2021年4月25日日曜日

神の沈黙

神の沈黙
2021年4月25日、市川福音集会
黒田 禮吉

ヨブ
2:1 ある日のこと、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンもいっしょに来て、主の前に立った。
2:2 主はサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンは主に答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」
2:3 主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして、何の理由もないのに彼を滅ぼそうとしたが。」
2:4 サタンは主に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。
2:5 しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」
2:6 主はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。
2:8 ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。
2:9 すると彼の妻が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」
2:10 しかし、彼は彼女に言った。「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、罪を犯すようなことを口にしなかった。

旧約聖書のヨブ記というのは、正しい人がなぜ苦しまなければならないのかというテーマが書かれています。でも、何回、読んでも私にはよくわからない、理解できない話でした。難解というよりも、何かすっきりしない箇所でありました。ヨブ記の一章と今、読んでいただいた二章十節までの論旨は、言ってみれば、非常に明快であります。正しい人がなぜ苦しまなければならないのかという疑問に対して、『私たちは、幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか』と、ヨブは妻に言ったとあります。私には到底、真似ができませんけれども、理想的な、あるべき信仰者の姿が描かれているように思いました。

ヨブ記が、これで終わっていれば、私たちが悩むような何の問題も、ここにはないのであります。しかし、その後のヨブ記の展開は、私には理解が困難でした。三人の友人との悪戯に饒舌で長いうんざりするような論争が延々と続き、どうして、このような長々とした箇所が必要なのかとの思いだけが残りました。そして、ヨブ記は、38章以降のヨブに対する主の答えで、唐突に終わってしまいます。主の答えと言いましたが、これは、実は、ヨブの主張に対する答えになっていない答えであります。

今日は、ヨブ記を、ご一緒に順を追って読んで、ヨブの苦しみと、主なる神の御心を考えてみたいと思います。

さて、ヨブにかかった災いとは、皆さんご存知のように、本当に過酷なものだったんですね。彼は、十人の子供を一瞬のうちに失いました。多くのしもべや、家畜や持ち物も、全て無くしたのです。さらに、足の裏から、頭の頂まで、悪性の腫物で、彼は打たれたのであります。そして、妻からも見放された。

サタンは、何の理由もないのに、彼を滅ぼそうとした。そして、主は、サタンの行動をお許しになったのであります。全く潔白で正しく、神を怖れ、悪から遠ざかっていたヨブに考えられない災いのあらしが襲ったのであります。サタンとは、このように人を陥れようとして、主なる神に訴えるものであります。あらゆる手を使って、私たちから望みを取り去り、主なる神から、私たちを離そうとしているものであります。しかし、それならば、なぜ主は、サタンの行動をお許しになったのでしょうか。大きな疑問が出てまいります。

ヨブ
3:1 その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。
3:2 ヨブは声を出して言った。
3:3 私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。

3:11 なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。

3:20 なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。
3:21 死を待ち望んでも、死は来ない。

『私たちは、幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか』と語ったそのヨブが、このように自分の出生を呪うようになり、次第に死を願うようになったのであります。

ヨブ
9:17 神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、
9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。

ヨブが叫んだように、神はあらしをもってヨブを打ち砕き、理由もないのに傷を増し加え、息もつかせず、苦みで満たしたのであります。そして、それは、ヨブの十人の子供が一瞬のうちに取られた、最初の災いの後の二回目の天上の会議で決められたことでありました。

最初に、兄弟に読んでいただいた箇所は、二回目の天上の会議の模様であります。一回目の試練に耐え、信仰を守ったヨブに対して、サタンは、さらにヨブを打ったのであります。神を信じる者にとって、なぜこのようなことが重ねて起きたのかという思いが、湧き上がってきます。

三人の友人がヨブをなぐさめに来るのですが、最初は、誰も一言も彼に話しかけることができなかったと、記されています。しかし、ヨブが自分の出生を呪うようになると、友人たちは、次々とヨブを説き伏せようとし、結局、伝統的な因果応報論を振りかざし、ついにヨブを罪ある者として糾弾するようになった。それによって、慰めるどころか、ヨブをますます硬くなにさせてしまうのであります。

三人は、それぞれに正しいことを言ってはいるのですが、ヨブの苦悩や打ち傷の実態を知らない、愛のない、的外れなことを言ってしまいます。

第一コリントの十三章に、有名な愛の讃歌のみ言葉があります。

第一コリント
13:2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。

三人の友人は、いわゆる正論を述べましたが、結局、そこには、愛が見られなかったのではないでしょうか。私たちも正論を述べ、律法的になり、ついつい自分のことは棚に上げて、兄妹姉妹を知らないうちに傷つけ、裁くものでしかないのではないでしょうか。

コロサイ
2:2 それは、この人たちが心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになるためです。
2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
2:4 私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。

私たちの言動は、何としばしば、的外れで、愛がなく、虚しい議論と同じようなものではないでしょうか。ヨブ記の友人たちの議論の箇所は、実は、このようなことを、私たちに知らしめるために書かれたのではないかと、思うようになりました。

ヨブ
19:21 あなたがた、私の友よ。私をあわれめ、私をあわれめ。神の御手が私を打ったからだ。

19:6 いま知れ。「神が私を迷わせ、神の網で私を取り囲まれた」ことを。
19:7 見よ。私が、「これは暴虐だ。」と叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない。

ヨブは、不幸の原因は分からなかったが、それが神の取り扱いのうちにあること、主のせいであることを、認めているのです。しかし、『叫んでも答えはなく、助けを求めて叫んでも、それは正されない』と、神の応答がないことを訴えているのではないかと思います。

ヨブ
23:8 ああ、私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。
23:9 左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことができない。
23:10 しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。

23:13 しかし、みこころは一つである。だれがそれを翻すことができようか。神はこころの欲するところを行なわれる。
23:14 神は、私について定めたことを、成し遂げられるからだ。

『私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、右に向きを変えても、神に会うことができない。』ヨブの悲痛な叫びであります。ヨブの最大の問題は、神を見い出せないことであります。しかし、彼は、信仰を捨てているわけではありません。神がみ心のままに、ことを定められる。人はそれに介入できない。そのことも知っていたのであります。ヨブが悩んだのは結局、神の沈黙ということ、神から直接の応答がないということではなかったのでしょうか。そして、その神の沈黙に対して、ヨブは次第に、自分を主張し始めたのであります。

ヨブ
30:20 私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。

31:35 だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。私を訴える者が書いた告訴状があれば、
31:36 私はそれを肩に負い、冠のように、それをこの身に結びつけ、
31:37 私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにして近づきたい。

ヨブの論争相手は、友人たちから、神ご自身に変わり、ヨブには、神に一切を告げる備えができていた。けれども、自分の潔白の確信が、次第に傲慢に変わりつつあったのであります。『告訴状があればそれを肩に負い、それをこの身に結びつけ、君主のようにして近づきたい』と書かれています。しかし、神のみ前に正しいか、正しくないかは、人には主張できないことなのではないかと思います。それは、全能者である神の領域ではないでしょうか。

ヨブ
34:29 神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう。

37:21 今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。
37:22 北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。
37:23 私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。
37:24 だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。

神の沈黙は、当事者なる神の自由であり、人がそれをとやかく言うことはできない。そのことを、主は、若者エリフの口を通して、語られるようになりました。

エレミヤ
23:18 いったいだれが、主の会議に連なり、主のことばを見聞きしたか。だれが、耳を傾けて主のことばを聞いたか。

ローマ
11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
11:34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

私たちに降りかかる災いも嵐も、私たちにもたらされる祝福も恵みも、私たちの感情をはるかに超えた天上の会議で決定されたことであり、何人(なんびと)もその厳粛な会議にあずかることはできないのであります。そして、ついに主があらしの中から答えられました。

ヨブ
38:1 主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

40:1 主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。
40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。

40:8 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。

神は、ヨブの質問に直接、答えられたわけではありません。むしろ、創造と摂理の中で、偉大な知恵と力を示す神を認識せよと迫られました。そして、『あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか』と仰せられました。ここに至って、ヨブは悔い改めて、神の前にひれ伏したのであります。神への信頼を伴ってなされる自己否定こそが、真の悔い改めであります。

ヨブ
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

人生には、様々な苦難があります。ヨブの友人たちが述べたように、ある場合には、それは、人間の罪の結果であるかもしれません。神は、ヨブの信仰を試すために、サタンの活動を許された。そして、理由はどうあれ、神ご自身がいかなる方であるかを示され、無条件でみ前にひれ伏すことを求められた。ヨブは、依然として、苦悩の原因を知ることはできなかったが、『私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました』と、告白することができたのであります。

ここに、実は、一切の問題解決の鍵があるのではないでしょうか。ベック兄は、『なぜ、どうしてと、質問しても意味のないことです。誰も答えられないからです。苦悩や病気は、おそらくは、主をよりよく知り、主に祈るために、主により頼むようにと、与えられるのではないかと思う』と言ったことをよくおっしゃいました。人生の問題は、結局、主をどのようなお方として捉えるかに帰着します。創造主なる主が、私たちの歩みのすべてを支配し、ただ、最善のみを成してくださると信じることができるならば、幸いであります。

ヤコブ
5:10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ヨブが経験した神の沈黙を、完全な形で経験されたのは、実は、人として生まれたイエス様ご自身であります。

マタイ
27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
27:48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というのは、詩篇二十二篇の祈りであります。

イエス様はこのように、全人類の罪咎を担ってくださり、十字架上で、そのいのちを捧げてくださいました。イエス様は神の御子であられるお方であるにも関わらず、その時、全く神から切り離され、ただお一人で、孤独な死を受け入れられ、従順を貫かれました。ヨブには確かに、たいへんな苦悩が与えられましたが、最後には、神からの呼びかけを経験したのであります。

第一ペテロ
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

私たちは、イエス様を、もちろん、目で見ることはできませんが、愛することができる、信じることができるのであります。同じように、ダビデはいつも、意識して、自分の前に主を置いた。だから、主の臨在を覚えることができたと、告白しているのではないでしょうか。その詩篇の部分を読みたいと思います。

詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

最後に、ヨブ記の19章25節から26節を読んで終わりにしたいと思います。この箇所は、メサイアでも高らかに歌われており、ヨブ記の中でもっとも重要な聖句と言われています。

ヨブ
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。

ヨブは、全ての原因は罪ではなく、神のご計画によるということ、そして、私を贖う方は、天におられるイエス様であり、わざわいを与えられた神ご自身が、ヨブを回復することができる。苦悩の中でもヨブは、主なる神とのこのような出会いを確信していたのであります。

終わりにします。ありがとうございました。

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