2021年10月13日水曜日

なぜ過去のことが思い出されるのか

なぜ過去のことが思い出されるのか
2021年10月13日、国立谷保家庭集会
古田公人

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

聖書には、十字架の言葉は救いを受ける私たちには神の力ですと記されています。自分の罪に苦しんでいて、救いを求めているなら、福音を聞くと、すぐに、イエス様を信じ、提供されている救いを、感謝して受け入れるのではないかと思います。 

しかし――私もそうだったんですけど――、多くの人は、福音を聞いても、そもそも何が罪なのかを知ろうとはしませんし、まして、自分に罪があることを認めようとはしません。でも、そのような人でも、救われるなら、自分の罪を知るようになります。聖書は、イエス様を信じ、救われるとは――先ほどの御言葉にありましたように――、それまでの私たち、すなわち、私たちの古い人が、イエス様の十字架の死に含まれて死に、そして、イエス様につぎ合わされたものとして、イエス様のよみがえりによって、キリストのいのちを受けて、新しい人とされることであると語っています。

私たちの古い人が死んだ――これは、霊的な事実です。しかし、現実には、救われてから何十年も経ってからも、過去の自分の言葉、行為、態度、また、人の言葉など、思い出したくもないことが、次々に心に浮かび、苦しくなり、自分が嫌になり、本当に自分の古い人は死んだのだろうかと、思うようなことがあるのではないでしょうか?多分、どなたも皆、そのような経験をお持ちではないかと思います。

古い人は死んで、キリストのいのちにあって生きる者とされているにもかかわらず、あたかも、過去が生き返ったかのように、心の内に押し迫ってくるのは、どうしてなのでしょうか?今日は、そのことをご一緒に考えたいと思います。聖書は、イエス様を知って、新しいいのちにあって生きるようになるなら、過去を忘れてしまうなどとは言いません。むしろ、その反対です。

例えば、旧約聖書の時代、主なる神は、指導者や預言者を通して、イスラエル人の過去を、繰り返し、お語りになりました。例えば、申命記9章を見てみたいと思います。

申命記
9:7 あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。

9:22 あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。
9:23 主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。
9:24 私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。

主なる神は、過去についてお語りになるだけではなくて、あなた方はそれを覚えていなさいと、仰せになります。

申命記
8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。・・・・

いいことも、悪いことも、『全行程を』と仰せになります。

8:2 ・・・・それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。
8:6 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。

神の民であるイスラエル人にとっては、済んでしまったことは、忘れてよいのではなくて、自分たちがいったいどのようなものであったか、そして、主は何をしてくださったのか、これらのことを、いつも心にとどめ、そうすれば高ぶった思いから離れて、悔い改め、前に向かって進むことができるとお語りになっています。 

新約聖書の時代になって、パウロは、イエス様を信じて救われた信者の過去について、多分、当事者には触れられたくもなかったようなことを、手紙に書いています。例えば第一コリント6章です。

第一コリント
6:9 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
6:10 盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

コリントの教会で、このパウロの手紙が読まれた時に、『あ!パウロは私のことを指して書いている』と、思った人が、必ずいたと思います。しかし、パウロは、そうした当事者たちを辱めるために書いたのではありませんでした。彼らを非難するためではなく、洗われ、聖なる者とされ、義と認められたと、ともに恵みの大きさをよろこんで書いているのだと、言えるのではないでしょうか?パウロはまた、自分の過去についても、あらわに記しています。

ガラテア
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。

第一テモテ
1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

『私は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者』であったと――事実そうだったんですけど――、そのことを書いています。このことを書いたとき、パウロが、嬉々(きき)として描いたとは思いません。救われたよろこびは心にあっても、やっぱり、苦い思いがどこかにあったと思います。しかし、パウロは、ここにこそ、私の救いの原点がある、キリストの恵みがここに集中していると、確信していましたから、躊躇(ちゅうちょ)せずに書いたのだと思われます。

ピリピ
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

そういうふうに書いています。パウロは、イエス様を知る前には、自分の誇り、あるいは、長所と思っていたものが、イエス様を知ってからは、損と思うものとなったと記しています。私たちも、イエス様は知らなければ、誇りに思っていたこと、あるいは、単なる思い出にすぎなかったことも、イエス様を知ってからは、苦い思いで、思い出すようになった、そのようなことは、少なくないのではないでしょうか?

パウロは、過去ばかりか、私は今も、自分がしたいと思っていることをしているのではなく、自分が憎むことを行っているとさえ、ローマ人への手紙の7章に記しています。でも、イエス様は、そのような私を救ってださった!と、パウロは、いつも心にとめていました。いのちの御霊を受けている今は、もうパウロの現状がどうあろうとも、決して、罪に定められることはないと、彼は、自分の内なるところに目が行きそうになると、自分を見るところから、イエス様を見上げるところに、目を――心の目を――切り替えていたのに違いありません。与えられている恵みの大きさを知って、高ぶろうとする自分を戒め、悔い改めに進んだに違いないと思います。

福音を受け入れ、イエス様を信じるようになって、罪の赦しと新生を経験し、御霊に導かれる歩みを始めた人は、もう誇りをもって過去を振り返ることは、できなくなるに違いありません。それは、救われたことによって、自分がどれほど惨めであったか、誇るべきものは何もなかったということを知るようになるからです。そして、そのことは、イエス様の救いの恵みの大きさを、絶えず感謝し、日々、イエス様との近しい交わりのうちに立ち続けるためにむしろ、どうしても必要なことだと言えるのです。

私たちが過去を思い出すのは、私たちの古い人が死んでいないからではなく、まして、救われていないからではありません。イエス様が、それを恵みとして思い出させてくださいます。あたかも、自分には救われるに値する何かがあったかのように思うのではなく、生まれながらの自分の姿を知って、救いの恵みを感謝し、高ぶる心を悔い改め、新しい歩みを日々、始めるようにと、イエス様が、あえて過去を思い出させてくださるのではないでしょうか?

多くの人々に知られ、愛されているアメージング・グレイスという賛美歌がありますけれども、あのアメージング・グレイスは、奴隷貿易をしていた商人であったジョン・ニュートンが、二十二歳で回心し、後に牧師となってから作った歌詞を、既にあった曲にのせたものであると言われています。そこには、『道を踏み外し、さまよっていた私を、神様は救い上げてくださった。見えなかった神の恵みを、今、私は見る』とあります。ニュートンは救われ、自分の過去を振り返り、救いの恵みをどうしても証ししたいと、そう思ったのではないでしょうか?

繰り返すことになりますけれども、私たちが過去を思い出すのは、罪が赦されていないからではなく、私たちの古い人が死んでいないからでもなく、救いの恵みの大きさをあらためて知り、イエス様の前に、小さくなって感謝し、まだ救いを知らない人々に、イエス様を証しするために必要だからなんです。過去が思い返されるとき、過去にとらわれるのではなくて、主を見上げ、心からイエス様を褒め讃えたいと思います。

最後に、第二コリント七章から読んで、終わりたいと思います。

第二コリント
7:8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、
7:9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
7:11 ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。
7:12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは悪を行なった人のためでもなく、その被害者のためでもなくて、私たちに対するあなたがたの熱心が、神の御前に明らかにされるためであったのです。

パウロは、コリント教会の兄弟姉妹のことを祈りつつ、この手紙を書いたのではないかと思います。今、イエス様が同じ心で、私たちにこのみ言葉を送ってくださっています。

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