2021年11月22日月曜日

私たちも盲目なのですか

私たちも盲目なのですか
2021年11月21日、市川福音集会
黒田 禮吉

ヨハネ
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

初めに、ヨハネの福音書の九章から、読んでみたいと思います。

ヨハネ
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」

生まれつきの盲人に対して、イエス様は、『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです』と語られました。そして、この盲人に与えられた苦難の意味に、驚くべき答えをお与えになりました。どんな哲学も、宗教にも、解決できなかった問題に、明快な答えを示されたのであります。そして、この盲人の目を開けてくださっただけではなく、心の目、すなわち、主イエス・キリストを信じる信仰をも、お与えになられました。

私自身も、この御言葉が信仰の原点であります。私たちに与えられる病気や試練も、すべては主がなされたこと、あるいは、主が許されたことであります。主は、いたずらに苦しみや悩みを、お与えになるのではありません。それらの痛みや苦しみを通して、私たちをみもとへと導こうとされるのであります。主により頼み、主に祈る者へと変えてくださるのであります。ですから、病気や試練は、私たちにとって、どうしても必要なものであります。

パウロは、次のように証しすることができました。御言葉を三箇所ほど、読ませていただきます。

第一コリント
10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

ローマ
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

第二コリント
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

イエス様は苦難に対して、あるいは、生まれつき負わされた宿命的な重荷に対して、それを嘆くのではなく、その中に神様があなたにさせようとしておられる使命があるのだと、仰っておられるのであります。その使命とは、何でありましょうか?ヨハネの福音書の9章に書かれています。

ヨハネ
9:4 わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。
9:5 わたしが世にいる間、わたしは世の光です。

神の栄光が現れるためであるとおっしゃったイエス様は、さらに続けて、このように言われたんです。ここで、『わたしたち』というのは、直接的には、イエス様と弟子たちを指していますが、イエス様と現代に生きる私たちと言ってもよいのではないでしょうか?

『昼の間に』とは、救いの恵みが与えられているうちにということです。つまり、苦難の中に、私たちがイエス様と共に行わなければならない、主のみわざがあるということであります。イエス様は、苦難に対して、あるいは、生まれつき与えられた宿命的な重荷に対して、その中に、神様が私たちにさせようとしておられる使命があるのだと、仰っておられるのです。私たちに与えられた使命とは、主を証しすることであり、主を宣べ伝えることに他なりません。

ここまでが、実は、前置きでありますけれども、ヨハネの福音書の9章には、今、お話しした話題の他に、もうひとつ大切な問題が、実は提起されています。それが、先程、司会の兄弟に読んでいただいた箇所であります。それは、救われた私たちは、本当に目が見えているのか?本当は、依然として、盲目ではないかという問題であります。

ヨハネ
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

イエス様は、形式的な儀式を重んじ、主イエス様を信じることの結局、できなかった当時のパリサイ人など、宗教家に厳しく、このようにおっしゃったのであります。

さて、いかがでしょうか?私たち、ひとりひとりは、主の憐れみと恵みによって、イエス様に捕らえられ、目を開けていただいた者であります。しかし、そのことをいつしか忘れ、今、私たちは眼が見えると言っている者ではないでしょうか?私たちは、イエス様から目をそらせば、すぐに盲目となる者であるとの、その認識こそ、大切ではないでしょうか?

ルカの福音書の放蕩息子のところを読みたいと思います。

ルカ
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

放蕩息子の弟が帰って来た時、兄は怒りました。これは、パリサイ人の心を表しています。大いに喜ぶべきなのに、弟を妬み、腹を立てているのです。父の心とは、遠くかけ離れています。そして、彼は、家に入ろうともしなかったのです。父の寛大さ、父の恵みの中に、彼は入りたくないのです。これが、神の国に入れなくなる理由ではないでしょうか。神の国に入れないのは、自分がいかに悪いことをしたかではありません。

私たちは、ひとり残らず、本来、地獄に行くべきものでありました。そのような者を天国に入れてくださる神の寛大さ、神のあわれみ、恵みを望まないから、神の国に入れないのです。恵みの招きに応答しないからではないでしょうか?

神に仕えているという意識が、パリサイ人にも、この兄にもありました。けれども、自分が神の子供であるという自覚はありません。恵みと哀れみによって救われ、神の相続人であるという意識はなかったのです。

兄は、戒めを破ったことは、一度もないと言っています。つまり、自分は罪人とであると思っていませんでした。彼は、心の内で友たちと楽しむことを求めているのに、自分にそのような欲望があることにも気づいていません。外側の行いは落ち度がなくても、心は、放縦と姦淫でいっぱいだったのです。そして、自分の弟を、『あなたの息子』と呼んで、拒絶しています。

ルカ
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』

父は、身代を兄にも分け与えていました。ですから、父が言うように、弟が帰ってきて楽しんで喜ぶのは、当然なのです。彼は、この当然のことをせず、つぶやき、怒っていました。

イエス様が、罪人たち、取税人たちと食事をとっていたとき、この方の心は――イエス様の心は――、喜びで満ちていました。これは探していたものが見つかった満足です。イエス様は、いなくなった羊を求めて探しておられます。そして、父なる神は、ご自分の家でいなくなった子たちが戻ってくるのを、忍耐して待っておられるのです。

旧約聖書の創世記の三章から、読んでみたいと思います。

創世記
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。

蛇に惑わされ、食べてはならない善悪の知識の木の実を食べた時、エバは、その木がまことに食べるのに良く、目に慕わしく、いかにも好ましかったと感じたのであります。私たちは、エバのように表面的にしか見ることのできない者でありながら、目が見えると言っているものではないでしょうか?『ふたりの目は開かれ・・・・』と書かれているところは、もちろん、善悪の知識の実によって、神様に頼らず、自分勝手な判断、自己中心的な思いが与えられたということであります。

生まれつきの盲人の目が、主によって開かれたとは、全く違うことであります。

旧約聖書の箴言に、よくご存じの御言葉があります。

箴言
14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

救われたものであっても、私たちは、イエス様を見上げないで、自分の知恵や能力に頼る時は、このように真っ直ぐに見える道を歩むものではないかと思います。

世の中には、自己実現、自分を大切にする、あるいは、自分と向き合うという便利な表現があります。世間一般では、良い意味で使われます。しかし、結局のところ、これらは、いずれも、自己中心であり、わがままを意味しています。これらは、サタンの惑わしによって、巧みに耳障りの良い言葉を使っていますが、結局、わがままな人間を作り上げてきたのではないでしょうか?罪を助長してきたのであります。そして、その道の終わりは死の道であります。

第一サムエル
16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。
16:7 しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」
16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油を注げ。この者がそれだ。」

ダビデが油注がれた者、つまり、将来の王となることを約束された場面であります。この時、預言者サムエルであっても、容貌や背の高さを見て、判断を誤るものでありました。しかし、主なる神はいつも、外側ではなく、心を見られる方であり、それは、しばしば、人の思いとは全く異なるものであることが、よくわかります。目に見える表面的な事象にとらわれずに、主の望んでおられることは何であるかを、いつも尋ね求めて、歩むことができれば幸いであります。

今度は、使徒の働きの九章から読みたいと思います。サウロが救われたときの記事であります。

使徒の働き
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」
9:7 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたが来る途中でお現われになった主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

サウロ――後のパウロのことですけども――彼も、主によって一時的に盲目にされ、それから、肉体の目と心の目が開かれました。パウロは、律法について厳格な教育を受け、神に対して熱心なものでした。しかし、まことの神である主イエス様を迫害するものでありました。主によって導かれたアナニヤが、パウロのために手を置いて、見えるようになり、聖霊に満たされるようにと祈ったとき、パウロは再び、見えるようになったのであります。

私たちも自分の肉の思いをして、聖霊に満たされる時、初めて、目が見えるようになるのではないでしょうか?

黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。

ご存じのラオデキヤの教会に言われた主の御言葉であります。当時のラオデキヤは、商業上、軍事上の重要な位置にありました。また、良質の羊毛や香油や眼病によく効く目薬が作られるなどして、世界有数の裕福な町でありました。そうした中で、彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと豪語するまで、傲慢になっていったのです。信仰的にも、彼らの状態は、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるい状態でした。精神的、霊的に、みじめな憐れむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者だったのです。

ラオデキヤ教会に対する勧告として、主は、『火で精練された金を買いなさい』とおっしゃいました。金の鉱石は精錬によって純粋なものになります。火は、試練を意味しています。信仰も同じように、試練によって、純粋なものとなるのです。また、白い衣を買いなさいとおっしゃいました。白い衣とは純潔を意味しています。神は人間をこのような堕落状態から救い出すために、白い衣を用意されたのです。白い衣とは、小羊の血で洗い清められた純粋な品性を表しています。また、目薬を買いなさいとおっしゃいました。肉眼以上に大切なものは、心の目、霊的な目、信仰の目です。霊的な盲目から救われるために、主から目薬を買うことが勧められています。

最後になりますけども、御言葉を三箇所、読んで終わりにしたいと思います。

ローマ
8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

第二コリント
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

へブル
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

私たちは、目が見えることを望むものであります。しかし、今、紹介した御言葉は、私たちの肉の目が見える必要は無いと言っているかのようであります。目には見えない、けれども、永遠に続く、変わらないものに、心の目を、霊の目を向けることができれば、本当に幸いなのではないでしょうか?

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