2021年4月4日日曜日

みことばを食べる

みことばを食べる
2021年4月4日、町田福音集会
重田 定義

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

『私はあなたのみことばを見つけ、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。』エレミヤ書15章の16節。今日は、聖書のこの箇所から、『みことばを食べる』ということについて、ご一緒に考えたいと思います。

ここで言っているみことばとは、神様の言葉、あるいは、聖書の言葉のことです。この世の常識では、言葉というのは、耳で聞くものです。また、食べるというのは、食物を食べることです。ですから、みことばを食べるという表現に、奇異な感じを持つ方がいても当然です。しかし、聖書の神のみことばは、耳で聞くものでもなければ、目で読むものでもありません。食べるべきものなのです。

冒頭のみことばで、『私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました』と言っているエレミアという人は、紀元前600年代前半、イスラエルの南半分にあったユダ王国のヨシュア王の時代に生きた偉大な預言者の一人です。しかし、彼は、初めから偉大な預言者と言われるような人ではありませんでした。彼は、預言者になった時の様子を、次のように語っています。

エレミヤ
1:4 次のような主のことばが私にあった。
1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し(・・・・聖く分かつこと・・・・)、あなたを国々への預言者と定めていた。」
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」

このようにエレミアは、自分から進んで預言者になろうとした人ではありませんでした。むしろ、神様から命じられても、尻込みするような、気の小さい人でした。そのエレミアに、神様は、神に選ばれた民であるにも関わらず、神に従うどころか、神に背いて歩んでいたイスラエルの民に、悔い改めてご自分に立ち返るように、告げようと命じられたのです。

預言者として建てられたエレミヤは、神様から命じられたことを、そのまま、イスラエルの民に伝えました。しかし、エレミアの言ったことは、彼らにとって、たいへん耳の痛いこと、腹の立つことでした。怒った彼らは、エレミアを捕らえて、地下牢に入れたり、泥の中に沈めたりするなど、ひどい目にあわせました。彼は、嘆き、悲しみ、もう主の言葉を語るまいと、決心するのですが、自分の意に反して、その後も、神様のみことばを語り続けました。

どうして、そのようなことができたのでしょうか。それは、彼が、神のみことばを食べたからなのです。神様のみことばを食べることによって、彼の霊が燃え、強められたからなのです。この彼のエネルギーの原動力は、どこから来たのでしょうか。それは、神様のみことばを食べることによって与えられたのです。私たちの体を養う食べ物は、まず、口を開いて、食べなければなりません。では、聖書のみことばの場合は、どうでしょうか。

みことばは、私たちの霊を養う食べ物です。ですから、まず、霊の口を開かなければ、食べることはできません。しかし、霊の口を開けるとは、どういうことなのでしょうか。人間は、人の語る言葉を頭で理解することによって、その人が何を考え、何をしようとしてるのかが分かります。しかし、神様のみことば、聖書のみことばは、頭で理解しようとしても分かりません。聖書を、道徳の書として読んだり、歴史の書として読んだり、キリスト教を研究するために読んだりするのは、聖書を頭で理解しようとしているのです。しかし、そういう読み方をしている限り、神様の御心を知ることはできません。いくら人間の頭で、知恵で、聖書を分かろうとしても、神様の御心、神様のお考えを分かることはできません。どうしてでしょうか。

聖書のみことばは、人間の頭にではなく、人間の霊に与えられるものだからです。そして、霊に与えられるみことばは、霊の口を開けて食べなければならないのです。では、霊の口を開けるにはどうしたらよいのでしょうか。それには、神様の前にへりくだり、神様に向けて心を開くという、謙虚な態度をとることが必要なのです。エレミヤが神様のみことばを食べることができたのは、彼がそのような態度をとったからに他なりません。

さて、神様のみことばは、私たちが日常、食べているような、限りある体の生命を維持する食べ物とは全く異なります。神様のみことばは、永遠の命に生きるために、なくてはならない食べ物なのです。私たち人間は、毎日、体を支える食べ物を得るために働きますが、イエス様は体の糧よりも、はるかに大切な永遠の命を支える霊の食べ物を得るために働きなさい。そして、その霊の食べ物は、イエス様が与えてくださると、次のようにおっしゃいました。

ヨハネ
6:27 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子(・・・・イエス様・・・・)があなたがたに与えるものです。

そして、イエス様は、私たちが永遠の命に至るみことばを食べることができるために、すばらしい助け主を与えてくださいました。それが聖霊です。イエス様は、次のように弟子たちに約束されました。

ヨハネ
14:26 助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

聖霊の働きについて、使徒パウロも、次のように言っています。

第一コリント
2:11 ・・・・神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

このように、聖霊を受けた者は、御霊の助けによって、神様から賜物として与えられた、数々の聖書のみことばを通して初めて、神様の深いご愛と恵みを味わい知って、よろこぶことができるのです。

ここで、みことばを食べるには、どうして聖霊の助けが必要なのかということを、食べ物と消化液の働きに例えて、考えてみましょう。私たちが食べ物を消化するためには、唾液、胃液、膵液、胆汁などの消化液の助けが必要です。これらの消化液の働きによって消化された食べ物が、体を生かすエネルギーになるのです。このように食べたみことばを消化するには、聖霊の働きによる助けが必要であり、聖霊の働きによって消化されたみことばが、私たち信仰者に、霊的なエネルギーやよろこびを与えてくれるのです。

しかし、ここでひとつ注意しなければならないことがあります。それは、考えごとや悩みごとに心が囚われながら食事をすると、消化液の分泌が妨げられ、不消化を起こすように、自分の知恵や力によってみことばを理解しようとすると、それが聖霊の働きを妨げて、みことばの深い意味を味わうことができないということです。ですから、みことばを食べる時は、みことばに心を集中し、心静かに、謙虚になって、食べなければなりません。また、食べ物が硬いと思った時には、よく咀嚼(そしゃく)すると、消化液がたくさん出てきて、硬い食べ物も消化できるようになるのと同じように、みことばが理解しにくいと思った時には、あきらめずに、何度も繰り返して読むうちに、聖霊が働いて、みことばの味が分かるようになります。

さて、私たち信者がみことばを食べて、その味を知ると、どのようなことが起こるのか、そのひとつの実例をご紹介します。

もう三十年ほど前のことになりますが、がんで天に召された主にある兄弟のお話です。私は、その兄弟が入院されている病院に、時々、お見舞いに行きましたが、その時にいつも、兄弟が言われた言葉は、『今日はどんなみことばをいただけますか』というものでした。ご自分がすでに、癌の末期であることを知っておられた兄弟は、その都度、『自分はもう何も食べられないけれども、みことばは食べられます。本当にごちそうです』と、言っておられました。そして、この兄弟は、みことばに支えられ、慰められ、励まされ、よろこんで安らかに、天の御国に召されたのです。

このように、私たち信者が、肉体的にはどんなに困難な状況の中にあっても、みことばを食べると、体が強められ、元気になって喜ぶことができるのです。パウロは、コリント人への手紙でこう言っています。

第二コリント
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

これを、頭で読めば、全く理解できないでしょう。こんな矛盾したことは、常識では考えられないからです。しかし、みことばを食べ、その味を知った人ならば、『本当にその通りです、然り、アーメン』と、このみことばを心から受け入れて、喜ぶことができるのです。これが、聖書のみことばを食べるということです。

私たち人間は、日頃はこの世のことに忙殺されて、なかなか自分の心の中をのぞいてみる暇はありません。しかし、静まって、自分の心の中をのぞいてみる時に、この世のどんなものを持ってしても、心の不安や虚しさを、完全に除くことができないことが分かるのではないでしょうか。いかなるこの世のものを持ってきても、心に開いた穴を満たすことはできません。

ただひとつ、心の虚しさを生かし、心によろこびと幸いと希望を与えることのできるものは、聖書のみことばです。なぜなら、私たち人間は、聖書のみことばを通して、神様の、そして、御子イエス様の限りない深い愛にふれ、聖書のみことばの約束によって、死に打ち勝ち、永遠の命に生きるよろこびに満たされるからです。しかし、そのためには、みことばを聞くのではなく、食べて、味わうことが必要であることを、ぜひ知っていただきたいと思います。

詩篇119篇には、神のみことばに従うとき、人は初めて、正しい言い方、力と希望とよろこびにあふれた歩みができると強調していますが、今日は、その中から、103節、105節、130節のみことばをお読みして終わります。

詩篇
119:103 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
119:131 私は口を大きくあけて、あえぎました。あなたの仰せを愛したからです。

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