2021年12月15日水曜日

イエス・キリストとは誰ですか

イエス・キリストとは誰ですか
2021年12月15日、国立谷保家庭集会
黒田 禮吉

ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

今日は、『イエス・キリストとは誰ですか』と言うタイトルで、お話しをさせていただきたいと思います。

さて、今日、イエス・キリストの歴史的存在を疑う人はいません。しかしながら、イエス・キリストに関して、大きな誤解があります。多くの人がこのように言います。イエス・キリストは、キリスト教の創始者である。これは、明らかな間違いです。キリスト教とは、ローマ帝国が作った宗教であります。また時々、こういうふうにおっしゃる方がいます。イエス・キリストは、偉大な預言者、偉大な教師、世界四大聖人の一人である。その方は、イエス様を褒め称えているつもりですが、その評価は完全に間違っています。

イエス様は、最初に読んでいただいたように、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』とおっしゃいました。これを、私のような普通の人が口にしたら、とんでもないことになります。世界の主な宗教を見ても、例えば、ブッダ、マホメット、孔子など、全ての人が、自分自身を教師か、預言者だといっています。しかし、彼ら、宗教の創始者は――カルト教団を除けば――自分を神と同等だとは主張していません。けれども、イエス・キリストは、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』と言ったのです。つまり、ご自分を神だと言っておられるのです。

ですから、イエス・キリストを神だと認めないで、単なる偉大な人、偉大な教師として評価するのは間違っているということであります。同じヨハネの福音書の10章を読んでみたいと思います。

ヨハネ
10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」
10:21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた者のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」

イエス様がなされた数々の奇蹟を目の当たりにしても、当時の人々の評価は分かれました。すなわち、悪霊に疲れて気が狂ったものか、そうでないかであります。けれども、いちばん、問題なのは、イエスは義人だ、すばらしい、愛の人だ、道徳の教師だという、そのような人間的な捉え方ではないでしょうか?

私自身も実は、かつて、このようにイエス様を単なる偉人の一人であると理解をしていました。宗教というのは、その教えが重要であります。ブッダ、孔子、マホメット自身が、どのような人であったかは、あまり重視していません。聖書の中にも、もちろん、教えや十戒などの律法、おきてや戒めがあります。

しかし、もっとも大切なのは、イエス・キリストとは、どのような方で、どのようなことをなされたかであります。そのことが端的に書かれている御言葉は、第一コリントの15章3節からの御言葉であります。

第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです

聖書の信仰は、ひとりの方、すなわち、イエス・キリストの歩み、そして、その人格の上に建てられているのであって、教えや教理の上に建てられているのではありません。

そして、聖書は、イエスは神であり、人であると言っています。なぜなら、神でなければ、私たちを救えないし、人でなければ、私たちの罪のために死ぬことはできないからです。神である方が人となられたという事実の上に、私たちの救いが、成り立っています。

ヨハネ
8:57 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」
8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」
8:59 すると彼らは石を取ってイエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、宮から出て行かれた。

『アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。』このことばによって、ユダヤ人たちは、怒り狂いました。人間の理解を超えた、このようなことを信じることは、できなかったのであります。

さて、この文章は、『わたしはいたのです』と、過去形にするのが、正しいように思われます。けれども、ここでイエス様は、『わたしはいるのです』と、あえて、現在形で語っておられます。これは、イエス様が、時空を超越しておられた方だということであります。

ヨハネ
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。
10:30 わたしと父とは一つです。」
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

ここでも、『わたしと父とは一つです』とおっしゃいました。父というのは、父なる神、創造主のことです。自分が父と一つだという言い方は、ご自分が神だと言っていることと同じであります。先ほどのヨハネの福音書、8章とこの10章は、イエス様が、ご自分のことを神だと宣言されたということであります。そこから出てくる結論とは、神である方が、人となられたということであります。

イエス様は、神であり、人である。これは、私たちの理解をはるかに超える真理です。けれども、イエス・キリストが、私たちの罪の問題を解決する救い主して、十字架の上で死ぬためには、この神であり、人であるという条件が必要だったのです。十字架上の死が、罪をそそぐための身代わりの死として有効であるための条件なのです。

人でなければ死ねません。神でなければ、罪の代価を支払うことはできません。それゆえ、イエス様は、神であり、人である必要があったわけです。ですから、それ以外の人間が、どんなに偉大で、立派であったとしても、私たちの救い主となりえないのであります。

イエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスが近づいてきました。イエス様の誕生を、当時の人々は、どのように受け取ったのでありましょうか。御言葉を見てみたいと思います。よくご存じの箇所であります。

ルカ
2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

ご存知のように、イエス様の誕生を最初に知ったのは、羊飼いたちでありました。イエス様の時代、羊飼いたちは、社会的にもっとも下層の民とされていたようであります。その彼らに、イエス様の誕生の知らせが、最初に伝えられたのであります。

羊飼いたちに、最初に喜びの知らせが届けられたのは、なぜでしょうか?それは、神の愛から漏れる人はひとりもいないことを、すべての人に伝えるためであったからではないでしょうか。社会の底辺にいる人々にこそ、救い主が必要であったからであります。

羊飼いたちは、羊がいかに弱く、助けを必要としているかを、体験的に知っていました。緑の草原や水のほとりに導く牧者がいなければ、羊は一日か二日で死んでしまうそうです。羊飼いほど、自らの人生においても、導き手が必要であることを認識していた人たちは、他にいなかったのではないかと思います。その彼らに、救い主の誕生が知らされたのであります。

野宿で夜番をしていた羊飼いたちは、主の栄光が回りを照らしたのを見て恐れました。人は罪に対する本能的な恐れを持っています。すべてのことが白日にさらされるのを恐れます。

人生には、恐れがあります。人は、人生の不条理に直面して恐れます。さらに、死を恐れます。このような恐れから、私たちを解放する力は、どこにあるのでしょう?光であり、救い主であるイエス様だけが、そのような力を持っておられます。御使いは、恐れていた羊飼いたちに言いました、『恐れることはありません。』そして、続けて、救い主がお生まれになりましたと語りました。この喜びの知らせこそ、私たちを恐れから解放する力であります。

ヨハネ
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

私たちが、たとえどんなに堕落し、罪に汚れたものであっても、私たちがどんなに惨めで、どうしようもないものであっても、イエス様は、私たちの位置にまで降ってくださり、ご自分のいのちに代えて、私たち、迷子の羊を救ってくださる羊飼いであります。

イエス様は、なぜ、飼い葉おけの中で誕生されたのでしょうか?神の御子であって、何でも、おできになった方が、小さくなって、貧しくなってくださったからではないでしょうか?

マタイの福音書をみますと、アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図が記載されています。イエス様が、旧約聖書において預言されたメシアであることを示しています。しかし、イエス様が生れたときの状態は、かつての王候の子孫という栄光はなく、一介の大工のせがれとして生まれました。宿屋に彼らが居る場所もなかったことから、泊まる所にもこと欠いた状態でした。

ルカ
1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。
1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」
1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」

イエスの母、マリアは、ナザレという村の一乙女でした。取りに足らない村の人目に付かない乙女を選んで、神は、人類の救い主を世に送ろうとされました。マリアが、天使の御告げを受け入れて、子供を宿すということは、社会的、肉体的な危機に自らをさらすことです。父親は不明のままで、懐胎することだからです。これは彼女にとって、耐えがたい決断であったに違いありません。しかし、彼女は、このように言ったのであります。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

私たちも、このマリアのように、例え、どのような困難があっても、それを主からのものとして、喜んで受け取ることができれば幸いであります。

マルコ
6:3 「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

人としての側面だけを見れば、幼少のイエス様を知る者にとって、イエス様は、自分たちと変わらない存在でした。しかし、そのような人間的な尺度では、イエス様を知ることはできません。パウロは、次のみ言葉のように、イエス様を証ししました。

第二コリント
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

私たちの人間的な考えや感情でもって、イエス様を知ろうとしても、限界があります。このことを明らかに示したのは、神であり、御霊の働きであります。

第一コリント
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

さて、私たちにとって、イエス・キリストとは、どのような方でありましょうか?神の御子である方は、人の形をとって、この地上を歩まれた。それは、罪を知らない方が、ご自身を捧げることによって、私の罪咎をあがなってくださった。それは、私たちひとりひとりを救ってくださるためであったと、喜んで告白する者でありましょうか?

私たちは、聖書を信じ、受け入れました。それは、イエス様のなされたこと、イエス様の死と復活、また、それを目撃した弟子たちの証言を信じたということです。そして、イエス・キリストは、誰のためでもなく、私の罪のために死なれ、墓に葬られた。しかし、三日目によみがえられ、今も生きておられると信じているのではないでしょうか。そのような信仰の結果として、心の中に、大きな喜びと希望をいただいている者ではないでしょうか?

第一ペテロ
1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

主は、人として歩まれることによって、私たちと同じように試みをお受けになられました。したがって、私たちの悩みも、弱さもご存知であります。ですから、私たちを救うことができるのであります。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

神の御子であるイエス様が、栄光に包まれ、富んでおられた方が、ご自分を無にして、考えられないほどに、貧しくなってくださった。それが、十字架の死であります。

クリスマスにあたって、そのことを深く覚え、ともに主を賛美したいと思います。最後に、もう一箇所、御言葉を読んで終わりにしたいと思います。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

当時のベツレヘムの人々は、イエス様を、結果として、馬小屋へと追いやってしまいました。今日でも、多くの人が、イエス様のことを知りながら、救い主をその心に迎えようとしません。どうか一人でも多くの方に、このクリスマスの喜びを知っていただきたい。その思いを持って、ともに祈ることができますように。

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