2021年4月3日土曜日

苦しみを通して用いられる

苦しみを通して用いられる
2021年4月4日、吉祥寺福音集会
古田公人

第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

本当に感謝な礼拝だと思って、参加させていただきました。

真の教会はイエス様の体にたとえられています。エペソ書の1章の20節、21節は、そのことをもっとも良く記しているところだと思います。

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

教会のかしらは、イエス様であります。信者一人一人は、みからだを構成する各器官であると記されています。ですから、教会にとって大切なことは、各器官である信者一人一人が、かしらであるイエス様と、密接に結びついているということではないかと思います。

エペソ
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

イエス様は、信者を結び合わせ、組み合わせ、成長させて、からだ全体がイエス様の愛のうちに建て上げられることを、計画しておられます。そのようにして、イエス様のご栄光が現されます。言うまでもなく、信者を組み合わせ、結び合わせ、成長させるのは、イエス様なんです。イエス様ご自身が、ご自身の愛のうちに、建て上げてくださる――これが、主のご計画であります。

エペソ
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためで(す。)

そういうふうに記されています。ですから、教会の働きでは、自分の考え、自分の思いは大切ではないと、知らせられます。自分が好む組み合わせを選ぶこともできないんです。『キリストご自身が』とあるように、全てのことは、み心によるものでなければならないと、記されています。

自分の力で成長することは、もちろん、できません。もし、自分の考え、自分の思いで、あの人たちと力を合わせて成長しようなどと、あるいは、愛のうちに奉仕しようと考えるなら、それは主の御心とは違うと、主は仰せになるのではないかと思います。私たちは、ただイエス様が用いてくださる召しに従うだけだと知らせられます。そして、主が用いてくださるかどうかは、私たちがイエス様と親しい交わりを持っているかどうかに、かかっていると思います。

第一コリント
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

これが、もっとも大切なことなのではないでしょうか。第一ヨハネの1章3節にも、同じように記されています。

第一ヨハネ
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

私たちの交わりは、イエス様との交わりでなければならないということが、ここに記されています。ですから、私たちは、御父、および、御子イエス・キリストを通して、交わりを持つということができるのではないでしょうか。

では、御父と御子は、いったいどういう交わりを持っておられたのでしょうか。

イエス様と御父との交わりにあって、際立つ特徴は、多分、イエス様の謙遜だったのではないかと思います。ヨハネの福音書を通して、私たちは、イエス様がどれほど謙遜なお方であったかを知ることができます。そして、そのイエス様の謙遜の特徴のひとつは、イエス様がご自身をお語りになるとき、しばしば、『何々をしない』、『何々はできない』という否定の形を使われたことに、よく現れているのではないかと思います。三箇所ほど見てみたいと思います。

ヨハネ
5:41 わたしは人からの栄誉は受けません。

6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。

わたしの心を行うためではない。

ヨハネ
7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

自分からは何もできない。人からの栄誉は受けないと、仰せ合成になったように、イエス様は謙遜そのものでいらっしゃいました。そして、イエス様の謙遜は、祈りにおいても明らかでした。いわゆるゲッセマネの祈りがそうでした。

ルカ
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

考えられないほどの姿です。わたしと父とは一つです。『わたしを見た者は父を見たのです』と仰せになったお方の祈りが、このようなものであった。本当に驚くほどの謙遜さであったのではないでしょうか。そして、自分の願うことではなく、父なる神のみ心が成し遂げられることを、切にお求めになりました。このようなイエス様の謙遜があったからこそ、主なる神は、イエス様の十字架の死を、なだめの供え物としてお受け止めになり、イエス様の血をご覧になって、全ての罪が贖われるに十分だと、お認めになったのではないかと思います。

イエス様と父なる神の関係を見てまいりましたけども、私たちに帰ってみますと、私たちがみ体の器官として、主に用いていただくには、イエス様が謙遜であられたように、私たちもまた、謙遜であるべきだと知らせられます。しかし、言うまでもなく、私たちは、生まれたままの私たちは、謙遜を全く持っていません。

エバが悪魔の語ることに、心を開いて耳を傾けた時から、悪魔のもたらす高ぶりが、アダムとエバに入りました。それ以来、高ぶりが人間を特徴づけるものとなっていることは、誰であっても、経験的に知っているところであります。ですから、私たちは、悩みや苦しみを通して、あるいは、様々な試練を通して、砕かれ、経験的にイエス様を知って、御霊の満たしを受け、そのようにして、イエス様の謙遜に預かるようになるのではないでしょうか。

御霊に満たされることは、謙遜になるための、どうしても必要な道筋なのではないかと思います。ですから、経験的にイエス様を知ること、砕かれること、御霊に満たされること、謙遜にしていただくことは、ひとつの大きなイエス様と私たちとの出会いの出来事なのではないでしょうか。実質的に、同じものだと言ってもいいのではないかと思います。表現はどうであれ、私たちはそのようにして、用いられるものとなるのではないかと思います。

用いられるようになった、ひとりの人の例を見てみたいと思います。

マルコ
5:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
5:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。
5:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、
5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」
5:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。

5:15 そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。
5:17 すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。
5:18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
5:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
5:20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。

このところに記されているもっとも重要な事実は、三つあるのではないかと思います。ひとつは、イエス様ご自身が、めったに来られることのないゲラサ人の地に来られたこと。二つ目は、悪霊につかれていた人が遠くから走りよって、イエス様を礼拝したこと。そして、三つめは、その人が正気に戻って、イエス様のお供をしたいと願ったこと。この三つに尽きるのではないかと思います。

まず、汚れた霊は、決して礼拝をしません。ですから、この人が、自分の意思で遠くから走りよって、礼拝をしたのです。このことから、イエス様が来られることを、心待ちにしていたことがわかります。しかも、この人が正気に戻ってから、イエス様のお供をしたいと言っています。それは、この人が、イエス様との親しい交わりを求めていたということを、明らかにしています。そして、イエス様は、あのザアカイとの出会いの中で、『人の子は、失われた人を探して救うために来たのです』と、お語りになりましたように、実は、イエス様は、この人の心をお知りになって、この人のために、ゲラサ人の地に来られたのではないかと、考えられることであります。

この人について、少し考えてみたいと思います。確かに、この人は、汚れた霊につかれていましたけれども、汚れた霊から解放されることを、切に願っていました。そればかりではなく、彼は真理を知ることをも、願っていたのだと考えられます。しかし、現実には、汚れた霊から解放される可能性はなく、また、真理を知ることができない、その苦悩の中での絶望のあまり、彼は叫び続け、自分の体を傷つけていたのだというのではないかと思います。確かに、この人を見た人は、『ああ、この人は特別だ。どうしようもない』と考えたかもしれませんけど、でも、この人は、決して特別な人ではありませんでした。

この人の特徴は、すべて、アダムの子孫である人間が持っているものだと言えるのではないかと思います。ただ多くの人は、自分が霊的な意味で墓場にいることも、罪の束縛からの解放を必要としていることも、悪霊がそばにいることも、また、真理を求めていることも、何も気づいていないか、あるいは、気づいていても、封印しているだけなのではないかと思います。

そして、イエス様が来られると、汚れた霊は逃げ去りました。この人は、悪霊を追い出していただいて、着物を着て、静かに座っていました。墓場で叫び続け、自分の体を傷つけていた状態とは、一変したのです。イエス様を知らなかった時は、求めれば求めるほど、汚れた霊が騒ぎ、傷は大きくなり、絶望が広がったのではないでしょうか。村人は誰一人、彼を理解しませんでしたし、理解しようともしませんでした。イエス様だけが彼を受け入れ、愛で包んでくださいました。イエス様を経験的に知ると、人は変えられます。

真理であるイエス様と出会い、みちからを経験して、汚れた霊から解放された自由、イエス様と共にいる喜びと平安を知ったのです。苦しみが大きかっただけ、解放の喜びも大きかったと思います。反面、イエス様なしに生きることの虚しさ、惨めさ、そういったものを、あらためて知ったに違いありません。でも、対照的に、村人はこの人に起こったことを知って、イエス様に、『立ち去ってください』と、お願いしています。

この人の苦しみは、イエス様を知るためであったと、私たちは、言うことができるのではないかと思います。そして、苦しみを通してこの人は、自分の無力さを徹底的に知っていましたから、イエス様はこの人をお用いになりました。『あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい』とおっしゃいました。彼は、経験したことですから、躊躇(ちゅうちょ)なくそのことを話すことができました。彼は、イエス様のみ言葉に忠実でした。主のみこころだけがなるように、イエス様がどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め、聞いた人々はみな驚いたと記されています。

この人は、あのゲッセマネでのイエス様の祈りを、自分の祈りとしました。イエス様の栄光だけを念頭に、主を証ししています。この人のことは、デカポリスの人々にしか知られなかったかもしれませんけど、この人の心は、イエス様とひとつでしたから、イエス様は、この人を大いにお用いになったに違いありません。

用いられたもう一人の人の例を見てみたいと思います。言うまでもなく、よく知られているパウロです。

使徒の働き
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 立ち上がって、町にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
9:20 そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。

パウロは、それまで、自分は同じ世代の誰よりも、よく聖書を知っていると思っていました。そして、信者を迫害することこそ、神様のために働いていると、考えていました。でも、彼はイエス様と出会い、三日のあいだ、暗闇の中に止まり、自分の力で歩くことさえできなくなったんです。

イエス様がちょうど三日のあいだ、土の中におられたように、パウロもまた、同じような経験をしたのではないかと思います。暗闇の中で、パウロは、それまで、これこそ道であり、真理であり、命であると教えられていたものが、実は、人間が考えて作り上げた教えにすぎず、主なる神に属するものではないということを、知ったのだと思います。

そして、同時に、イエス様と出会ってパウロが知ったことは、自分は、ユダヤ教という宗教を通して働く、悪霊の奴隷であったということだったのではないでしょうか。パウロの初めての宣教の言葉が、9章の20節にありますように、『イエスは神の子である』というものでした。

また、第一コリントの2章の2節に、『私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した』と、記していますように、イエス様なしにすることは、どんなことでも罪であり、すればするほど、罪が増し加わったということを、彼は、あのローマ書に書いているみ言葉のことを経験したのです。

彼はその後、のちになって同じくローマ書の14章の23節に、『信仰によらないものは、みな罪です』と、自分の経験を通して、啓示されたことを記しました。パウロは、悪霊の示すままにイエス様を否定し、悪霊のために働いていた、それまでの自分は、死ななければならないということを、はっきりと知ったのです。

ローマ
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

私の古い人はイエス様とともに十字架にかけられて死んだ。今は、イエス様のよみがえりにあって、新しい人とされたというこの福音の真髄は、パウロ自身の経験であり、また、イエス様から与えられた最大の啓示だったのではないでしょうか。

パウロは、このみ言葉に、イエス様のまったき救いを見出し、イエス様だけが命の光であることを確信いたしました。私たちにとっても、罪からの解放は、イエス様と共に、十字架にかけられた古い人の死以外にはありません。イエス様によって砕かれ、イエス様の謙遜にあずかるものとなったパウロの言葉は、第一テモテの1章15節にあります。

第一テモテ
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

第一コリント
4:12 また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、
4:13 ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。

改心してからのパウロは、主の栄光だけを求め、地上の現し身ではなく、御霊の啓示だけに従いました。イエス様のゲッセマネの祈りを、パウロもまた、自分の祈りとして、生涯を送ったことは明らかであります。

悩み、苦しみ、また、試みは、私たちがイエス様を知って砕かれるために必要です。人は、生まれながらに高慢ですから、信者もやはりそうなんです。自分には信仰があり、聖書の言葉をよく知っていると、安易に考え、イエス様に頼ろうとしない性質は、救われてもなお残っています。そのような性質が強くなると、み体なる教会は、ただの地上の教会へと変わっていきます。その様子が、黙示録の2章と3章に記されているのではないかと思います。

ヨハネの福音書の15章の5節を読んで、あと少し、そのことについて考えて、終わりたいと思います。

ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

このぶどうの木の例えが明らかにしていることは、一人一人がイエス様と御霊の交わりを持っているなら、豊かな実を結ぶということです。くどいようですけど、御霊の交わりを持たないなら、実を結ばないということでもあります。そうであるなら、枝である私たち一人一人が、木であるイエス様と、御霊の交わりを持っていることが、それが信者の交わりだということになってまいります。

イエス様がお考えになる信者の交わりとは、木に結びついた枝と枝が、木を介する交わリ――それが信者の交わりということだと考えられます。好き嫌いに基づいたり、長い付き合いだからとか、お世話になったとか、知り合いだからといった人間的なものが、交わりの中に入り込もうとするとき、交わりの妨げとなります。でも、現実には、多くの信者は、信者の交わりとは、木とは関係なく、単に枝と枝との関係だと、考えてしまっているのではないかと思います。

信者の交わりが、木と関係なく、単に枝と枝との交わりであるなら、風によって枝が揺れ動くように、交わりは、肉の支配を受けやすく、不安定です。もし、私たちが、自分たちはお互いをよく知っているから、一緒に何かをしよう、愛のうちに働こうとしても、実を結ぶことはありません。結局のところ、悪魔の餌食となってしまいます。

どのような時も、ぶどうの枝が、地ではなく、枝にでもなくて、木に、そして、木だけに結びついているように、私たちも頭であるイエス様との親しい交わりのうちに留まり続けたいと思います。

どうもありがとうございました。

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