2021年10月4日月曜日

満ち満ちたキリストの身体

満ち満ちたキリストの身体
2021年10月3日、吉祥寺福音集会
古田公人

第一コリント
1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。
1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。
1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

しばらくのあいだ、第一コリントのこのみ言葉から、ご一緒に考えたいと思います。

最初に確認したいことは、私たちは、み体なる教会の器官とされていますけれども、教会とは何かと言うことであります。ご一緒に、みことばを四箇所、読みたいと思いますが、まず最初に、三箇所、お読みします。

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

エペソ
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

今、三箇所、お読みしましたけれども、記されていることは、教会はキリストの体であって、そのかしらはイエス様だ。そして、すべての信者は、キリストとともによみがえらされ、ともに天の所にすわらせていただいて、その器官とされているということであります。イエス様が天においでになりますから、まことの教会は、天に属しています。

エペソ
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

教会のかしらは、イエス様おひとりであり、キリストの体も一つ、御霊も一つです。ですから、まことの教会は、天に属していて、ただ一つと言うことができます。では、地上の諸教会は、そのまことの教会とどういう関係にあるのでしょうか?

マタイ
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

イエス様は、この20節のみことばで、地上の諸教会をお語りになっています。『わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる』と、おっしゃいました。それが、教会です。そして、イエス様の名は、イエス様ご自身を表しています。

第二歴代誌
6:20 そして、この宮、すなわち、あなたが御名をそこに置くと仰せられたこの所に、昼も夜も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください。

ソロモンの祈りですけど、主なる神は、ソロモンが建てた神殿にご自身の御名を置き、昼も夜も目を注いで、祈りを聞いてくださいます。主なる神の名が置かれるところには、主なる神ご自身がおられます。イエス様の名が置かれるところにも、イエス様ご自身がおられます。

詩篇
111:9 主は、御民に贖いを送り、ご自分の契約をとこしえに定められた。主の御名は聖であり、おそれおおい。

主の御名の皆は聖であり、おそれおおい。主の御名は、主の権威を表しています。これらのみ言葉から、イエス様の名がある所には、イエス様の目が注がれ、イエス様の権威が満ち満ちていると言うことができるのではないかと思います。

イエス様が、地上におられたあいだは、イエス様の名において集まる人たちはみな、例外なく、イエス様を信じる人たちでした。ですから、その集まりは、実質的に教会でした。

イエス様が、十字架にかかって死なれ、よみがえられて、天に引き上げられ、天から聖霊が下されて、地上に教会が生まれました。使徒の働きの二章に記されているところであります。しかし、教会は、イエス様ご自身がおっしゃったように、すぐに毒麦が入ってまいりました。黙示録が書かれた時代には、すでに、イエス様と交わりを持たない人が、多くの教会に見られるようになっていたことを、私たちは知ることができます。

そして、今、キリストを名乗る教会は、世界の各地にありますけれども、その信者の多くは、イエス様との親しい交わりを持っていないとさえ、言われています。ですから、今は、イエス様の名において集まる人たちの集まりを、教会ということは、必ずしもできません。イエス様の名において集まる人々の中にも、イエス様を知らない人が、たくさんいるからです。

むしろ、イエス様の時代とは違って、聖書が与えられ、聖霊が地上にとどまっておられる今の時代、み言葉と御霊に導かれて集まる人たちの集いが、地上の教会であると言うことができるのではないでしょうか?いや、そういうべきではないでしょうか?そのとき、イエス様の御名は、その集いが教会であることを、保証してくださいます。

マタイの先ほどの18章の18節に、『まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです』とあったように、地上の教会と天の教会はつながっています。

まことの教会は天に属し、ただひとつ、たくさんある地上の諸教会は、天の教会とつながっています。地上の教会は、天の教会のあらわれであると言うことができるのではないかと思います。ちょうど、孟宗竹(もうそうだけ)は一本の根から、たくさん、地上に竹の子を生えさせますけれども、そういうふうに、ひとつの天の教会に、御霊とみ言葉に導かれた、交わりのある地上の諸教会が現れて出ると、そういうふうに、たとえていくことができるのではないかと思います。

ニ人でも三人でも、み言葉と御霊に導かれ、イエス様の名において、イエス様と共に集まっているところには、イエス様がおられます。そして、くどいようですけど、み言葉と御霊に導かれ、イエス様がおられるところでの、キリストの名による礼拝は、たとえ、ニ人であっても、天の教会の礼拝であり、そこでの祈りは、天の教会での祈りであると、私たちは受け止めることが許されているのではないかと思います。

では、み言葉と御霊に導かれ、イエス様の名において集まる人とは、いったい、どういう人なのでしょうか?それは、新生を経験している人だと、一言で表すことができます。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

イエス様を信じ、新生を経験するということは、イエス様に逆らっていた古い人が、イエス様の十字架の死に含まれて死に、イエス様のいのちにあって生きるものとして、イエス様につぎ合わされて、イエス様とひとつにされて、イエス様のよみがえりに含まれて、新しく生まれることであったと、このみことばは、明らかにしています。ですから、新生を経験していなければ、それは、生まれたままの人、イエス様につぎ合わされていることはないということになります。み体の器官ではありません。

最初に兄弟がお読みしてくださいました第一コリント1章に戻りたいと思います。そこには、コリントの教会の信者に与えられている恵みが記されていました。

第一コリント
1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。
1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。
1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

ここには、コリントの教会の信者たちに与えられている恵みが記されています。

パウロは、コリントの信者に恵みとして与えられた霊的な特性を六つの事柄で表しています。ひとつは5節です。ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされた。二番目は6節です。キリストについてのあかしが、確かになった。三番目は7節です。どんな賜物にも欠けるところがない。四番目も7節ですけど、熱心に主イエス・キリストの現われを待っている。五番目は8節です。責められるところのない者として、最後まで、主の守りのうちにある。そして、9節です。神の召しによって、主イエス・キリストの交わりに入れられている。

でも、すぐわかるように、このみ言葉は、コリントの兄弟たちの現実を表しているものではないということです。ということは、逆に、これら六つの特性は、コリントの教会に限らず、すべての教会の信者、一人ひとりに、恵みとして、潜在的に与えられているものであることを意味しています。どなたも、イエス様を信じたときに、この六つの恵み――ここに記されている恵み――を、すでに与えられています。ですから、パウロは、このコリント人への第一の手紙の中で、コリントの兄弟たちの成長を願って、今、挙げた六つのことをテーマに、二章以降を書き続けています。そういうふうに、第一コリントは、読み取れるのではないかと思います。

もう少し、順に考えてみたいと思います。

まず、5節です。『ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされた』ということは、福音を聞いて、受け入れたことを表しています。悔い改めて、福音を信じ、新生を経験し、御霊を受け、キリストのいのちにあって生きる者とされたということを表しています。

そして、6節です。『キリストについてのあかしが、確かになった』ということは、イエス様を個人的に知るようになり、イエス様を証しすることができるようになったことを表しています。これは大切なことです。使徒、1章8節には、イエス様のご命令として記されています。

使徒行伝
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

イエス様について――キリストについて――の証しが確かになった時、私たちは証人として用いられます。

そして、次は7節です。『どんな賜物にも欠けるところがない』とあります。御霊に主導権をあけわたし、心と体を、御霊の支配に委ねるようになったことを、この御言葉は表しています。肉の働きは、御霊によって抑えられ、ただ御霊だけが働いてくださいます。

第一コリント
12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

こういうふうに記されています。もちろん、新約聖書が完成してからは、この中に記されているいくつかの賜物は、もう役割を失っています。例えば、異言だとか、いやしの賜物は、もう新約聖書によって、役割を終えています。ですけれども、御霊が自由に働かれるなら、それぞれにふさわしく、奉仕に用いられるということは、変わることのない真理だと言えるのではないかと思います。

(第一コリント1章)7節、『熱心に主イエス・キリストの現われを待っています』とあります。今朝も祈りの中で、イエス様の再臨を、兄弟が祈ってくださいました。

第一テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

どのような状況にあっても、主が再び来てくださることを待ち望むようにと、み言葉は教えています。主を待ち望むことは、力の源泉であると、よく知られているイザヤ書の40章に記されている通りであります。

そして、(第一コリント1章)8節です。『責められるところのない者として、最後まで』主の守りのうちにある。御霊は、私たちを教え、導き、罪から守ってくださいます。そして、それだけではなくて、イエス様との交わりへと導いてくださいます。

ローマ
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

迫害、困難、苦しみの中で、霊、魂、体を守ってくださいます。

そして、(第一コリント1章)9節です。ここには、5節から8節に表されていることを、まとめて表しているのではないかと思います。神の召しによって、主イエス・キリストとの交わりに入れられることは、み体なる教会の器官であるひとりひとりにとって、必要なことであり、かつ、充分なことであるとわかります。

イエス様との親しい交わりがあるなら、主が導いてくださり、また、きよめてくださいます。そのようにして、私たちは、キリストに似た者と変えられていくことができます。ここにこそ、信仰生活の完成があると言ってもいいのではないでしょうか。イエス様に似たものと変えられる――これこそ、私たちの信仰生活の目標であり、完成した姿です。私たちは、常に、その途上にいるのだと考えていいのではないかと思います。

以上、考えてまいりましたけれども、この(第一コリント)1章の4節から9節のみ言葉には、三つの注意すべきことが含まれているように思います。

ひとつは、すでに申し上げましたように、ここに記されている恵みはすべての信者、一人ひとりに、すでに与えられているということです。多くの場合、潜在的なものにとどまっているかもしれませんけれども、すでに与えられている。それは確かなこととして、パウロは書いています。

そして、もうひとつは、御霊が働かれるなら、誰でもそれを、しかも、5節から8節に記されている順序で、表されるものとされていく――成長できるということであります。もちろん、それは、自分の力ですることではない。ですから、他人と比較する必要もない――そういう性質のものであります。主が、してくださることです。イエス様は、私たちにできないことを仰せになることはありません。信者のうちに住まわれる御霊が、主導権を持たれるなら、御霊のたまものは、潜在的なものから、御霊の現れと変わっていきます。

もうひとつ、注意すべきことは、5節から9節のみ言葉は、み体の器官である信者も、完全なものとして作られたということを明らかにしています。古い人が、イエス様の十字架の死に含まれて死に、イエス様のよみがえりに含まれて、よみがえった時、私たちは、すでに、不完全なものではなくて、完全なものとして、イエス様とともに、よみがえったということであります。

それだけに、この手紙、第一コリントに描かれている愛に関するみ言葉が、とりわけ、重みを持っているように思います。教会は、冷たいものであってはならない。そこには、いつも、愛が満ちていなければならない。そういう思いを持ってパウロは、あの愛の章と言われる第一コリントの13章を書いたのではないかと思います。

少しだけ読んで終わりたいと思います。

第一コリント
13:1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

14:1 愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

私たちも、パウロが本当に記してくれたように、そういうふうに、歩める者でありたいと思います。

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