望へと突き進む命令ではないでしょうか?そこには喜び、希望はありません。

自分の十字架とはなんでしょうか?十字架とは、一般的には、運命や重荷のことと理解されているかもしれません。しかし、聖書で言っている十字架は、自分の運命のことではありません。

2021年6月6日日曜日

祈り

祈り
2021年6月6日、札幌集会
岡本 雅文

ピリピ
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

今、読んでいただいたみ言葉の、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば・・・・』と書いてある、この短い、三節の短いみ言葉ですけれども、この中に、信じている私たちがなすべき、ほとんどのことが語られているのではないかと思わされます。