2021年11月21日日曜日

隠れている罪と開かれた門

隠れている罪と開かれた門
2021年11月21日、秋田福音集会
岡本 雅文

詩篇
19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

マタイ
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。

今、読んでいただいた箇所は、よく知られているぶどう園のたとえが、真ん中に入った箇所であります。私自身にとっても、この箇所は、救われてすぐに、大きな感動と、また、慰め――それを得たみ言葉であります。幾度もメッセージで取り上げてまいりましたけれども、今も、読むたびに、この箇所に出会うたびに、新しい思いを与えられています。いろいろな内容が込められている箇所ではないかと思うんですね。

このぶどう園の例えは、読んでいただいたように、すぐ前の前のマタイの19章の30節の、『ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです』という御言葉に続いて、始まっています。そして、最後の20章の16節、そこにも、よく似た御言葉が書かれています。『このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです』というものです。よく見なければ、同じように見えますけども、言葉が少し変わっています。後でまた、ふれたいと思います。

ですから、19章の30節と、20章の16節の真ん中に、サンドイッチのような形で書かれているぶどう園のたとえなんですね。そうすると、このぶどう園の例えは、マタイの19章の30節と20章の16節の霊的な解説、または、答えであるとも考えることができます。

また、少し聖書をさかのぼってみると、19章の16節から始まる、そこにもひとつの問いがあります。ひとりの人が、イエス様に永遠のいのちを得るためには、どんなよいことをしたらよいのでしょうか?という質問です。そうすると、この問いに対するイエス様の返答の続きと、このぶどう園のたとえを捉えることもできると思うんですね。

しかし、もっとさかのぼると、マタイの19章全体、さらには、聖書全体の問いである天の御国、すなわち、神の国、これは、別の言葉で言うと、イエス様ご自身の支配の中に生きることの答えを、意味しているとも考えることができます。

このぶどう園のたとえの中に出てくる三つの時間帯に雇われた、三つのグループの人たちが、紹介されています。それぞれ、次のような条件で雇われました。それは、働きに対する報酬の契約内容、約束の内容と言ってもいいものです。

第一のグループは、朝早く、おそらく六時頃、早く雇われた人たちであります。そして、彼らは一日一デナリの約束をいたしました。当時のほぼ平均的な一日の給料ですね。これは、先ほど読んでいただいた20章の2節に書かれています。彼らは、約十二時間、働いたことになります。六時から六時まで、半日、働いたことになります。

そして、第二グループの人たちは、中間の時間帯、九時と十二時と三時頃に雇われた人たちと書かれています。そして、彼らは、『相当のもの』と言う約束を与えられました。相当のものを与える――賃金ですね。最初の人たちは、一デナリ、そして、中間帯に、昼ごろに雇われた人たちは、『相当のもの』を与えるという契約でした。

そして、第三のグループ――彼らは、仕事がもうすぐ終わる夕方、五時頃、雇われた人たちです。そして、彼らは賃金の約束はありませんでした。これは、7節に書かれていますけど、何の約束もされていません。そして、彼らは、一時間、働いただけだったんですね。

それぞれのグループの人たちの違いは、働いた時間の長さ――私たちが、目で見てわかる働きの尺度ですね。時間の違いが、この三つのグループの特徴です。最後の第三のグループが雇われて、約一時間後に夕方になりました。そして、仕事が終わりました。そうすると、それぞれのグループの人たちに賃金が支払われることになりました。8節から10節に、書かれています。

まず初めに、もっとも後に――最後に――ぶどう園に雇われた、第三のグループの人たちから、賃金が手渡されました。それは、一デナリだったんですね。もうご存知だと思います。そして、次の第二グループも、一デナリが支払われました。そして、最後に支払われた、朝早くから働いた第一グループも、同額の一デナリでありました。有名な話ですね。全員、同額の一デナリでした。契約の内容は、それぞれ違いました。しかし、結果は全員、一デナリ。そして、19章の30節、最初に読んでいただいたみ言葉のように、朝早くから働いた先の者――この先の者が、最後、後に支払われ、そして、五時から働いた後の者が、先に賃金を支払われました。

先の人々は、これを見て、不公平だと思ったのであります。しかし、ぶどう園の主人の評価は働いた時間、すなわち、働きの大きさではありませんでした。ただ、主人の呼びかけに耳を傾け、呼びかけを受け入れたか、どうかだけ――それが、主人の評価だったようであります。十二時間、働いても、六時間前後、働いても、一時間しか働かなくても、まったく同じように、主人の呼びかけに耳を傾け、そして、ぶどう園に行った人たちでした。

これだけが、同じ代価、同じ一デナリを与えられた評価であるように思います。それだけが、新しいこの主人の評価基準だったようなんですね。この点においては、全てのグループの人が同じでした。ただ、これだけだったのであります。これは、彼らが考えてもないことだったでしょう。

第二コリントの6章に、有名な御言葉があります。

第二コリント
6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

パウロは、コリントの集会に、神は、このみ言葉を受け入れるものを、同じように救う。これだけしか、神は、私たちに要求なさいませんでした。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。』このみ言葉を信じるかどうか、それだけが、主なる神の評価基準であったようです。

朝早くから働いた先の者は、主人に文句を付けて言いました。大切なところなので、もう一度、読んでみましょうか?

マタイ
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると(・・・・それとは一デナリですね。事前の賃金を受け取ると・・・・)、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は・・・・』

この言葉からも、彼がどんなに怒っているかがわかります。

20:12 ・・・・『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』

ここに、朝早くから働いた先の者の心が、明らかにされています。自分たちが主人と結んだ契約内容には何ひとつ触れず、ただ五時から働いた後の者の賃金と比較して、不満を抱きました。そして、主人に文句を言ったのであります。

契約では、後の者の取り扱いは、先の者には全く関係ないことだったのですが、この人は、契約とは関係ない、人の状態と比較して怒ったと書かれています。これは、人類共通の人の陰険な心が表れています。彼だけではなくて、すべての人間が、このような思いを隠して持っていると思います。

また、一日中、労苦と焼けるような暑さを忍耐するのは、契約時の一デナリの賃金の条件に織り込み済みのことでした。どういう仕事をするか――それは、一デナリの中に全部、入ったことだった。それにもかかわらず、彼は、一日中、労苦と焼けるような暑さを忍耐したことを主人に告げて、文句を言いました。もし、朝早くから働いた先の者から賃金が支払われていたなら、後の者ではなくて、朝早くから働いたこの人たちに、賃金が最初に支払われていたなら、彼らは、穏やかな心で家路についたことでしょう。しかし、ぶどう園の主人――イエス様は、そうはなさいませんでした。穏やかな心で帰ることができた人の心に、わざわざ火を、不満の種を、いわゆる律法を投げ入れました。

彼らはまた、私たちの心の中に隠されていた戦う欲望に火を付けられました・・・・わざわざ。ヤコブの4章には、こう書かれています。

ヤコブ
4:1 何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。

働きの報酬という契約どおりの正当な賃金が支払われたことが争いの種、火となりました。こうして、彼らの、また、彼らだけではなく、すべての人の心に隠れていた罪が、正体を現しました。しかし、イエス様の御心は、神の御心は、彼らをただ怒って、家に返されただけではありませんでした。

私には、朝早くから働いた先の者――すなわち、早くから信仰を持っているキリスト者と言ってもいいかもしれません――彼らが、主人のはかりしれない恵みを、いつでも与える用意があることを知って欲しいと、この主人の行動の中に、このような願いがあると思わされます。

20章の13節から15節で、主人、すなわち、イエス様の言葉は、叱責でも、教訓を与えるということでなく、愛から出た憐みであると考えられる言葉です。13節から15節ですね。主人の返答――彼らの不満に対する主人の返答をよく読めば、イエス様の愛がわかります。ていねいに、ていねいに、彼らを説得しようと努めているんですね。読んでみましょうか。

マタイ
20:13 彼は(・・・・主人は・・・・)そのひとりに答えて言った(・・・・文句を言った人でしょう・・・・)。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。』

あなたと同じだけ、それ以上でも、それ以下でもなく、同じようにしてあげたいのです。

マタイ
20:15 『自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、(・・・・言葉を換えれば、えこひいきするので・・・・)あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

これは、叱責でも、また、教訓を与えようとしている言葉でもありません。自分と彼が結んだ契約どおり、正直に、それを履行した――それに対する私たちの心の奥底に眠っている戦う欲望が、芽を出したのではないかと思わせるのであります。『あなたと同じだけ上げたいのです。』ここに、ローマ書の5章の8節、ここに書かれたイエス様の心があるようです。

ローマ
5:8 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

パウロは、朝早くから働いた先の者のうちにある陰険な妬みの心が、彼自身のうちにもあることを、この例えから後で知るようになったのではないかと思わされます。そして、パウロは、パウロ自身の陰険さは、彼の責任ではないこと、彼のうちに住む罪であることを、徹底的に知らされる恵みに導かれました。私たちも、パウロと同じ恵みに今、招かれています。

ローマ
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

このぶどう園の例えは、パウロが、この手紙を書く数十年前に、イエス様ご自身の口から語られた言葉であります。そして、パウロは、おそらく十二弟子たちから、イエス様の言葉を聞いて、そして、自分のうちに起こっているあらゆる出来事を理解するようになったのではないかと思います。

決して、神は、私たちの隠れている罪の本質を指摘するだけではありませんでした。人の生まれながらの心に住み着いている原罪のもたらす労働というつらい仕事をとおして、神ご自身に出会う機会を与えられました。あのエデンの園で追放されるとき、アダムは、労働――働くことを、神から命令されました。一生、働くつらい仕事、しかし、そのことを通して、神ご自身に出会う機会も与えられたと思わされます。

パウロは、ぶどう園のたとえを、同じくローマ書の4章で、次のように表現しています。

ローマ
4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

聖書は、あらゆる箇所を通して、私たちをひとつの方向へ導いています。後でパウロが知ったように、ローマ書で解き明かした隠された罪の真実が、すでにイエス様のたとえの中で告げられていました。一日、一デナリという正しい契約が、律法の役目を果たして、朝早くから働いた先の者の心の奥底に隠れていた罪が、その正体を現したのであります。パウロの告白どおり、律法によって、先の者たちの罪が生きました。

同じくローマ書の7章をお読みしましょうか?ローマ書を読むと、このぶどう園のたとえ、そのものだと思わされます。

ローマ
7:8 しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。

一デナリがなければ、罪は――先の者の罪は――、死んだものだったのであります。心を穏やかにして、家路に着いたはずであります。しかし、同じ一デナリを見たために、罪が生きたと言えます。

ローマ
7:9 私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。

イエス様は、一日一デナリという契約、すなわち、律法を労務者たち全員に与えることによって、平和で終わるはずの一日を、真理が明らかにされる特別な日とされました。この三つのグループに与えられた三つの契約には、働きに対する報酬、すなわち、人の努力と恵み、すなわち、神の愛が隠されていました。その契約は、聖なる約束であり、良いものでしたけれども、その良いものが罪が生きるように働きました。

真面目に働いた――朝早くから働いた先の者、すなわち、真面目な罪人の顔をむき出しにしたのであります。その奥に潜む罪人の顔を剥き出しにしたのであります。

同じ一デナリの賃金が、その人たちの状態を、一瞬にして明らかにいたしました。イエス様の介入によって、各自の働きの量、働きの計りと、神の愛による恵みが反比例するものとして明らかにされました。しかし、このたとえを読むと、恵みというものは、働きのない者にしか、分からないようになっているということが分かります。働く者、自分が働いているという者は、恵みは決して、理解することができません。

イエス様は、三つのグループに、初めからふさわしい約束の言葉を、契約の中に織り込んで与えられていました。その契約、約束をもう一度、確認してみましょうか?

朝早くから働いた第一のグループの人たちは、一デナリと言う約束でした。中間の時間帯に雇われた第二グループの人たちは、『相当のもの』と言う約束でした。そして、夕方に雇われた第三グループの人たちは、金額の提示なしでした。先ほど見たとおりであります。彼らには、朝早くから十二時間、働いた先の者と同じ賃金、同じ喜びを、一時間だけ働いただけで、手渡されました。五時から働いた者は、一時間だけで、十二時間、働いた者と全く同じ、そのような恵みを与えられました。

働きのない者に恵みとして与えられる賃金は、数値で表すことができません。喜びの大きさだけが、その指標となるからでしょう。働きのない程度に従って、賃金の表現が曖昧(あいまい)になっています。第一グループは、一デナリと、はっきりとした賃金です。そして、昼間から働いた人たちは、相当のもの、六時間ぐらいですね。そして、一時間の人は、金額の提示なしと、少しずつ曖昧に・・・・それは数字では表せない、大きな恵みが増えているからでありましょう。

主の前における働きの大きさは、世の評価と反比例して、働きの無さを心から認め、主なる神の恵みの大きさを感謝する程度によるのがわかります。そして、イエス様は、三つのグループに属する全員が、同じ陰険な心を持つ者であることも知っておられます。ただ、置かれた状況、置かれた状態によって、あるときは、自分の働きを誇り、あるときは、神に感謝する振り子のようなものであることをも、知っておられます。それ故に、朝早くから働いた先の者にも、ていねいに、ていねいに、答えてくださっていることに、感謝せざるを得ません。

このたとえの最後に、『このように後の者が先になり、先の者があとになるものです』と、書かれているとおりでした。五時から一時間しか働かなかった後の者が、より多くの恵みをいただきました。このように、後の者が先になったのであります。主人と約束した一デナリの報酬の額を忘れて、後の者の働きの長さと、自分の働きの長さを比較して、より多くもらえるとほくそ笑んだ、朝早くから働いた先の者は、主人の取り扱いを不公平と決めつけ、不満を覚えました。

聖書に書いてあるとおり、自分の罪の中で死ぬとは、こういうことかもしれません。一デナリの報酬が決められた額であるにもかかわらず、そばで、一時間しか働かなかったのに、一デナリをもらった、その事実を見て、彼の心の中に隠されていたものが明らかになりました。しかし、朝早くから多く働いたはずの先の者であった者も、今や、後の者となりました。

はじめの19章の30節では、『先の者が後になり・・・・』と始まっていますが、最後の20章の16節では、『後の者が先になる』と逆になっています。私は、ここにもイエス様は、後の者――今となっては後の者となった第一グループの人たち――に、再び、新しい装いをもって、先の者となるように、門を開いてくださっているように思えてなりません。私の願い、私の祈りを、この小さな小さなしるしを見て、心に思うのであります。

この世の知恵で考えるならば、この男は、不平を言いながら帰ったと考えるのが普通かもしれません。しかし、このたとえの前のマタイの19章の26節に、次のように書いてあるのは救いです。

マタイ
19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた(・・・・弟子たちですね。弟子たちをじっと見て言われた・・・・)。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

聖書が告げるのは、朝早くから働いた先の者たちが、その後、どうしたかは書いていないという事実だけがあります。『彼らが、不満をいだいて帰った』とは書いてありません。また、悔い改めたとも書いてありません。白紙そのものです。聖書は、ほとんどがそのような書き方をしています。多くの場合でそうなんです。

『神にはどんなことでもできます』という開かれた門が、このたとえの前に書かれています。聖書はいつも、私たちの前に、二つの開かれた道を置いておられます。ひとつは死の道でありましょう。エバの心に与えられた、蛇の誘惑に心を動かされる、生まれつきの原罪の道とでも言いましょうか?もうひとつは、後の者が先になる道、すなわち、働きのない者に与えられる恵みの道であります。私たちの心に思い浮かんだことのないイエス・キリストの心そのものです。

私たちが集う――今日のような――ぶどう園、ここにも開かれた門があります。夕方、仕事が終わる頃、誰もが疲れ果てた頃、私たちには、開かれた門があります。それは、後の者にも、先の者にも、同じようにそれぞれ置かれた状況にふさわしく、最後まで関わってくださる羊の門でありましょう。そして、その門の近くから、二種類の喜びの声が聞こえてまいります。ひとつは、後の者の感謝の喜びの声、もうひとつは、先の者の悔い改めの喜びの声であります。

そして、『いつも喜んでいなさい』というひとつの声がする門の向こう側へ続く道が見えるようであります。この御心は、旧約の律法の時代から、主なる神の御心として、神の奥義として隠されていた恵みそのもの、恵みの道ではないかと思わされます。どんな罪人でも、また、いかにこの門から遠く離れていようと、主なる神はまだ、戸を、また、門を閉めたと言われていません。この方に頼りたいと願い始めるとき、私たちは、必ず開かれた門を見つけるようになります。フィラデルフィアの教会にも、そして、ラオデキヤの教会にも、開かれる門、開かれる戸が書かれています。

私たち自身が、固く固く閉ざしていた心の扉も、必ず願うと開くと、私たちは信じていいのではないでしょうか。この望みに、共にあずかることができるように祈っています。

最後に、このたとえの直前のマタイの19章で、ペテロが言った言葉を少し見て、終わりにしたいと思います。

マタイ
19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」

弟子たちもまた、イエス様の呼びかけに応えて、最初から働いた先の者たちでした。彼らは、イエス様、すなわち、天の御国に毎日毎日、出会いながらも、最後の日に――あの最後の晩餐の日に――初めて、イエス様ご自身を捨てるほど、自分たちが弱かったこと、愚かだったことを知りました。先の者と自負していた弟子たちは、奈落の底に転がり落ちて、這い上がることができない、正真正銘の後の者となったかに見えました。

しかし、歴史が証言しているように、また、本日の御言葉が証ししているように、それは、彼らが本物の先の者となるための恵みそのものであったと、私たちは知らされています。そうであるなら、私たちも、彼らと同じ恵みが振る舞われないはずがありません。苦しみ、悩み、悲しみ、寂しさを忍耐するとは、弟子たちの喜びの始まりとなったあの日の最後の晩餐のその後の世の新しい創造の日に、私たちも同じように招待するされていることを意味しているのではないかと思います。

最後に、一箇所だけで終わりにしたいと思います。

第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

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