2021年5月17日月曜日

木には望みがある

木には望みがある
2021年5月17日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

ヨブ
14:7 木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。
14:8 たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、
14:9 水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。

木には望みがある。私は若い頃、よく山歩きをしました。ですから、このみ言葉に出会ったとき、霊的な意味は分かりませんでしたが、本当にその通りだと思いました。以来、私の心の中にあったみ言葉でありました。そして、最近になって、『木には望みがある』とは、救われた私たちには、主にある希望がある――そういう意味ではないかと思うようになりました。ヨブ記を通して、ご一緒に考えてみたいと思います

さて、ヨブ記の14章は、ヨブの哀歌です。三人の友人たちとの論争の中で、人間のはかなさを語ったものであります。

ヨブ
14:1 女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです。
14:2 花のように咲き出ては切り取られ、影のように飛び去ってとどまりません。
14:3 あなたはこのような者にさえ、あなたの目を開き、私をご自身とともに、さばきの座に連れて行かれるのですか。

人間は弱く、はかない存在にすぎない。そのようなものに対して、神であるあなたは、目を見開いて、どんな罪をも見逃さずに追求されるのですかという、ヨブの嘆きの言葉から始まります。神が、人間の人生に決定的な力を持っておられるのに対し、人は何もできない、ただ決められたとおりに、受け入れるしかない。それなのに、人に神のようでありなさいと要求されるのですか。人間をはかなき、弱きものとして扱ってくださいと言っています。

そして、希望のない人間に対して、読んでいただいた7節で、木には望みがあると続けているのであります。確かに、木は秋から冬になると、葉が枯れ落ちてしまいます。しかし、葉が枯れ落ちても、たとえ、切られても、春にはまた新芽を吹き出します。このように、木には望みがあるのに対して、人間は死んでしまえば、それきりです。

ヨブ
14:13 ああ、あなたが私をよみに隠し、あなたの怒りが過ぎ去るまで私を潜ませ、私のために時を定め、私を覚えてくださればよいのに。

14:16 今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、
14:17 私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。

死への不安を語りながら、ヨブには、救いへの望みがあったのです。『私をよみに隠し、時を定め、私を覚えてください』と願っています。彼が願っているのは、罪の人生に死んで、新しいいのちに生きるということなのでしょう。ヨブには復活があるという確信は、まだなかったでしょう。しかし、木のように新しい芽を出すこと、つまり、復活以外に自分には希望も救いもないと、感じ取っていたのではないでしょうか。

さて、ご存知のように、ヨブに降りかかった災いとは、本当に過酷なものだったんです。彼は、十人の子供を一瞬のうちに失いました。多くのしもべや家畜や持ち物も全てなくしたのです。そして、足の裏から頭のいただきまで、悪性の腫物で打たれたのであります。さらに、妻からも見放された。

ヨブ
9:17 神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、
9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。

サタンは、何の理由もないのに、彼を滅ぼそうとした。そして、主はサタンの行動をお許しになったのであります。全く潔白で、正しく神を怖れ、悪から遠ざかっていたヨブに、考えられない災いのあらしが襲ったのであります。サタンとは、このように人を陥れようとして、主なる神に訴えるものであります。あらゆる手を使って、私たちから望みを取り去り、神から私たちを離そうとしているものです。

しかし、それならばなぜ、主はサタンの行動をお許しになったのでしょうか。大きな疑問が出てきます。

ヨブ
3:1 その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。
3:2 ヨブは声を出して言った。
3:3 私の生まれた日は滅びうせよ。「男の子が胎に宿った。」と言ったその夜も。

ヨブは、自分の生まれたことを呪うようになり、死を願うようになりました。

そして、三人の友人が、ヨブを慰めに来ました。しかし、彼らは、次々とヨブを説き伏せようし、結局、彼を罪あるものとして、糾弾するようになりました。それによって、慰めるどころか、ヨブをますますかたくなにさせてしまうのであります。三人は、それぞれに正しいことを言うのですが、ヨブの苦悩や打ち傷の実態を知らない、愛のない的外れなことを言ってしまいます。彼らは、正論を述べましたが、結局、そこには、愛が見られなかったのではないでしょうか。

ヨブ
13:1 見よ。私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。
13:2 あなたがたの知っていることは私も知っている。私はあなたがたに劣っていない。
13:3 だが、私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。

31:35 だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。私を訴える者が書いた告訴状があれば、
31:36 私はそれを肩に負い、冠のように、それをこの身に結びつけ、
31:37 私の歩みの数をこの方に告げ、君主のようにして近づきたい。

ヨブの最大の問題は、神を見出せなくなったことでした。彼の論争相手は、友人たちから神ご自身に変わり、自分の潔白の確信が、次第に傲慢に変わりつつあったのであります。そのような時に、主は若者、エリフの口を通して語られました。

ヨブ
34:29 神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう。

37:21 今、雨雲の中に輝いている光を見ることはできない。しかし、風が吹き去るとこれをきよめる。
37:22 北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。
37:23 私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。
37:24 だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。

そして、エリフが語り終えたその直後に、主なる神が語られるのであります。

ヨブ
38:1 主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。

これまで友人たちが、ヨブの苦難をどのように説明しようとしても、何の解決にもなりませんでした。病の苦しみも、財産や愛する人を失った悲しみも、ヨブには、決して、耐え難いものではなかったかもしれません。しかし、神が答えてくださらないという現実には苦しみ、悩みました。

しかし、ついに主は仰せられました。あらしの中とはどういうことでしょうか。あらしの前には、人はどうすることもできません。過ぎ去るのをじっと、待つしかないのです。あらしは、人間の無力さを知らしめる力です。ヨブが経験したことは、まさに叫び狂ったあらしでした。しかし、神はその大いなる困難、そして、絶望の中から語られます。私たちが神のみ声を聞くというのは、穏やかで順風満帆の日々においてではありません。まさに、このように、人生のあらしの中で、今にも沈没しようとしているときにおいてなのではないでしょうか。

さて、あらしの中から聞こえた神の声、待ちに待った神の声とはいかなる声であったでしょうか。

ヨブ
38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。

非常に厳しい言葉であります。ヨブがあれほど苦しみに耐えて、ひたすら、神様の答えを求め続け、待ち続けてきたのに、彼の質問には何ひとつ答えていません。そして、神は容赦されません。お前は何も知らないのに、神の正義を取り沙汰するなど、分をわきまない行為ではないかと、厳しく仰せられたのです。

さて、私たちはここまで、ヨブの側から、受難を受けた被害者の立場から、考えてまいりました。しかし、主なる神は、どのようにお考えだったのでしょうか。視点を変えて、み心を尋ね求めてみたいと思います。

『知識もなく言い分を述べて』と仰せられた神様の厳しい叱責と対極にあるのは、イエス様の十字架上の祈りであります。ルカの福音書の23章、みなさん、よくご存知のみ言葉であります。

ルカ
23:34 ・・・・「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

イエス様は、人々の無知を知っておられた。そして、無知の者に対する深いあわれみがおありでした。この無知のゆえに、人々は神の御子であるイエス様さえ、十字架につけて、殺してしまいました。しかし、イエス様は、彼らをお赦しくださいと祈ってくださった。この祈りは、イエス様ご自身の血を、代価として捧げられた祈りであります。罪が赦されるためには、イエス様の血が流される必要があったからです。

同じくルカの福音書の22章には、象徴的な文章が書かれています。

ルカ
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

私たちはどうでしょうか。私たちは今なお、自分が何をしているかは知らずに、神様に対して多くの過ちを重ねています。そして、つぶやく者、不平を言うものであります。それにも関わらず、私たちが赦され、神様の愛と守りの中に生きることができるのは、イエス様の十字架による贖いがあるからであります。

ヨハネの福音書の3章の16節、よくご存知の御言葉であります

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

神はいかなる方法で、人の世を治め、保ち、導かれるかということが、ここに言い尽くされています。世を愛される方法とは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つようにということであります。

正しいものだから愛される、救われるということではありません。神の御心とは、イエス様の十字架の犠牲によって、全ての人を愛し、赦し、新しくしようとすることであります。しかし、これは私たちが考える正義という観点からすると、理解できないことでもあります。正しい者が報われて、間違ってる者が裁きを受けるのは正しいと、誰もが思っているのではないでしょうか。けれども、この世には人間の目で見て、考えて、どうにも理屈に合わない矛盾が多くあります。そして、神様はしばしば、それを正されないように見えます。

ヨブの受難もそうなのではないでしょうか。正しいヨブが、こんなひどい苦痛を味わうのはおかしいと、私たちは感じます。しかし、神のみ心は、人間の思いをはるかに超えたところにあるのではないでしょうか。

実際、神はヨブを正しい人間だと認めておられました。しかし、そこにサタンが水を差したのです。『ヨブはいたずらに神を怖れましょうか』と、サタンは訴えたのです。それに対して神は、サタンの挑戦を受けられました。そこには、人間の罪を贖い、サタンの訴えから守ろうとされる神様の愛があるのではないでしょうか。もちろん、ヨブとて罪を負った罪人であります。罪ある人間が義と認められるためには、イエス様の十字架がどうしても必要です。

ヨブの時代には、十字架どころか、イエス様がお生まれになってもいません。しかし、そのような時に、既に主なる神は十字架によってすべての人を愛し、導こうとのご計画を持っておられたのではないでしょうか。そう考えると、ヨブ記は、ヨブの受難の話というよりも、主なる神による、ヨブをはじめとする人間の救済のご計画であるということができます。

ヨブ記の16章と19章には、そのような神様の思いがはっきりと示されているところがあります。一方で、この部分は、ヨブの言葉が、もっとも過激になるところです。しかし、そのように反抗的になり、絶望していくヨブの心に浮かんできたことがあるのであります。

ヨブ
16:19 今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。
16:20 私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
16:21 その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。

神だけが保証人であリ、神と等しい方、つまり、イエス様が救済者として、天におられるという確信を、ヨブは苦悩と絶望の中で示されたのではないか。苦悩のただ中にあって主なる神は、救い主についての啓示を、ヨブに与えられたと考えることができます。

ヨブ
19:23 ああ、今、できれば、私のことばが書き留められればよいのに。ああ、書き物に刻まれればよいのに。
19:24 鉄の筆と鉛とによって、いつまでも岩に刻みつけられたい。
19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。
19:26 私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。
19:27 この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。

ヨブの心は、神への反抗心、絶望でいっぱいだったはずです。ですから、このような希望が、彼の中にあったわけではありません。ヨブ自身も、自分の心の中に浮かんできたこの想いに驚いたのです。だから、『私のことばが書き留められれば良いのに。いつまでも、岩に刻みつけられたい』と言っています。その希望とは、『私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを』であります。

ヨブの反抗心と絶望でいっぱいの心に、突然、与えられた信仰と希望の灯火(ともしび)、それは、神が私を弁護する方となり、とりなす方となり、友となられる。そして、贖う方が天に生きておられるという確信です。この方によって、私の潔白が証明され、義が認められる日が来るということなのです。

ヨブは、罪人を義とする十字架の主の姿を見、そこにのみ、自分の救いがあると言うことを知ったのです。ですから、彼は、主の愛の証し人となるために、苦難を受けていたと言っても良いのではないでしょうか。

実は、主は十四章において、既にヨブに啓示を与えられたと考えることができると、今回、思わされました。それが、最初に読んでいただいた、『木には望みがある』の一節であります。ヨブが願ったように、主は救いと復活の希望を与えられた。主なる神は、最初から救いへの道に導くように働いておられたのではないでしょうか。

ヨブの大きな間違いは、自分を責め立てているのは、神様であると思っていたことです。しかし、実は、神はヨブを弁護してくださる方なのです。サタンの告発に対し、ヨブを弁護し、たとえ、ヨブが完全に義なるものでなくても、義と認めようとするお方であったのです。

ヨブにとっても、そして、私たちにとっても、最善の道は、神様を信頼して、神様のみ心に自分を委ねることであります。たとえ、神がなしておられることが、人間の目で見て、頭で考えて、どんなに不可解なものであろうと、そうすべきです。それが、私たちの潔白が証明される唯一の道だからです。

神様が、ヨブ記の38章で、『知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか(2節)』とおっしゃったのは、ヨブの無知を責めるというよりも、『わたしを信じなさい』との強い招きの言葉だったのではないでしょうか。そして、神様はこう言葉を継ぎます。『さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ(3節)。』

神様に問い続けたヨブが、逆に、問い返されるのです。まさに、人生のあらしの中で、主はヨブに、『わたしに応えてみよ』と問いかけられます。ここで、ヨブは再び、神のみ声を聞くものに変えられるのです。それによって、ヨブは与えられた啓示――私を贖う方は生きておられるとの確信を、さらに深めていった。そして、神のみ心の前に、アーメンと唱え、その愛を受け取るように、導かれていったのでした。

神は、ヨブの質問に直接、答えられたわけではありません。むしろ、創造と摂理の中で、偉大な知恵と力を示す神を認識せよと迫られました。ここに至ってヨブは、悔い改めて神の前にひれ伏したのでありましょう。

ヨブ
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

私たちも、ヨブほどではないにしても、それぞれに悩みや苦しみが与えられて、出口が見えなくなっているかもしれません。しかし、ヨブが体験したように、主なる神に信頼して、歩むことができれば本当に幸いであります。

最後に、み言葉を三箇所、読んで終わりにしたいと思います。

ヤコブ
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

ローマ
11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。
11:34 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

ヘブル
7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

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