2021年3月14日日曜日

静かなぶどう酒の奇蹟

静かなぶどう酒の奇蹟
2021年3月14日、ZOOMよろこびの集い
翻訳虫

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

はじめに

今、読んでいただいたカナの婚礼は、ヨハネの福音書に出てくる第一番目の奇蹟であります。イエス様の一行が招かれた婚礼の席で、まだ宴が続いている中、ぶどう酒がなくなってしまった。そこで、イエス様がその御力によって、水をぶどう酒に変え、それによって、この宴も続けることができたというはなしであります。

これはイエス様の奇蹟の中では、とても地味な話であり、それを目撃した人たちに大きな衝撃を与えたというものでもありません。

私自身、聖書を読み始めたころ、イエス様がなされたたくさん奇蹟の中で、このカナの婚礼は、福音書の導入部分であり、イエス様を紹介するための前振りのような軽いお話であると感じていました。

しかし、繰り返して読む中で、実はそうではなく、このカナの婚礼の奇蹟の中にこそ、私たちの信仰生活にとって、とても大切な教えが込められていると考えるようになりました。本日はカナの婚礼の出来事を、順を追って細かく見ながら、この奇蹟が持つ意味を、四つの観点から考えてみたいと思います。

(1)第一の点

まず、第一の点といたしましてイエスさまがなされた奇蹟の中で、このカナの婚礼にだけ特徴的なことがあります。

イエス様は、死者をよみがえらせ、人々の飢えを満たし、また、荒れ狂う嵐を言葉一つで鎮めました。いずれの場合も、その助けを受けた人たちは、イエス様のなされた御業を目撃し、主の御力に目を開かれました。

これに対して、このカナの婚礼は、どうでしょうか?

2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかった。

とありますように、宴会の世話役だけでなく、ぶどう酒によって助けられた花婿、花嫁、また、このぶどう酒を味わった出席者たちは、そこにイエス様の力が働いたことにすら、気付いていないのであります。これが、主のなされた他の多くの奇蹟と比べて特徴的なことであります。

ヨハネの福音書の最後は、『イエス様が行なわれたことは、ほかにもたくさんある』と結ばれており、その全てを書きしるした書物は世界も入れることはできないとまで書かれています。その主が、地上で初めに成された奇蹟が、この静かなぶどう酒の奇蹟であったこと。これは、決して偶然ではなく、大きな意味があったのではないかと思います。

婚礼に参加した人たちは、そこにイエス様の為されたしるしがあることに気付かないまま、甘美なぶどう酒という恵みを味わいました。これと同じことは、私たちの日々の生活のなかでも、いつも起こっているのではないでしょうか。

私たちがそれに気づいても、気付かなくても、また、はっきり目に見えるかたちで、イエス様が御手を差し出していると思えなくても、私たちの周りでは日々、主の大いなる御業が行われている。そして、私たちもその恵みを受け取っている。これが、この奇蹟が第一に教えてくれていることであり、このカナの婚礼が、はじめのしるしであったことの意味なのではないかと思います。

(2)第二の点:イエスの母に対することば

さて、二つ目の点に移りたいと思います。もう一度、3節をお読みします。母マリアがぶどう酒のことをイエス様に告げる部分です。

2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

私はこの部分を読んだ時、イエス様が母アリアに対して、なぜこんなに邪険な態度を取るのか、とても不思議で、反抗的な子供がお母さんに口答えしているような、そんな印象を受けたことを覚えています。しかし、このイエス様の厳しいことばにも、とても大きな意味がありました。

まずマリヤは何故、イエス様に向かって『ぶどう酒がありません』と言ったのでしょうか?言うまでもなく、マリヤは、誰よりも早く、イエス様が神の子供であることを、知っていた人です。イエスを身ごもったときからすでに、御使いがマリヤに次のように告げています。

ルカ
1:35 聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

イエスさまが子供のころから、マリヤは息子がいずれ世を救うキリストとなることを常に心にとめ、疑うことなく信じていたことは明らかです。

イエス様のもとに来て、『ぶどう酒がありません』と言ったとき、マリヤは、今こそ、息子であるイエスが神の子として、奇蹟の力を示す機会が訪れたと考えたのではないでしょうか。これに対する答えは、冷淡とも取れるものでした。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

イエス様はこのことばによって、自分がいつ、どこで、神の子としての力を表すか、それを決めるのは主ご自身であって、たとえ母マリアであろうと、人間から主なる神に何かを提案したり、注文を付けることはできないという事実を明らかに示されたのではないかと思います。

そして、この同じ言葉が、今も、私たちの信仰生活にも向けられています。主を信じる私たちは、日々の生活の中の様々な悩み、苦しみを主のもとに打ち明けて、祈り、癒しを求めることがゆるされています。そして、聖霊によって、真摯に祈った祈りは必ず主に聞かれることが約束されています。

しかし、その祈りにいつ、どこで、どのようなかたちで応えるかということを決めるのは主ご自身であります。私たちは皆いつも、主に向かって、病の癒し、家族の救いなどを祈っています。しかし、そこで、その願いが早くかなえられることを、心のどこかで求めてしまえば、それ自体、傲慢な態度であると言えます。主は私たちが真摯に祈ったことはすべてご存知であり、また、いつ、どこでその祈りに応えることが最善であるか、すべてご存知です。

例えば、今、世界に暗い影を落としているウイルスの問題にしても、私たちはまず、主がすべてを支配しておられることを感謝し、苦しみの中でも、主だけが栄光をお受けになるよう、願うべきであります。しかし、そこで、自分の思う現実的で、直接的な答え、たとえば、ウィルスが早く消えることを求めたり、いつこの問題が収束するかを問うようなことがあれば、それは、言葉の上では主に祈りながら、主を完全に信頼していない、不信仰の表れであるといえます。

そうなれば、主の答えは同じものとなるのではないかと思います。すなわち、「あなたはわたしと何の関係もない。わたしの時はまだ来ていない。」

このとき、イエス様の答えを聞いた母マリヤはどう動いたでしょうか?

ヨハネ
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

母マリヤは、主に対して自分の欲求や願望を向けるのではなく、イエスのことばに従うことで、主のご栄光が現されることを理解したのであります。

(3)第三の点

さて、三番目の点に移ります。

2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

その場にいた手伝いの者たちは、イエス様に言われるままに、水がめに水を満たしました。

聖書には、ほんの少しだけ現れて消えてゆく、いわゆる脇役がたくさん出てきますが、中でも、ここで水をくんだ手伝いの者たちは、男なのか女なのか、何人いたのかもわからず、映画であれば、その他大勢のエキストラのような存在になるのではないでしょうか。

しかし、この手伝いの者たちの行動には、私たちの信仰生活の規範として学ぶべき、三つの点が示されていると思います。

まず第一にこの時点で、手伝いの者たちは、まだイエス様が特別な力を持った救い主であることは知りません。しかし、ここで、彼らは、ぶどう酒が必要なのになぜ水を入れるのかなどと問いただすことなく、言われるままに、水がめを縁までいっぱいに満たしました。

その結果は、水がぶどう酒に変わり、宴会の世話役も、祝宴の参加者たちも、大いに満足したとあります。

ここで、手伝いのものが示したのは、主の目的や理由をはじめに問うことなく、御言葉に従うという態度であり、この態度に対する答えとして、神の恵みが最上のぶどう酒というかたちで示されたのであります。

さて、二番目の大切な点です、この手伝いの者たちは自分が最上のぶどう酒を飲んだわけではありません。ぶどう酒を味わった、すなわち、この奇蹟から人間的、この世的な恩恵を受けたのは祝宴の参加者たちです。

水をくんだ手伝いの者たちは、自分自身が現実的な利益を受けなくても、自分の働きが用いられて主の栄光を現されること、これにまさる栄誉はないことを教えてくれています。これが、2つ目の点であります。

そして、もう一つ、大切な点として、彼らは、この日だけ、何か特別なことをしたわけではありません。おそらくこの手伝いの者たちは、毎日、水を汲んで台所まで運ぶという仕事をしていたのではないかと思います。

このいつもと同じ仕事を、いつもと同じように行った中で、主の栄光が現されました。

実は私は、カナダに移住して、もう20年以上もこのトロントに住んでいますが、カナダのような国で暮らしていると、時々、不思議な人に会うことがあります。たとえば、通勤のバスに、乗り込んで人が突然、『私たちは死後、裁きにあう!イエス様を信じなさい』と大声で叫ぶというようなことを私自身、何度か見たことがあります。

どうすれば、主の栄光を現すことができるかということを、人間が、自分の頭で考えて、普段やらないことをする、たとえば、道行く人に神のすばらしさを解くといったことをしても、やはり、主からは、「あなたはわたしと何の関係のない」という言葉が返ってくるのではないでしょうか。

そうではなく、私たちは、いつもと同じ日々の生活の中、例えば、会社で働いたり、家の中の家事や片付けをしたり、スーパーに買い物に行く、また、犬と散歩するといった日常の中でも、自分は神の深い哀れみによって、今ここにいるということを常に心に覚え、そして、神の御心が示されたときは、静かにその言葉に従うという気持ちを常に持っていれば、そのこと自体が、神の栄光をあらわすことにつながるのではないかと思います。これが、私が思う、水をくんだ手伝いの者たちが教えてくれる三番目の点であります。

(4)第4の点:まとめ

そして、最後に、この奇蹟が伝える第4番目の点です。このカナの婚礼の最後の部分を見てみます。

2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

神の子として地上に来られたイエス様の初めの奇蹟は、裏方とも言うべき弟子たち、手伝いの者たちにしか分からないような、実に目立たないかたちで行われ、そして、静かに終わりました。

誰よりも、このしるしによって目を開かれたのは、イエス様の言葉に従った手伝いの者たちでありましょう。主のそばにいて、主のことばに従ったものだけが、イエス様の中に現された神のしるしを目の当たりにするという恵みを経験したのであります。

そして、一方でこの奇蹟によって、現実的な恩恵を受けたのは、ぶどう酒を味わった宴会の参加者たちでありますが、彼らは、このぶどう酒が神の奇蹟そのものであることに最期まで気づきませんでした。

もしも、誰もが目をみはるようなかたちでこの奇蹟が行われていたら、例えば、手品のように、参列者たちの頭の上に、空からぶどう酒が降り注いだらどうだったでしょう?彼らは神の力に驚愕し、主の前にひれ伏したかもしれません。しかし、そこで本物の信仰が与えられたとは限りません。しるしを求めることなく、主を無条件に信じる信仰がなければ、最上のぶどう酒を味わった感謝もすぐに冷めてゆくでしょう。その生活には主の救いはありません。主はそのようなことを望まなかったのであります。

実際に同じ章の最後の部分で、主はしるしだけを求める人たちのことでこう言われています。

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

このように、しるしだけを求めること、また、奇蹟を見たことによって主を信じた人たちにご自身をゆだねることを、主は明白に拒否されています。

ここでまた、あらためて思わされることは、人の目に見えなくても、人が気付いていなくても、しるし、すなわち、神の奇蹟は、日々の生活の中で、行われているということです。イエス様が祈りの応えとして、してくださっていることは数多くあります。恵みを受け取りながらも、そのことに気付かないこともたくさんあるのではないかと思います。

しかし、これは逆の見方をすれば、私たちが主を信じ、そして、水を汲んだ裏方のように、素直な心で主の言葉に従えば、その恵みがどこかで主を知らない人たちにも注がれ得ることを意味しているのではないでしょうか。

これが、カナの婚礼の奇蹟を繰り返し読む中で、私が思わされた第四の点でありました。

(5)おわり

以上、有名なカナの婚礼の奇蹟について、細かく見てまいりました。

終わりに、ちょっと付け加えさせていただきますと、私たちの多くは、まだ救われていない家族、親戚や知り合いがいて、その救いのために祈っているのではないかと思います。その祈りに対する答えが、直ちに現実的な変化として現れることはないかもしれません。

しかし、このカナの婚礼では、主の存在すら知らなかった婚礼の参加者がぶどう酒を味わったように、私たちが祈ったすべてのものの上に主の恵みが注がれることを信じ、その恵みに感謝すること、これこそ、主の栄光が現れるということに他ならないのではないかと思います。

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