2021年10月24日日曜日

信者に残された最上にして最後のわざは祈り

信者に残された最上にして最後のわざは祈り
2021年10月24日、吉祥寺福音集会
重田 定義

エペソ
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

だいぶ前になりますけれども、年老いたひとりのドイツのキリスト者が作った『最上のわざ』と題する詩を読んで、同じように年老いた私は、たいへん感動し、深い共感を覚えましたので、その詩を書き留めておきました。その詩とは、次のようなものであります。お読みします。

この世の最上のわざは何か?
楽しい心で年を取り、
働きたいけれども、休み、
しゃべりたいけれども、黙り、
失望しそうなときに、希望を持ち、
従順に、平静に、己の十字架を担う。
若者が元気いっぱいで、
神の道を歩むのを見ても妬まず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、
親切で、柔和であること。
老いの重荷は、神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける、
まことのふるさとへ行くために。
己をこの世につなぐくさりを、
少しずつ外して行くのは、まことにきびしい仕事。
こうして何もできなくなれば、
それを謙虚に受け入れるのだ。
神は、最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ。
手は、もう何もできない。
けれども、最後まで祈ることはできる。
愛するすべての人の上に、
神の恵みを求めるために。
すべて終えたら、臨終の床に、神の声を聞くだろう。
『来なさい、我が友よ、我、汝を見捨てじ』と。

イエス様の十字架の御業を信じ、罪、赦された者は、神の恵みによって生まれかわり、この世に属するものから、神に属するものへと移されます。パウロは、いま読んでいただきましたエペソの2章10節で、このように、イエス・キリストを信じる信仰によって生まれかわり、神に属するものとなったものを、良いわざ、よい行いをするために、キリスト・イエスにあって造られた神の作品と呼んでいるのであります。

そして、さらにパウロは、その良い行い、良いわざに歩むように、神があらかじめ、その良いわざをも、神の作品である私たち、キリスト者に備えてくださったと言っているのであります。

一般に、良い行い、良いわざとは、道徳的な良い行い、倫理的な良い行い、あるいは、人道的な良い行いをさします。けれども、神の作品として作られたキリスト者の良い行いも、外見的には、これらの良いわざ、よい行いと、同じように見えるものが多くありますので、世の中の人には、世で言う良い行いと、神の作品として造られた私たち信者の良い行いの違いが分かりにくい、あるいは、分からないのですね。

そして、キリスト者であっても、霊の目が覚めていなければ、同じと思ってしまう方が多いのではないでしょうか。けれども、同じように見えても、その動機は、全く違います。それは、自分の思いから出た行いか、神のみ心から出た、愛に基づく行いかの違いであります。

自分の思いから出た良い行いには、意識するにせよ、しないにせよ、自分がしたという自己満足が、あるいは、自分を誇る思い、自分に栄光を帰す思いが伴います。これについてパウロは、コリント人へ手紙第一でこう言っています。

第一コリント
4:7 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。

『あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか』というこのみ言葉は、あなたの持てる全てのもの、すなわち、富も能力も健康も、さらに、良き行いすらも、すべて神からの賜物として与えられているのだから、それを、自分のものとして、あるいは、自分の努力で獲得したものとして誇るのは心違いであると、パウロは言っているのであります。

こういうわけで、パウロは、ガラテヤ人への手紙の中で、信者に対して、自分は良い行いをした、自分が立派だとうぬぼれないように、次のように戒めております。

ガラテヤ
6:3 だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。
6:4 おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう。

一方、神の作品として作られた私たち、キリスト者の良い行い、良きわざは、自分の思いから出た行いではない――神があらかじめ備えてくださった、神の愛に基づく行いであり、それを行うのは自分ではありません。

ガラテヤ
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

こうありますように、それは、信じる者に与えられた御霊の導きに素直に従うことによって達成できる良い行いなのであって、そこには、自分を誇るべきものは全くなく、そのような善き行いを備えてくださり、行わせてくださった主を誇り、主に感謝し、主に栄光を帰するだけなのであります。御霊に導かれた行いは実を結びます。その実とは何でしょうか?

ガラテヤ
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

しかし、私たち信者すべてが、このような実を結ぶことができるわけではありません。なぜなら、その理由は、信者の中に根強く残っている硬い肉の思い、すなわち、自我が御霊の導きを妨げているからであります。しかし、主は、そのような自我が強く、信仰の弱い信者を、なおも愛してくださり、体を衰えさせるような病や老いなどを与えて、自我を砕き、信者のうちに住んでくださる御霊が働かれるようにしてくださいます。

パウロは、これについて、コリント人の第ニの手紙で次のように言っています。

第ニコリント
4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

冒頭でご紹介しましたドイツの年老いたキリスト者も、まさに、そのように主に導かれたひとりではないかと思います。彼は、年老いて、肉体が衰え、それまでのように自力で主のために働くこともできない不自由な身となりました。しかし、そのことによって、彼のうちに住みたもう御霊が働き、霊が強められ、御霊の実を結ぶことができたのです。

彼は、話したいけれども、黙り、すなわち、忍耐することができ、失望しそうな時に、希望を持ち、従順に、平静に、自分の十字架をにない、若者が元気いっぱいに神の道を歩むのを見ても妬まず、人のために働かなくても、謙虚に人の世話になり、もはや、人のために役立たなくても、親切で、柔和であるように努め、老いの重荷を神の賜物として受け止め、何もできなくなっても、それを謙虚に受け入れることができたのであります。まさに、これこそ、御霊の実として表された善き行いでありましょう。

それだけではありません。続いて、彼は、すばらしいことを言っております。『神は、最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども、愛するすべての人の上に、神の恵みがあるように祈ることはできる』と。

肉体が衰え、手足も思うように動かすことができず、ただ、仰向けに寝たきりの状態になっても、信者には残された最上の良きわざをすることができる。それは、愛するすべての人に、神の恵みがあるようにという、とりなしの祈りだと、彼は証しをしているのであります。

このことに関連して、今からもう三十二年も前になりますけれども、八十八歳で天に召された私の父の上に残された奇蹟ともいうべき出来事を思い出します。父は、十九歳で、相次いで両親を失い、失意のどん底にあった時に、親友から聖書送られたことを機に、イエス様を信じ、それから、約七十年のあいだ、熱心に教会生活を送り、長老として、四代の牧師に仕えました。苦学しながら、東京大学の医学部を卒業して、小児科の医者になり、また、厚生省の官吏として、そして、後には、東京大学の教員として、貧しい家庭に置かれた体の弱い子供たちや心身障害児、あるいは、心を病んでいる青年たちの相談や支援に、一生を捧げた人でありました。

そのような父を、多くの方が慕ってくださいました。しかし、ほとんどの方は、父がキリスト者であったことを知りませんでした。晩年になってから、何度か、ベック兄や集会の兄弟がたとも、親しく交わっていただきましたけれども、父の信仰は、依然として、行いの信仰にとどまっておりました。

その父が、肺の線維症を病み、寝たきりの病人になってしまいました。そして、父の上に驚くべき霊的な変化が起こされました。ある日、家内が目も衰え、手の力も弱った父のために、紙に大きな字で書いて持って行った詩篇の二十三篇を、ベッドの上で手にとって、じっと読んでから、父は、急に大きな声を出して、『主よ、このみ言葉こそ、私の思いそのものです』に始まる賛美の祈りを祈ったのです。

その後、父は、堰を切った水のように、見舞いに来てくださる方々のために、祈るようになりました。集会の兄弟姉妹が見舞いにしてくださると、たいへん、よろこんで、集会が主の生けるみ体として祝福されるように、そして、集会の兄弟がたの上に、主の恵みがあるように、主に大いに用いられるようにと祈り、『祈ろうと思ってきたのに、反対に祈られてしまった』と皆さん、驚かれました。病によって体が衰え、父のうちに住んでくださっている御霊によって、霊が目覚めて、生き生きと働いて、このような祈りができるようになったと思わざるを得ません。

まさに、主の憐れみによって、主の行いの信仰が、祈りの信仰へと変えられ、この世のいのちの終わりの時に、神の作品として作られた証しとして、主が父に残された最上のわざを、させてくださったのであります。

私たち、キリスト者は、パウロが言っておりますように、信じる前の古い人は、主イエス様と共に十字架の上で死に、主のよみがえりのいのちをいただいて、それからは、主と共に、新しいいのちに歩むようにされた者であります。

ローマ
6:4 私たち(・・・・信者・・・・)は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって(・・・・イエス様のいのちにあって・・・・)新しい歩みをするためです。

こうある通りであります。キリストのいのちにあって生きるとは、言い換えますと、神の作品として、造りかえられた私たちキリスト者が、主によって備えられた良きわざに生きるということでもありましょう。

パウロは、自由の身の時には、御霊に導かれるままに、当時の全世界に出かけて、福音を述べ伝えました。けれども、囚われて、不自由の身となってからは、獄中で、各地の主にある兄弟姉妹のために、たくさんの書簡を書き送りました。そして、その手紙の最後には、必ず、祈りが書かれておりました。それは、単なる形式的な挨拶の祈りではありません。自分の手紙を読んでくれた、愛する信者たちに恵みがあるようにという、熱い思いが込められた、とりなしの祈りなのであります。そのひとつをお読みいたします。

エペソ
6:23 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。
6:24 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

パウロは、獄中にあって、不自由な身となっても、とりなしの祈りという最上の技をすることができたのであります。

私たち信者も、健康な時には、御霊の導きに従って、示されたところに自由に出向いて、福音のため種まきをしたり、あるいは、求める魂や、悩み苦しむ人と交わることができます。しかし、身体が衰えて、自由に動き回れなくなっても、あるいは、病のために寝たきりになっても、主は、祈りという信者に残された最上の仕事を、私たちに与えてくださっているのであります。なんというありがたい主のみ心ではないでしょうか。

世の終わりが近い時にあって、私たち信者は、どんな状態に置かれても、神の作品として造られたものとして、主が、来なさいと言われる時まで、霊の目を覚まし、御霊に導かれて、主が備えてくださった良きわざである、『愛するすべての人の上に、主の恵みが豊かにあるように』という祈りに、日々、励むことができるよう、心から祈る者でありたいと切に願います。

最後に、もうひとつ、エペソ人への手紙の六章のみ言葉をお読みして、終わらせていただきます。

エペソ
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

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