2021年6月7日月曜日

自分の十字架を負う

自分の十字架を負う
2021年6月6日、静岡集会
黒田 禮吉

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

自分の十字架を負うとは、どういう意味でしょうか?世間で言われているように、自分の暗い過去や、罪などを背負うことなのでしょうか?イエス様は、そんなことを言っておられるのではありません。もしそうなら、『自分を捨て、十字架を負え』とは救いではなく、絶望へと突き進む命令ではないでしょうか?そこには喜び、希望はありません。

自分の十字架とはなんでしょうか?十字架とは、一般的には、運命や重荷のことと理解されているかもしれません。しかし、聖書で言っている十字架は、自分の運命のことではありません。

十字架とは、確かに刑罰です。それでは、自分の罪の償いとして、刑罰を受けることでしょうか?けれども、私たちはもうすでに赦されています。罪のための償い、罪の裁きと刑罰は、イエス・キリストご自身の十字架によって、全て終わったはずです。私たちはそれを信じて、救われたのではないでしょうか?ですから、自分の十字架とは、自分の罪のための十字架ではありません。それは、既に、すべてイエス様が背負ってくださったのであります。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

それでは、なぜイエス様は、私たちそれぞれが、十字架を負う必要があると言われるのでしょうか?何のために、十字架を与えられるのでしょうか?十字架とは、死刑です。自分に死ぬことです。古い自分がそこで死んでゆくべき場所であります。

生まれながらの私たちにとって、もっとも難しいことは、自分を捨てることです。信じる者であっても、自分中心に生き、自分のために生きようとします。自分を満たし、満足させようとします。そのような古い自分が、十字架において、死んでいく必要があります。自分の十字架とは、こうして自己中心な自分、古き自分が砕かれ、殺され、死んでいく。そのための場所ではないでしょうか?自己中心な自分が死んで、主なる神のみ心に生きようとする。新しい自分に生まれ変わっていくための場所であります。

ルカ
9:23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

ルカの福音書には、マタイと似た表現がありますが、『日々、自分の十字架を負い・・・・』と書かれています。私たちは日々、新たにされる必要があります。だから、主なる神は、私たちの日常の生活の中に、例えば、家族の悩みや問題を置かれるのであります。生活の不満を置かれるのです。職場での人間関係を置かれるのではないでしょうか。

このような問題や悩みを通して、相変わらず、自分勝手な惨めな自分を発見する。そして、私たちの古い自分が死んで、日々、主イエス様に、より頼むものに作り替えられていくのではないでしょうか?この自分の十字架を負って、主について行く者だけが、主に従うものであります。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

自分の十字架とは、自分の病気とか、苦しみと言うことを意味していません。自分の十字架とは、主イエス様のために、私たちが担う重荷のことなのです。

イエス様は、ご自分のために、十字架の苦しみを受けられたのではありません。私たちのために、十字架の苦しみをお受けになられたのです。主イエス様を救い主として告白する者は、自分を捨て、主イエス様に従う。そして、もはや、自分の利益のために、それだけのために生きるということが、できないものとされてしまうということなのでありましょう。それは、自ら、よろこんでイエス様に身を捧げるという生き方をするということになるのではないかと思います。

最初に読んでいただいた、マタイ16章、24節から25節をもう一度、読んでみたいと思います。

マタイ
16:24 ・・・・だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。

自分の命を救おうと思う者は、それを失うが、私のため、つまり、福音のために、いのちを失う者は、それを見いだすのです。イエス様は、そのように言われたのであります。

イエス様に従っていくということはどういうことなのでしょう?イエス様について行くこととは、自分を否定すること、自分自身を捨てることを意味しているのです。自分の考え、自分の感情、自分の意志を支配させないことです。イエス様のためにいのちを失うとは、自分自身の意思を心の座から下ろし、イエス様を第一の座につけることであります。

マタイ
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

同じようなみ言葉が、ルカにも書かれています。

ルカ
14:26 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

自分を捨てることに関連して、イエス様よりも、父や母や家族を愛する者は、ふさわしいものではないと書かれています。さらに、驚くべきことに、ルカの14章では、自分を否定し、捨てることだけではない。さらに、自分自身を憎むことが必要とされています。

こんなことが可能なんでしょうか?マタイの福音書の4章18節、イエス様の弟子たちがどのようにして、導かれたかということが書かれています。

マタイ
4:18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
4:20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

ペテロも、アンデレも、ヤコブとヨハネの兄弟も、ガリラヤ湖の一介の漁師でありました。彼らは、人間をとる漁師の意味を知っていたわけではありません。意味をも、理由もわからず、網を捨てて、船も父も残して、つまり、職業を捨て、家族をも捨てて、イエス様の呼びかけに応じたのであります。

実は、私たちがイエス様に選ばれたのも、同じではないでしょうか?私たちは、たまたま、偶然に救われたのではありません。また、私たちはただ、漠然と救われたのではありません。ペテロたちがそうであったように、主の御用のため、主のご目的があって、救われたのであります。

私たちは、相変わらずの不信仰な者であり、弱いものかもしれません。しかし、私たち、ひとりひとりの状況をすべてご存じのイエス様が、私たちに出会ってくださった。私たちの良い面も悪い面も、すべてご承知の上で、もっともふさわしい時を選んで、救ってくださったと考えることができます。

ルカの福音書の19章、有名なザアカイの箇所であります。一節から十節まで、少し長いんですが、お読みいたします。

ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

取税人のかしらであるザアカイも、不思議な経緯で救われました。ザアカイは、イエス様をひと目だけでも見ようと、いちじく桑の木に登った。それを、イエス様が見つけてくださったと、書かれています。

けれども、いや、本当は、イエス様がザアカイの心に働いてくださり、イエス様がどんな方かを見ようとする思いを、抱かせてくださった。つまり、初めから、イエス様の方から、ザアカイに出会ってくださったのではないでしょうか?ザアカイは、悔い改めに導かれ、今まで、相当、悪辣(あくらつ)な方法で蓄財した財産のほとんど貧しい人たちに提供することを宣言しました。イエス様は、『今日、救いがこの家に来ました』とおっしゃいました。

私たちひとりひとりが、イエス様の弟子になる、あるいは、用いられる者になるということとは、どういうことでしょうか?それは、宣教師になることでも、牧師になることでも、あるいは、日曜ごとに、メッセージの奉仕をすることでもありません。もちろん、それらも、ひとつの要素かもしれませんが、もっとも大切なことは、イエス様のことを、私たちの家族や親戚や友人や知人など、身近な人に宣べ伝えることではないでしょうか。

マルコの福音書、16章にそのことが書かれています。

マルコ
16:15 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」

救われるために、私たちは何もしてこなかったし、何かをする必要はなかったのです。ただ、提供されている救いの恵みを受け取るだけで、良かったのであります。しかし、イエス様の弟子として用いられるためには条件があります。わたしについてきたいと思うものは、自分を捨て、自分を憎む必要があります。自分を憎むこととは、自分自身に対して、信用を置かないということです。イエス様なしには、一歩も前に進むことができないというふうに、導かれる必要があります。

最後に、イエス様に代わって、文字どおり、十字架を背負ったクレネ人、シモンについて、ふれてみたいと思います。

ルカ
23:26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。
23:27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」

ローマの慣習では、十字架刑に定められたものは、自分で十字架を背負って、処刑場まで運んで行かなければなりませんでした。けれども、イエス様は、一睡もすることなく、裁判のために引き回された挙句、鞭打たれ、極度の疲労と痛みのために、途中で、十字架を背負うことができなくなってしまいました。それで、クレネ人シモンが、イエス様の代わりに、十字架を担わされたのでした。

彼にとっては、はた迷惑であったはずです。しかし、不思議なことに、その強いられた十字架のおかげで、後に彼も、彼の家族も、主を信じる者となったのです。クレネ人、シモンは、十字架を背負うというとんでもない災難が、主の栄光にあずかることであったことを、後になって、知ったのであります?

イエス様は、エルサレムの娘たちに、不思議な言葉をかけられます。誰が見ても、いちばん哀れなのは、この時、イエス様ご自身です。しかし、主は、『わたしのことで泣いてはいけない。むしろ、自分自身と子供たちのために泣きなさい』と、言われました。いったい、どういうことか、シモンも不思議に思ったことでありましょう。

ルカ
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

ゴルゴタに着いたとき、シモンは、担いでいた重荷を下ろし、役目から解放されます。しかし、その後、十字架に架けられたイエス様の語る不思議な言葉を聞き、その最後を目撃したはずであります。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』

マルコ
15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

マルコの福音書では、シモンの名前だけでなく、アレキサンデル、ルポスいう息子たちの名前まで記されています。その原因は、おそらく、彼らが初代教会で知られていた信者であったということでしょう。つまり、シモンは、イエス様の十字架の死を間近に見て、後に信じる者となり、その経緯を家族に伝えたのでありましょう。そして、家族ともども、主イエス様と教会に仕えるものになったと考えられます。

イエス様が負いきれなかった十字架を、シモンが背負ったということ。これは、信仰者である私たち、ひとりひとりも、キリストのために、十字架を背負うことが求められているということではないでしょうか。自分の十字架とは、キリストのために背負う苦しみを指しているとも言えます。それは、主のために受ける苦しみ、主への愛のゆえに背負うべき重荷のことではないでしょうか?

コロサイ
1:24 ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

シモンのように、その十字架は、他人から無理やりに、背負わされた重荷かもしれません。けれども、すべては実は、神様のご計画の中にあり、後に、それが祝福となったのであります。シモンは十字架を背負わされた時は、突然、起こった不幸な出来事を嘆き、悲しんだはずです。彼にとって、あの重く苦しい十字架は、一生、忘れられない屈辱的な経験であったことでしょう。しかし、彼の考えは変わったはずです。この私が、イエス様のために十字架を担うことができたと喜び、誇りに思ったはずです。不幸だと思っていたことが、神様の恵みだと変えられるのであります。

ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

私たちも、主イエス・キリストのために、十字架を背負って歩きましょう。それは、シモンのように、おもしろくないことかもしれません。重い十字架かもしれません。しかし、信仰によって、目を開いて、前を見るなら、私たちの前を、傷だらけのイエス様が歩いてくださっているのです。そして、十字架を担うことは、私たちにとって、大きなよろこび、大きな誇りと、変わっていることを知るのであります。

最後に、パウロの証しを読んで、終わりにしたいと思います。

第ニコリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ガラテヤの2章20節、よくご存知のみ言葉であります。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

ガラテヤ
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

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