2021年1月23日土曜日

苦しみを通して得たもの

苦しみを通して得たもの
2021年1月23日、芦屋ZOOM家庭集会
古田 公人

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

主イエス様は、恵みとまことに富むお方です。今日は、イエス様の栄光を、個人的に体験した人々について、彼らが、どのような気持ちで、イエス様のところへ行ったのか、イエス様は、どのように対応されたか、そして、イエス様は、それぞれの出来事を通して、私たちに何を教えようとなさっているか、これらの点について、ご一緒に考えたいと思います。

最初は、よく知られている中風の人の場合です。

マタイ
9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

9:6 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言って、それから中風の人に、「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」と言われた。
9:7 すると、彼は起きて家に帰った。

こういう出来事でした。病人とその仲間の人たちは、イエス様は、病気を治してくださるに違いないと、そういう思いでやってまいりました。主なる神は、人は上辺を見るが、主は心を見るとおおせになります。そのみ言葉の通りでした。イエス様は、彼らの信仰をご覧になり、『あなたの罪は赦されました』とおおせになりました。不思議なことでした。

病人は確かに中風でしたし、誰もが、彼は中風だから、立ち上がることができないと考えていましたので、イエス様の言葉は期待していたものとは全く違ったのです。驚いたと思います。しかし、イエス様は、この人は罪によって、良心の呵責によってち立ち上がれないのだと知っておられましたから、この人が本当に必要としているもの、それをそのままお与えになりました。

主イエス様は、この出来事を通して、何を教えておられるのでしょうか。言うまでもなく、イエス様に信頼することの大切さ、信仰の大切さです。病人は、中風という病気を通して、自分の弱さを知り、もう自分の力ではどうすることもできないと、腹の底から分かったんです。これは、もうイエス様のところへ行くしかない。そういう思いで、彼は、イエス様のところへやってまいりました。そして、病人は良心の呵責から解放され、それだけではなくて、生きる力をいただきました。『立ち上がって帰った』と、ある通りであります。イエス様を信頼し、すべてを委ねることの大切さを、このことを通して教えてくださっています。

次は、罪深い女の例です。

ルカ
7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。

7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

この女の人は、人々から罪深い女だと呼ばれ、きっと蔑まれていたのだと思います。彼女は、苦しんでいましたから、、真剣に救いを求めていました。イエス様が来られたっていうことを聞いた時、イエス様に、もっとも大切なものをお捧げしよう、イエス様は、きっと私を理解してくださると、そう思ったものと思います。そして、香油を持って、やって来ましたけど、それまでから彼女は、言葉では人は理解してくれないということを、十分に経験していたのだと思います。

この時も、心がいっぱいになっていて、何をどのように話せば良いのかも、わからなかったのだろうと思います。でも、イエス様のところへ来ただけで、自分が受け入れられているということを知ったと思います。『泣きながら、イエス様のうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、』心からの感謝の思いで、持ってきた香油を塗ったのだと思います。

結局、彼女がいちばん必要としていたものは、イエス様との交わりでした。イエス様は、この女性の心の中にあるものと、彼女が何を必要としているかを、もちろん、知っておられましたから、イエス様は、大きな愛は、多くの罪が赦されていることを表していると、皆にお語りになりました。そして、それから、『あなたの罪は赦されています。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』と、祝福をお与えになりました。

主イエス様は、この出来事を通して、私たちに何を教えてくださるのでしょうか。イエス様を愛すること、言い換えるなら、イエス様との親しい交わりの大切さを教えてくださっています。

イエス様は、私たちに何が必要かを知っておられます。イエス様との交わりを通して、私たちはいつも、重荷を取り除いていただき、心の底からの平安と、良心の呵責と孤独からの解放の喜びを、与えようとしてくださっています。この女の人も、この時から、人を恐れなくなったに違いありません。もちろん、状況は相変わらず、厳しかったでしょうけれども、でも、彼女はいつも光を見ることができたんです。だから、希望を持って生きるようになったに違いありません。

三番目は、ルカの15章11節からある放蕩息子のお話です。よくご存知のお話です。

ルカ
15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

息子は、父の愛に背いて、家族も財産も全部、失ってしまいました。わがままのもたらした結果だと言えばそれまでなんですけど、飢饉の中で、孤独と死の恐怖に、彼は苦しんだんです。苦しみに会う前は、この世こそ全てだと思っていたのでしょうけれども、この苦しみを通して、彼は、もうこの世には何の希望もないと、絶望を経験しています。父の気持ちに背いたことを悔い、もう子供と呼ばれる資格はないけれども、でも、生きるためには、父のところに帰る以外には、道はないとわかりました。正直な心で謝ろう。そうしたら、父は雇い人の一人としてなら、受け入れてくれるかもしれない。そう思って、帰ってまいりました。孤独と死の恐怖を通して、初めて、父の愛を知り、父のもとに帰りたいと思ったのです。父親は、悔いた心で帰ってきた息子を、無条件で赦し、喜んで受け入れています。

主イエス様は、このたとえ話を通して、何を教えておられるのでしょうか。言うでもなく、砕かれること、悔い改めることの大切さです。この例え話の中の父親はイエス様を表し、放蕩息子は私たちを表しています。イエス様は、砕かれた悔いた心を、わたしは決して蔑まない、どんな過去があっても、その心があるなら受け入れ、一切の罪を赦そうとおっしゃってくださっています。そればかりか、神の子どもとして、受け入れるとおっしゃっています。

最後は、あの十字架上の犯罪人です。

ルカ
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

二人の犯罪のうち、一人だけだったんですけど、彼は十字架に付けられている痛みの中で、正直な心で、自分の罪に向き合いました。犯してきた罪の重荷と、そして、痛みと死後の恐れに、彼は苦しんでいたのです。もちろん、もうこの世には、何の希望もありませんでした。この場に及んで、彼は、自分にできることは何もないし、もう誰も何もすることはできない。イエス様だけが、もしかしたら、天国への希望を与えてくださるかもしれないと、そういう気持ちだったのではないでしょうか。

イエス様の哀れみに、彼は、もうすがるしかなかったんです。『あなたが天の御国の位にお着きになるとき、私を思い出してください。』本当にへりくだった願いです。心の底から砕かれた者の願いなのではないでしょうか。

イエス様は、『あなたはいったい、何をしたの?』とは、仰いませんでした。『どうして、そういうふうな犯罪をするようになったの?』とも、おっしゃいませんでした。もちろん、ご存知だったからです。ただ、『あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。』すばらしい約束を与えてくださいました。この愛に満ちた言葉をいただいた時、彼は、死と死後の恐怖から解放されただけではなくて、イエス様が共にいてくださると言う安心感と、そして、天国の希望をもって、死に向かうことができたのではないかと思います。

主イエス様は、この出来事を通して、私たちに何を教えてくださってるのでしょうか。それは、人生の目的は、ただ一つだけだということを、教えてくださってるのではないでしょうか。いろんなものを人は求めるけど、イエス・キリストを知ることがなければ、全てはむなしい。でも逆に、イエス・キリストを知りさえすれば、知ることさえできるようになれば、あなたは、いちばん大切な人生の目的を手にしているのだということを、教えてくださっているのではないかと思います。

私たち一人一人に向かって、あなたはどうですか、本当に価値ある人生の目的を――わたしを知ることを――もう経験していますかと、語ってくださっています。

最後に、これら四人の出来事を、まとめて考えてみたいと思います。イエス様は、わたしは道であり、真理であり、いのちですと、おっしゃいました。いのちそのものと言ってもいいのではないかと思います。そして、イエス様には愛があります。真の愛、自己犠牲の愛があります。自由があります。全ての束縛から、罪から解放していただく、そして、いただける自由があります。絶えることのない喜びがあります。嵐の中での平安があります。そして、天国の希望があります。この四人の人は、イエス様との出会いを通して、イエス様の全てを経験しました。

彼らが得た最大のものは、と言うよりも、本当のところ、ただ一つのものがすべてであって、そのただ一つのものとは、イエス様を経験的に知ることでした。いのちそのものであるイエス様をを知ることは、私たちの想像を、はるかに超える恵みです。本当に価値ある人生の目的を達成することだと、言うことができると思います。

でも、この人たちがどうしてイエス様のところへ来たのかを考えてみたいと思います。それは、みじめだったからです。みじめだということを、私はみじめだということを、認めたからこそ、正直な心で、イエス様のところに来ました。そして、平安と、変わることのない喜びを、同時に、また、永遠への希望を、彼らは待つようになったのです。私たちの基準で、この世の基準で考えますと、罪の女も、放蕩息子も、そして、十字架の上の犯罪者も、皆、人生の失敗者です。人々は彼らを愚か者、どうしようもない者だと、言うかもしれません。しかし、彼らは、イエス様を個人的に知ることができました。本当の意味で価値ある人生の、ただ一つの目的に、彼らは到達したんです。本当の成功者だったということができるのではないでしょうか。

失敗は、誰にでもあります。苦しみも、悲しみも、誰にでもあります。その時こそ、失敗を成功に変えるチャンスです。マイナスは、マイナスではなくて、イエス様にあっては、プラスになります。

主なる神は、人をお造りになった時、失敗しないもの、苦しみのないもの、悩みのないもの、悲しみのないものとして造ることは、もちろん、おできになったんですけれども、そうはなさいませんでした。苦しみを通して、失敗を通して、悲しみを通して、イエス様を知ることの価値を、その豊かさを、私たちに与えてくださったんです。

ピリピ
4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

イエス様は、罪を罰するのではなくて、愛と赦しといのちを与えたいと思っておられます。イエス様のところへ行く者を、裁く心ではなくて、満ち満ちた愛で包んでくださいます。イエス様の呼びかけは、よく知られているように、『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしが、あなたがたを休ませてあげます』というものです。

でも、疲れていない人はいません。重荷のない人もいないんです。ですから、このみ言葉は、自分は疲れている、重荷を背負い切れないほど重いと思っていると、正直に認めて、『わたしのところへ来なさい』と、呼びかけてくださっています。安心して、イエス様のところへ行こうではありませんか。そして、イエス様を知る者となりたいと思います。

最後に、コロサイ書の2章9節を読んで終わります。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

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