2021年8月1日日曜日

原罪

原罪
2021年8月1日、秋田福音集会
岡本 雅文

ヨブ
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

先程、原罪というタイトルにさせていただきましたけれども、副題としては、『裸で生きよ』というテーマにしたほうがいいかもしれません。

ヨブ記は、1章の1節で、『この人(ヨブ)は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた』と始まっています。この1節を読むと、神は何か特別なことを告げようとしておられるのではないかと思わされます。なぜなら、ルカの5章の32説では、イエス様は、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです』と、告げておられるからです。正しい人、義人、ヨブ――この箇所は、ルカの5章の32節から見ると、どのような展開になるのか・・・・初めから、興味がわいてまいります。

しかし、聖書全体から、とくにこのルカの5章の32節から考えると、ヨブもまた、正しくあっても、罪人のかしらであると思わせるのであります。ご存知の通り、ヨブは、十人の子供たち全員と、彼の持ち物、財産を一瞬にして失いました。その上、自らも足の裏から頭のいただきまで、悪性の腫物に襲われたとあります。この苦難の中で、ヨブだと見分けられないほどだった彼、ヨブを慰めようとして、善意の思いを持った友人たちがやってまいりました。

はじめのうちこそ、彼らはヨブを慰めようとしましたけれども、いつまでも、自分の非を認めないヨブに苛立ちを覚えるようになりました。そして、次第に、彼ら(友だち)の心情である、『不幸の原因は、必ず自ら犯した罪にある』と、言葉に出して、ヨブを責め始めたのであります。この友人たちの姿は、イエス様が厳しく叱責されたパリサイ人、そのものです。

また、別の見方を致しますと、最初の1章、2章の天で開かれた神の会議に連なり、ヨブに苦難を与えて試すようにと、神に訴えて、その後は一切、姿を消したサタンの使いのようにも、この友人たちは、私の目には、見えるのであります。そして、さらに別の見方をすれば、友人たちの立派な言葉や厳しい言葉は、すでにヨブ自身が悩み、神にその矛盾を問い質したいと考えていた、ヨブ自身の心の内側の葛藤を表しているとも考えることができます。ヨブも、友人たちと同じ、古い律法の中に生きていたからであります。

そして、ヨブは、彼ら以上に、それらの訓戒を知り尽くしていたのでありましょう。彼(ヨブ)が信じてきた人生訓や律法からは、自分の内に非を見出すことはできませんでした。これは真実だったからであります。彼には思い当たるところがなかったんですね。ヨブの心は、千々に乱れ、あるときは神を疑い、また別の時は、神を求め、彼の強さと彼の弱さのあいだをさまよい続けた・・・・その状況がよく分かります。こうしてヨブは、長いあいだ、深い深い暗闇に投げこまれました。

マルコの10章の17節で、ある律法に長じた人がイエスさまに永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうかと尋ねました。イエスさまがその人にモーセの十戒の一部を告げたところ、その人は、『私はそのようなことをみな、小さい時から守っております』と答えました。すると、イエス様はその人をいつくしんで次のように言われました。

マルコ
10:21 ・・・・「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

聖書は、いろいろな箇所で、本当に深い意味を持った言葉を、私たちに投げかけています。この箇所だけでも、聖書全編から、私たちに訴えかけていると思わされる、そのような箇所でありましょう。多くの兄弟たちを通して、何度も何度も学んだ箇所であります。そして、この場面は、ヨブ記そのものであるとも言えるのではないでしょうか?主なる神は多くの財産を持っていたヨブに、サタンと友人たちとを使って、この人――この悲しみながら去っていった人――と同じように取り扱われました。ヨブは、『私はそのようなことをみな、小さい時から守っております』と、その人と同じように答え続けたのであります。

神は、友人たちを使って、ヨブに、あなたには欠けたことがひとつあると、厳しく追及されました。主なる神は、ヨブのあまりある財産を、みな取り去られました。ヨブには、できなかったからでありましょう。

彼にできなかったことを、神が代わりにしてくださいました。幸いにも、ヨブは、悲しみながら去っていくことはせずに、叫びながら、また、祈りながら、貧しさと悲惨さの中にとどまり続けたのであります。神に理由を問い質そうと、ただそれだけを願いました。どうしても、彼は、自分の内に非を見出すことができなかったのであります。ヨブは、この苦難が、永遠のいのち、まことのいのちの問題であることを知りませんでした。

しかし、新約聖書は、ヨブ記そのものは、永遠のいのちの問題であると、この悲しみながら去っていった人の質問を通して、問いを通して、告げています。信仰者、ヨブの言葉に表せないほどの本当の嘆きの場面は、三章から始まります。ヨブ記、3章の1節から、少しとびとびにお読みいたします。

ヨブ
3:1 その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。
3:2 ヨブは声を出して言った。
3:3 私の生まれた日は滅びうせよ。

3:11 なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。

ここから、なぜ?、なぜ?と、ヨブの嘆きが続きます。

3:12 なぜ、ひざが私を受けたのか。なぜ、私の吸う乳房があったのか。

3:20 なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。

22節、23節にも、なぜ、なぜ・・・・が繰り返されています?そして、最後の26節に、ヨブの心の状態が、次のように記されています。

3:26 私には安らぎもなく、休みもなく、いこいもなく、心はかき乱されている。

これが、彼の状態でありました。

主なる神は、このヨブに対して、もっとも相応しい状況を与えられた。これが、私たちがこのヨブ記を、また、聖書を読むとき、私たちの人生を歩むとき、どうしても忘れてはならない、ひとつのことではないでしょうか?

ヨブ記は、私たちに何を告げているのでありましょう。個人的な結論――私自身が与えられた結論――から申し上げると、ヨブ記は、原罪を明らかにしている書物ではないかと思います。原罪とは、私たちはよく耳にするように、私たちの祖先であるエバとアダムが、神が食べてはならないと言われた善悪の知識の木から実を採って食べたことによって罪が入った。それから、すべての人に、生まれつき備わっている罪が入ったとでもいう定義を確認したいのではありません。

ヨブ記を通して、原罪とは、神のかたちに創造された被造物である人と、造り主なる神を区別するものとして、与えられている、告げられていると、思われるのであります。

この一点で、神はヨブに厳しく迫りました。陶器師と陶器、あるいは、陶器師と粘土の関係を厳格にさし示したと思えるのです。この関係が明らかになって初めて、神の愛がどのような愛であるかが語られ得ると、ヨブ記は告げていると、私は何度も何度も、この箇所に遭遇するたびに、少しずつ少しずつ、思わされてまいりました。

もう一度、ヨブ記の冒頭、1章の1節をお読みします。

ヨブ
1:1 ・・・・この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。

不思議な言葉でははないでしょうか?神ご自身が、ヨブを、『彼のような信仰者はひとりも地上にはいない』と、8節で評価されているにもかかわらず、その後の神のヨブに対する取扱いの激しさは、常識では受け入れることが困難です。ですから、ヨブの混乱は、人間として、私自身は、よく理解することができます。

それなのに、なぜ神は、ヨブの嘆きを無視され、沈黙され、あれほど厳しく責められたのか、これこそ、ヨブの悩みの深さであり、原因でもありました。私たちも――私も――、ヨブと同じように、なぜ?と、神に問いたくなります。

ヨブ記は、私自身にとっても、謎の書物でありました。言い換えれば、ヨブに起こった苦難は、そして、また、私たちに起こる苦難の多くは、神から発したことであり、責任は私たちにではなく、むしろ、神ご自身にあるのではないか。さらに言えば、私たちにとって不可抗力に属する出来事であり、私たちはむしろ、被害者ではないかという神の私たちに対する取扱いに対して、理解できないゆえのそういう苦悩であります。

その上、これらの苦難の原因となるサタンが加担したことに対しても、神が許されたことであり、神に対する疑いの目が、疑いの心が。芽生えてくるのは当然ではないか。みな、神の責任ではないかと、ヨブの心は揺れ動いたのではないかと思います。このような思いに誘われること自身が、すでに、サタンの誘惑、そのものでしょう。

ヨブ記と、同じような記載が、創世記の2章の16節、17節にあります。

創世記
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

最初の人、アダムに、食べてはならないと言われた善悪の知識の木は、私自身にとっても、不思議な木であります。この木を植えたのも、主なる神であり、蛇がエデンの園に存在していたのも、ヨブ記と同じく、神の責任ではないか。その上、蛇がエバを誘惑するのを放置したのも神であり、アダムとエバは被害者ではないか。これが、ヨブ記と同様、この世の見方であり、常識ではないでしょうか。

しかし、神がおかしなことをされるはずがありません。神がしてはならないと言われたことは、たいへんな重大な結果をもたらすことに、違いありません。この確信を頼りに、これから少し、考えてみたいと思います。ただ、これだけが頼りです。神は、おかしなこと、間違ったことをされるはずがない。これが生きる原動力ではないでしょうか?

私には、この善悪の知識の木が、モーセの律法が与えられるまでの、その時代の律法に相当するのではないかとも思わされます。あるいは、律法の本質を表すものと言う方がいいかもしれません。すなわち、善悪の知識の木とは、罪を明らかにするものでありましょう。それは、神と被造物との境界を定められたものとして、エデンの園に置かれたのではないかと思わされるのであります。

ローマ書、5章の13節をお読みいたします。ローマ書は、新約のヨブ記と言ってもいいでしょう。

ローマ
5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。

同じローマ書の7章の7節も、お読みいたします。

ローマ
7:7 それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。

被造物(人)が造られたとき、すでに、神と人(被造物)は、次元の異なるものでありました。神は、何ひとつ制限されることがない、永遠から永遠へと存在される全能なる方であり、人は、私たちは、また、被造物は、定められた限界を持つ存在として、初めから創造されたものではないでしょうか。神ではありませんでした。神は、限られた目的を持つ必要さえない、全ての全てなる陶器師であり、人は制限された目的をもって造られた被造物なる陶器のようなものであると、イザヤ書、エレミヤ書、ローマ書などに告げられています。

創世記の先ほどお読みした2章の16節、17節は、そのことを示しています。エデンの園とは、何をしてもいいという現代の多くの人々が望む桃源郷ではありませんでした。限界があり、そして、神と被造物のあいだに、一本の木が植えられました。善悪の知識の木であります。

そして、ヨブ記とローマ書とともに、この創世記の第2章を見る時、善悪の知識の木からは取って食べてはならないと、神がもし言わなかったとしたら、その命令を犯したとしても、人はむさぼりの罪であると、知らなかったことでありましょう。

善悪とは、全知全能を示していると考えられます。善悪の知識の木とは、全知全能なる造り主と、被造物である人間のあいだにある限界、すなわち、隔ての壁を表しているのではないかと思うのであります。その実を取って食べるとは、神の領域を侵すことであり、造り主と被造物の計り知れない違いを封じ込めていた、神の愛を取り去るものではないかと思うのであります。

聖なる神を侵すものであると、聖書を拝読して、思わされるであります。さらに言えば、被造物が全能の神と共に生きるために、罪を封じ込めてくださった罪の赦し、神のあがないの証しとして、善悪の知識の木が植えられていたのではないでしょうか?

そして、創造の初めから、すべての時代の、また、すべての人間のこの限界を無くしてくださるために、世が始まった時から、十字架、すなわち、神聖な祭壇を、この木が表しているのではないかと思わされるのであります。

エデンの園に、ニ本の木が植えられていた。いのちの木と、そして、善悪の知識の木でありました。これは、全能の神の秘密、そのものでありましょう。二千年前に、十字架でイエス様が息を引き取られた時――マタイの27章の50節と51節を拝読します――、『イエスは、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた』と、告げられています。

こうして古い善悪の知識の木は、キリストの十字架という木に取り替えられました。イエス・キリストを信じる者の原罪は、十字架のうちに永久に封印されたのではないかと思わされます。十字架を仰ぎ見れば救われる。そういう恵みの時がきたのであります。

もうしばらく、最後になりますけど、ヨブ記、すなわち、聖書が、ヨブ記42章を通して告げる真実ということについて、短く考えてみたいと思います。あれほど厳しい言葉を、ヨブの38章の1節から、41章の34節までにわたって、投げかけられた主なる神は、友人たちには、ヨブ記の最後の42章の7節で、『真実を語らなかった。わたしのしもべヨブのようではなかった』と、評価がくだりました。

彼らは、真実を語らなかったのであります。主の目から見て、そう判断されました。しかし、ヨブは真実を語ったと、この箇所からわかります。『わたしのしもべ、ヨブのようではなかった。』ヨブは真実を語ったが、あなた方は語らなかったと、読めるからであります。

それでは、主なる神、イエス様が、ヨブを真実な者とよろこんでくださったのは、彼のどの点なのでありましょう。そして、友人たちのどの点が真実ではなかったのでしょうか?ヨブ記は、この問いについて、直接には答えていません。

ですから、私たちは42章に及ぶヨブの全告白と聖書全体から、その答えをいただかなければなりません。個人的に与えられた聖書の答えは、ヨブは、ありのままの自分の心を、神の前にも、人の前にも、友人たちの前にも、さらけ出して、自分の苦悩の原因を、神に問い続けたことにあるということでした。原罪という概念すら知らなかった、潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていたヨブは、サタンが蒔いていった毒麦によって、想像することすらできない苦難に陥りました。その中で、彼は初めて、信頼し続けていた神への疑いが、彼の内側から芽生えてくるのを経験いたしました。あの毒麦のたとえ、そのものでありました。

造られたもの、被造物として、彼自身の責任ではない責任を負わされたと考えざるを得ない、神に対する怒りとも、叫びとも区別できない感情を露わにせざるをえませんでした。その中で、ヨブは初めて、神を心から怖れるように導かれたのであります。

突然、嵐の中から、沈黙が破られ、そして、神がどんなにヨブと異なったものであるか、その次から次へと放たれる神の言葉は、ひと言もヨブが口を差し挟む余地のないものでありました。ヨブは、幼子のように、この目であなたを見ましたと42章の5節で告白いたしました。

ヨブは、御心どおり造られたもの、被造物として、陶器が陶器師にかしずくように、ただ造り主なる神と造られたものとのあいだに超えることができない一線があることを、こうして、了解したのであります。42章のあの長い長いヨブの心の旅路は、主なる神との混じりけのない、彼の心のすべてを打ち明けた戦い、そのものでありました。

神は、ヨブ記の38章の11節でこう言われました、「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」ヨブには、想像を絶する苦難と、このみ言葉を与えてくださいました。

人間が創造された時、初めには、善悪を知る木を植えられ、ついに終わりの時代に、キリストの十字架を打ち立てて、全ての人に完全な解放の道を備えてくださったように、ヨブにも、はじめと終わりがあったのであります。ヨブも、私たちも、本当の原因は相変わらず、理解することはできません。しかし、受け入れるしかないほど、圧倒的な神の存在――旧約の出エジプト記の3章14節では、「『わたしはある。』という者である」という、そういう神を、ヨブも、また、私たちも見たのではないでしょうか。

原罪を知る者、すなわち、神と被造物との限界を知る者として、神の愛の深さ、神の偉大さ、その主を見上げるよろこびとして、原罪を主ご自身からいただいたものとして、あれほどの違いのある偉大なる主が、この私に目を留めてくださったその証しとして、原罪をよろこんで受け入れることができるなら、幸いであります。

造り主に服従するものとして、主なる神の前に、ただ自分を蔑む時、主にある解放を体験する恵みが与えられると、ヨブは知りました。『ちりと灰の中で悔い改めます』と、最後の42章の6節で、ヨブは主なる神に直接、答えるようになりました。

生まれた時から罪人である、エデンの園を追放されたアダムとエバが背負ってさまよったその原罪、その重荷は、ヨブ記によって再び、解放される道を、神が示してくださったと、私には思われるのであります。理由もないのに何故?と、苦悩の中から叫んだヨブに、何の理由もないのに、被造物をここまで取り扱ってくださる方がおられる。自分のためにあがなってくださる方がおられるということを、ヨブは、あの旧約の時代に導かれたのではないでしょうか?

主に感謝せざるを得ません。

ヨブ記の19章25節から少し、お読みいたします。ヨブ記でもっとも有名な箇所のひとつではないでしょうか?聖書の中では・・・・と、言い換えてもいいでしょう。

ヨブ
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。

あの混乱に陥ったヨブが、突然、このような啓示を与えられました。ヨブの悔い改めは、マタイの18章の1節から4節で、イエス様が語ってくださったみ言葉を合わせて読むと、わかるような気がいたします。

マタイ
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」
18:2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真中に立たせて、
18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。
18:4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」

このみことばの中に、真実があります。子供、とくに幼子は、ある意味でわがままの塊でありましょう。しかし、憎めません。それは、彼らは何ひとつ、自分ではできないことを、暗黙のうちに知っているので、ありのままの自分を表現しているのではないでしょうか?それ故に、かわいいのであります。

イエス様が私たちを見る目も、神がヨブを真実を語る者と評価してくださった理由も、そこにあるのではないでしょうか。イエス様は、私たちが裸のままで、み前に出てきて欲しいのだと、ヨブ記から、また、聖書全編から与えられます。

最後に、ヨブが長い戦いの初めに語った、うわさを耳で聞いていた神に対する格言――先ほど最初に、冒頭で読んでいただいたその一部、ヨブ記の1章の21節と、その後の長く激しい神との格闘の後に、悔い改めた心で答えたヨブ記の42章の5節、6節をお読みして終わりにしたいと思います。

ヨブ
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

真実な者とは、ありのままの姿、ありのままの自分の姿で、すなわち、裸の自分を知って、その裸のままで、主の前に立つということでなくて、なんでありましょうか?

どうもありがとうございます。

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