2021年7月4日日曜日

神を誇る人間と自分を誇る人間

神を誇る人間と自分を誇る人間
2021年7月4日、町田福音集会
重田 定義

詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

こんにちわ。あらためて、このようにして、本当に久しぶりに、皆さんと一緒に礼拝を守ることができたこと、心から感謝しております。一年六カ月ぶりくらいだと思うんです。普段は、家内と一緒に、家庭で礼拝を捧げ、聖餐にあずかっておりました。また、毎日、朝晩、賛美と祈りを二人でしておりました。

コロナが、こんなに長引くとは考えもしなかったんですけども、この新しいコロナ・ウイルスというのは、未だかつて全人類があったことがないウィルスだと思うんです。それは、変異がきわめて速い。新しい変異の株が出現したと思ったら、もうすぐにまた、その次の変異株が来る・・・・こういう経験はおそらく、全人類がしたことがないのではないかと思います。そういうコロナの禍(か)――わざわいといいますが――によって、私たちは、全人類がですね、大変な目に遭っておりますけれども、本当にそのコロナによって、私たちの生活が、大きく変わったことは事実なんです。

それで、ここで、私が申し上げたいのは、私の祈りも変わったんです。どこが変わったかというと、以前にも増して、以前よりも増して、集会のために、そしてまた、兄弟姉妹のために祈る祈りが強くなったということですね。これは、今では本当にこう、いつでも集会に行ける。いつでも兄弟姉妹にお会いできると思っていたのが、それができなくなったために、もうこれは祈りしかない。その祈りは必ず、主が聞いてくださるということで、家内と二人で、一生懸命、その集会のために、兄弟のために祈ることが強められた。このことは、ひとつの大きな特徴的な変化だと、私は思っております。

さて、今日は、今、ヒロシ兄弟に読んでもらいました。詩篇の20篇の7節から、このみ言葉について、ご一緒に考えたいと思っております。

今の御言葉は、天と地ほどの異なる誇りを持つ人間がいると。そのひとつは、いくさ車や馬を誇る人間である。もうひとつは、主なる神を誇る人間であるということを言っております。ここに、いくさ車や馬を誇るという言葉がありますけれども、これはいったい、どういう意味でありましょうか?また、それを誇る人間というのは、どんな人間なのでありましょう?

いくさ車とは、当時、いくさのために使われていた二頭の馬に引かれた二輪馬車のことを言います。たいへん、快速な馬車だったんですね。その車に乗って、戦士たちが槍を持って、突き進んでいた、一人乗り、あるいは、二人の車でありますが、そのいくさ車を誇るというのは、戦いに強い強力ないくさ車を持っていると、自分を誇ろうということなんですね。そして、また、馬を誇るというのは、戦いに強い、足の速い、強靭な馬を持っていると、自分を誇ることであります。

このように昔から、強力ないくさ車を持つことや優れた馬を持つことは、自分の力を誇示するものであり、多くのいくさ車や優れた馬を持っている人間や国ほど、強力な支配者としての地位を保つことができたのであります。

これは、現代でも同じなんですね。国がその強さを誇るときに、いったい何をもって誇るでしょうか?いくさ車や馬は、核ミサイルや原子力潜水艦などの軍事力、あるいは、豊かな資源、強力な経済力、優れた科学技術力などと置き換えても良いと思います。そして、これらのものを多く持つことを誇る国ほど、強国として認められているのではないでしょうか?

ひとりひとりの人間についても、同じことが言えます。昔のいくさ車や馬は、現代では例えば、高級車、高級外車といいますか、あるいは、高い地位や身分、立派な経歴、豊かな財産などに置き換えられるでありましょう。そして、現代の人間は、これらを持っていることによって、自分を誇っているのではないでしょうか?

しかし、人間が誇りとするこれらのものは、いったい私たちにどんな保証を与えてくれるのでありましょう。

イザヤ
31:1 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。

31:3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。

これは、イスラエルが強国、アッシリアに攻められて、エジプトに助けを求めた時のことであります。

イスラエルが、エジプトに助けを求めた理由は、エジプトが多数の戦車と強力な騎兵隊とを持っている強国であったからであります。けれども、本当にイスラエルを助けることができるのは、イスラエルをご自分の民として選ばれた主なる神様なのであり、神様は、これまで何度となく、イスラエルの危機を救ってくださいました。けれども、イスラエルはそのことをすっかり忘れて、多数の戦車や強力な騎兵隊を持つエジプトに頼ってしまったのであります。そして、神様は、エジプトに頼っても無駄だ。わたしが手を伸ばせば、助けるエジプトも、また、助けられようとしているあなたがたイスラエルも、共に滅びに当ててしまうからだと、おっしゃっているのであります。

それに関連して、もう一か所、詩篇の49篇からお読みいたします。

詩篇
49:16 恐れるな。人が富を得ても、その人の家の栄誉が増し加わっても。
49:17 人は、死ぬとき、何一つ持って行くことができず、その栄誉も彼に従って下っては行かないのだ。
49:18 彼が生きている間、自分を祝福できても、また、あなたが幸いな暮らしをしているために、人々があなたをほめたたえても。
49:19 あなたは、自分の先祖の世代に行き、彼らは決して光を見ないであろう。
49:20 人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい。

このように言っています。ここに書かれている悟りというのは、どういうことかと言いますと、これは、神様がどういうお方かということを、正しく知っているということなんですね。自分の考えで、ただ、こう分かったというふうな軽い意味ではなくて、神様ってどういう方かということを、自分は正しく知っていることが、ここに出ている悟りということであります。

そして、この御言葉にありますように、私たち人間が誇りとしている富、あるいは、栄誉をいくら持っていても、それは、生きているほんの僅かなあいだ、長くても八十年、九十年という永遠の時から見れば、ほんの僅かなあいだの自己満足を満たすにすぎないものではないか。したがって、人間がこの世でどんなに栄華を誇っても、神様を知る真の知識がなければ、結局は、滅びうせる獣のように、はかないものに過ぎない。そういうことをここで、言っているのであります。

では、今度は、神を誇る人間とは、いったいどういう人間でありましょうか?そして、また、神を誇る人間となるためには、いったい、どうしたらよいのでありましょう?

エレミヤ
9:23 主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。
9:24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」

主なる神様は、誇る者は、自分の知恵や自分の強さを誇るのではなくて、ただ、悟りを得て、ご自分を知っていることを誇りなさい。そのようにおっしゃっているんですね。ここで大切なことは、神様を誇るには、ただ神さまを、知識として知っているということ、知るということではなくて、悟りを得て知るということなんですね。

では、悟りを得て知るということは、いったいどういうことなのでしょう?その例を、ピリピの三章のパウロの証しから、見てみたいと思います。

ピリピ
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

パウロは混じりけのない生粋のユダヤ人でありました。そして、中でも、ベニヤミン族というイスラエルの民族の中でも誇り高い部族であり、律法、すなわち、神様からイスラエルの民に与えられた命令、おきてを忠実に守ろうとするパリサイ派というグループに属しておりました。

それゆえ、イエス様を救い主と信じる人たちを、彼は、律法に反する敵として迫害することが正しいと信じて、それを、実行しておりました。しかし、これらの誇るべきのパウロの血統や経歴も、彼が復活のイエス様に出会って、霊の目が開かれ、自我がこなごなに砕かれ、パウロの言葉をそのまま引用すれば、『私の主であるキリストイエスを知ったことのすばらしさのゆえに、私にとって得であったこれらのものを全て損と思うようになりました』と告白するまでに、彼が変えられたのであります。

そして、パウロは、それまで律法の敵と思い込んでいたイエス様を、私の主、私のキリスト・イエスと、お呼びするように一変いたしました。これが、悟りを得て、主を知るということであります。

悟りを得て、イエス様を主と信じたパウロは、エペソ人への手紙で、エペソの教会の信者に対して、こう言っております。

エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ない(・・・・行いというのは、よき行いですね・・・・)によるのではありません。だれも誇ることのないためです。

このように言っているんですね。すなわち、救いというのは、ただ神様の恵みによる賜物なのであって、それは、誰も自分の行いが良かったから救われたと、自分を誇ることのないためだ。そのように、信者を戒めております。

そして、さらに、ガラテアの教会の信者に送った手紙では、こう言っております。

ガラテア
6:14 私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に(・・・・すなわち、私たち人間の神様に対するそむきの罪を、身代わりになって、十字架にかかってくださった主イエス様以外に・・・・)誇りとするものが決してあってはなりません。

このように、はっきりと断言しております。

このように、主イエス様以外に誇れるものが、決してあってはならない。私たちには、決してあってはならないと断言したパウロは、今度は、コリントの教会の信者に宛てた手紙では、自分には誇るべきものがあるんだと、今度は、不思議なことを、ここで書いております。では、その誇りと、いったい、どんな誇りなのでありましょうか?

第二コリント
12:7 ・・・・私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

このように、彼は言っております。パウロは、病名ははっきりしませんけれども、周期的に起こる肉体的苦痛を伴う病を持っていたようであります。そして、イエス様に、その苦痛を取り去っていただくように、三度も願いました。しかし、イエス様のお答えは違いました。イエス様は、パウロの願いを聞いても、パウロのとげは取り去られませんでした。そして、その理由は、ご自分の力は、パウルの強さのうちにではなくて、パウロの弱さのうちに完全に働くからだと、おっしゃったんです。

パウロは、納得して、それならば、自分は大いに喜んで自分の弱さを誇ろうと、決心しました。彼は、自分の弱さを誇ることによって、イエス様を誇ることができたと言っても良いと思います。

私たちも、霊が閉ざされていたときは、自分を誇る高慢なものでありました。そんなことはない。自分には、誇るようなものはないし、自分を誇ることなどしたことはない・・・・とおっしゃる人もいるでしょう。しかし、どうでしょう?世の中には悪事を働く人、問題や障害を抱えている人、社会的弱者と言われている人がいます。そして、そのような人を自分と比較して、自分はあの人よりも、少しはマシだと思うならば、それは、自分を誇っているんです。

イエス様は、そのような私たちをも見捨てずに、愛してくださり、それぞれ、もっともふさわしい時に、もっともふさわしい方法で、霊の目を開いてくださり、イエス様を主と信じるようにしてくださったのであります。

そして、霊の目を開かれた私たちは、御霊の導きによって、自分には誇るべきものは何ひとつなく、塵にも等しい無価値な自分、神様に背いて、自分勝手に生きていたような罪ある自分をも、再びみもとに引き戻して、みそばに置くために、その隔ての壁となっている罪を、十字架にかかって、取り除いてくださったそのイエス様だけを、唯一の誇りとするように、変えられたのではないでしょうか。

そのように変えてくださったイエス様に、私たちは、心から感謝し、イエス様の力が、さらに大きく自分を覆うために、自分の弱さを誇ることができるように、祈ろうではありませんか。最後に、詩篇の五篇をお読みして終わります。

詩篇
5:11 こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。
5:12 主よ。まことに、あなたは正しい者(・・・・正しい者というのは主を信じ従う者・・・・)を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます。

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