2021年3月28日日曜日

いのちのことばと救い

いのちのことばと救い
2021年3月28日、御代田福音集会
古田 公人

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

救いとは、何でしょうか。救いとは、よく言われることですけど、罪の赦し、主なる神との和解、永遠のいのち、この三つがそろって、救いを受けるということだと言われています。言うまでもなく、罪の赦し、主なる神との和解、永遠のいのちは、それぞれ、違うものですけれども、順序があります。罪の赦しがなければ、主なる神との和解はなく、また、主なる神との和解がなければ、永遠のいのちを受けることはありません。ですから、あえて言うならば、救いとは、永遠のいのちを受けることだと、言うことができるのではないかと思います。

イエス様は、永遠のいのちについて、しばしば、お語りになりました。おもに、ヨハネの福音書ですけど、今日は、そこから、イエス様がお語りになったみ言葉をご一緒に、順に見ていきたいと思います。

ヨハネの3章16節――このみ言葉はイエス様ご自身の言葉ではありませんけど、こう記されています。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神様が世を愛された証しとして、全ての人が救われて、いのちを持つことだと記されています。主なる神は、世を愛してくださいました。むしろ、敵対する暗闇の世であるにも関わらず、だからこそ、世を愛してくださいました。

ヨハネ
5:21 父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。

イエス様は、『いのちを与える』とお語りくださいました。いのちは、イエス様が与えてくださるものだと、ここに記されています。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

ここには、みことばを聞いて信じる者は、永遠のいのちを持つと記されています。先ほどは、『与える』とおっしゃいましたけど、ここでは、『その者がいのちを持つ』とお語りになっています。死からいのちに移っている。何か、自動的に物事が起こるかのように、イエス様がお語りになりました。

ヨハネ
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

肉――生まれながらの私たちの性質であります。生まれながらの私たちの中には、いのちはない。『いのちを与えるのは御霊です』とお語りになりました。そして、み言葉が、霊であり、また、いのちですとお語りになっています。こうして見ると、ひとつひとつ同じように、いのちについてお語りになっていますけれども、表現が違います。表現が違うということは、イエス様のみ力の現れ方が違うということを、意味しているのではないかと思います。

ヨハネ
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

いのちの光。輝く光でしょう。人のうちから、御霊によって、いのちの光が現れ出ると、約束してくださっています。

ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

ここでは、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです』とお語りくださいました。いのちは、道であり、また、真理であるということです。永遠に変わることのないいのちだ――決して、よこしまなものや、間違ったものの入り込む余地のないいのちだと、お語りくださっています。

ヨハネ
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

このみ言葉は、今まで、お語りになったみ言葉とは、少し違います。いのちを与えるとおっしゃいました。信じる者は、いのちを持つとおっしゃいました。いのちを与えるのは、み霊ですとおっしゃいました。ここでは、イエス様を知ることがそのまま、いのちだと、お語りになっています。

私たちにとって、本当にありがたいお約束です。難しいことはできなくても、知ることはできます。勉強したり、あふれるほどの教養を積まなくても、イエス様を知ることはできます。それがいのちだと、約束してくださっています。

いのちを受けた人を、二人だけ見てみたいと思います。どちらもよく知られてる人ですけど、ひとつは、あの十字架上の犯罪人です。今日は、ちょうど受難週ですけど、まさに、そのイエス様が十字架におかかりになったときの出来事です。

ルカ
23:41 「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

この犯罪人は、並大抵の犯罪人ではなかったと思います。ともかく、十字架につけられた犯罪人でした。でも、彼は、死を前にして、自分の罪を正直に認めています。そして、怖れました。

それまで、この人は、イエス様にお目にかかったことはなかったでしょうけれども、イエス様のことは、聞いていたようです。イエス様の隣りにいて、それだけで、彼には、砕かれた心には、イエス様がどなたであるかが、わかったということでしょう。このお方は、信頼するに値するお方だ。このお方は普通の人ではないということを、彼は、確信を持って、受け止めました。ちょうど、その側にいた百人隊長が、『真にこの方は神の子だ』と、受け止めたのと同じように、彼は受け止めたに違いありません。

死後の裁きを恐れていたこの犯罪人には、イエス様との出会いは、本当に天から与えられた恵みとして、受け止められたのではないかと思います。『あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』正直ですけど、同時に、謙虚な祈りです。イエス様は、『あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます』と、約束してくださいました。彼は、救われました。永遠のいのちを受けたんです。だからこそ、『今日、わたしと共にパラダイスにいます』と、約束をいただきました。

救われることは、本当に簡単です。救われるには、何歳になっても遅すぎることがなく、どのような過去があっても、それが問題にされることはありません。『あんたはいったいどんなことしたの?』と、イエス様はお尋ねになりませんでした。『あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』無条件で、完全な救いをお与えになりました。人生の最後であっても、正直な心で、イエス様のところへ行くなら、救われます。

もうひとつ、見てみたいと思います。ちょっと長いですけど、読んでいきます。

マルコ
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

この人は、イエス様を普通の先生と思いませんでした。尊い先生だと思ったんです。そして、イエス様のところへやってきました。イエス様は、尊いお方は神様だけなんだ――あなたは、その言葉でわたしを、尊いお方と認めているんだよと、語りになっています。

イエス様を、彼は、主と告白していたんです。ですから、イエス様は、いつくしんで彼を見つめられました。この人は、救われたに違いありません。イエス様が戒めを守りなさいとおっしゃったのに答えて、彼は、小さい時から皆、守っておりますと言いました。かたちだけ、律法を守る人が多い中で、この人が、心から律法を守る人であったことは、イエス様の眼差しが明らかにしています。この人が偽善者だったら、イエス様が、いつくしみの眼差しをもってご覧になることは、決して、なかったと思います。

でも、イエス様は、『あなたには、欠けたことが一つあります』と、おっしゃいました。――多くの人というわけではありませんけど――この言葉をもって、この人は救われなかったと、考える人がいるのではないかと思います。でも、そもそも、欠けたことがひとつもない人は、この世には、はたして、いるでしょうか?持っているものを皆、売り払って貧しい人に施さなければ救われないとしたら、いったい誰が救われるでしょうか。欠けたことが一つでもあれば救われないとしたら、誰一人、救われないのではないでしょうか。

ですから、『あなたには、欠けたことが一つある』というみ言葉は、マタイの福音書の19章の21節には、『もしあなたが完全になりたいなら』という、その意味であったことは言うまでもありません。

もし、完全になりたいなら・・・・ということなんです。言い換えるなら、『実を結びたいなら』ということなのではないかと思います。イエス様は、『あなたが実を結びたいなら、わたしに止まりなさい。もう、この世のものから、手と心を離して、わたしについてきなさい』とおっしゃったのだと、私は思います。でも、この人は、それができませんでした。彼は、悲しんで立ち去っています。

マルコの10章の23節から、続きをちょっと見たいと思います。

マルコ
10:23 イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」
10:24 弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

裕福な者が、神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が優しいとおっしゃいました。この話は、私は、その前のお金持ちの人のはなしとは、直接には、繋がっていないと思います。一般的に、お金のある人、金持ちは、イエス様を求めないんです。イエス様を必要としないんです。ですから、山上の垂訓で、『心の貧しい人は幸いです。天のみ国にはその人のものだからです』とおっしゃいました。

イエス様がおっしゃったことが、もし、このお金持ちの人が救われないということだったとしたら、私たちは、どうだったでしょうか。私たちは、それほど、心の貧しい者なのでしょうか。そうではなくて、『神にはどんなことでもできる』と、約束してくださった、このイエス様のあわれみによって、私たちも救われたに過ぎなかったのではないでしょうか。

イエス様が、彼らをじっと見て言われたという、その一言が、とても、心に刺さります。弟子たちも、皆、あいつはダメだと思ったのではなかったでしょうか。でも、あなたがただって同じだよと、神にできるから、あなた方も救われたのだよと、お語りになっているような気がします。少なくとも、私には、イエス様は、じっと見て、『お前の力ではないよ、お前がそれに値するのではないよ、あわれみでしかないよ・・・・』と、おっしゃってるように思われるのであります。

見てまいりましたように、永遠のいのちは、イエス様の人格、そのものと出会うことです。永遠のいのちを持つとは、永遠のいのちという、何か、そういうものがあって、それを持つことではないと分かります。イエス様が、永遠のいのちです。イエス様のおられるところに、いのちがあり、イエス様のおられないところには、いのちはありません。

子を知ることがいのちだとおっしゃいました。イエス様のところへ行って、イエス様を知って、いのちにつながるのです。私たちはいつも、イエス様のところに行くだけではなくて、イエス様のところに、つながり続けたいと思います。

最後に、みことばを五つ読んで、終わります。

ヨハネ
1:39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」

永遠のいのちにつながる最初のことは、行くことです。『来なさい』とおっしゃています。まず、これが第一歩です。

そして、二番目のみ言葉は、ヨハネ5章24節です。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

みことばを聞いて、信じることです。これが、二番目です。永遠のいのちへの歩みの第二歩は、み言葉を聞いて、信じることです。まず、行くことです。そして、み言葉を聞くことです。

三番目は、ヨハネ6章40節、これは、今のみ言葉と、内容的には同じです。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

ここでは、『見て』とあります。イザヤ書には、『わたしを仰ぎ見て救われよ』と、記されています。分からなくてもいい。見上げなさいと記されています。逆に言うと、小さくなりなさいっていうことではないでしょうか。イエス様のところへ行って、小さくなりなさい。

ヨハネ
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。

何度も見てまいりましたけど、信じること、もちろん、見上げるだけでも救われるとおっしゃっています。聞いて信じると救われると、おっしゃっています。そして、ここでは、『信じる者は・・・・』と、お語りになっています。

そして、五番目です。

ヨハネ
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

今、五つのみ言葉をご一緒に見てまいりました。最後のこのみ言葉は、五番目のみ言葉です。そして、四番目のみ言葉、信じるということと、このとどまるということのあいだには、一本の線があるのではないかと思います。実を結ぶか、結ばないかの違いが、そこにあります。

そして、実際に、多くの信者は、四番で止まっているのではないでしょうか。イエス様を見て、信じる。日曜日には、礼拝に出る。でも、あとの六日間は、イエス様とは離れた生活をしている。信じるだけではなくて、とどまること。イエス様と共に、歩み続けたいと思うのであります。

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