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2021年12月15日水曜日

イエス・キリストとは誰ですか

イエス・キリストとは誰ですか
2021年12月15日、国立谷保家庭集会
黒田 禮吉

ヨハネ
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

今日は、『イエス・キリストとは誰ですか』と言うタイトルで、お話しをさせていただきたいと思います。

さて、今日、イエス・キリストの歴史的存在を疑う人はいません。しかしながら、イエス・キリストに関して、大きな誤解があります。多くの人がこのように言います。イエス・キリストは、キリスト教の創始者である。これは、明らかな間違いです。キリスト教とは、ローマ帝国が作った宗教であります。また時々、こういうふうにおっしゃる方がいます。イエス・キリストは、偉大な預言者、偉大な教師、世界四大聖人の一人である。その方は、イエス様を褒め称えているつもりですが、その評価は完全に間違っています。

2021年11月22日月曜日

私たちも盲目なのですか

私たちも盲目なのですか
2021年11月21日、市川福音集会
黒田 禮吉

ヨハネ
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

初めに、ヨハネの福音書の九章から、読んでみたいと思います。

ヨハネ
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」

2021年11月21日日曜日

隠れている罪と開かれた門

隠れている罪と開かれた門
2021年11月21日、秋田福音集会
岡本 雅文

詩篇
19:12 だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。

マタイ
19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』

2021年11月6日土曜日

わたしは集会を愛している

わたしは集会を愛している
2021年11月6日、11月の御代田よろこびの集い
岡本 雅文

エペソ
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

2021年10月31日日曜日

ヨルダン川の東側

ヨルダン川の東側
2021年10月31日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

民数記
32:1 ルベン族とガド族は、非常に多くの家畜を持っていた。彼らがヤゼルの地とギルアデの地を見ると、その場所はほんとうに家畜に適した場所であったので、
32:2 ガド族とルベン族は、モーセと祭司エルアザルおよび会衆の上に立つ者たちのところに来て、次のように言った。
32:3 「アタロテ、ディボン、ヤゼル、ニムラ、ヘシュボン、エルアレ、セバム、ネボ、ベオン。
32:4 これら主がイスラエルの会衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です。そして、あなたのしもべどもは家畜を持っているのです。」
32:5 また彼らは言った。「もし、私たちの願いがかないますなら、どうかこの地をあなたのしもべどもに所有地として与えてください。私たちにヨルダンを渡らせないでください。」

モーセは、主からイスラエルの民に相続地を割り当てることを命じられています。その相続地は、もちろん、ヨルダン川を渡ったところ、西側にあります。神が約束されたのは、西は地中海、そして、東はヨルダン川を境界とする地であります。ところが、今、読んでいただきましたように、ルベン族とガド族が、モーセに願います。『ヨルダン川の東側に所有地を与えてください』という願いです。

2021年10月24日日曜日

信者に残された最上にして最後のわざは祈り

信者に残された最上にして最後のわざは祈り
2021年10月24日、吉祥寺福音集会
重田 定義

エペソ
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

だいぶ前になりますけれども、年老いたひとりのドイツのキリスト者が作った『最上のわざ』と題する詩を読んで、同じように年老いた私は、たいへん感動し、深い共感を覚えましたので、その詩を書き留めておきました。その詩とは、次のようなものであります。お読みします。

2021年10月13日水曜日

なぜ過去のことが思い出されるのか

なぜ過去のことが思い出されるのか
2021年10月13日、国立谷保家庭集会
古田公人

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

聖書には、十字架の言葉は救いを受ける私たちには神の力ですと記されています。自分の罪に苦しんでいて、救いを求めているなら、福音を聞くと、すぐに、イエス様を信じ、提供されている救いを、感謝して受け入れるのではないかと思います。 

2021年10月4日月曜日

満ち満ちたキリストの身体

満ち満ちたキリストの身体
2021年10月3日、吉祥寺福音集会
古田公人

第一コリント
1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。
1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。
1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

しばらくのあいだ、第一コリントのこのみ言葉から、ご一緒に考えたいと思います。

2021年10月3日日曜日

わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い

わたしの思いはあなたがたの思いよりも高い
2021年10月3日、町田福音集会
重田定義

ヨシュア
55:8  「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

イエス様を信じる私たちは、日々の歩みの中で、しばしば、主のみ心がわからない。いったい、主のお考えはなんだろうと、思い悩んでしまうことがあるのではないでしょうか?しかし、それは今、読んでいただいたみ言葉にありますように、主のお考えは目先のことしか見えない、わからない、私たち人間の考えの及ばないほどの高いものであって、人の頭では到底、主のご計画、お考えを知ることなどできないからなのであります。

2021年9月8日水曜日

イエス様のいばらの冠

イエス様のいばらの冠
2021年9月8日、国立谷保家庭集会
柿沼義一兄

ヨハネ
19:1 そこで、ピラトはイエスを捕えて、むち打ちにした。
19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
19:3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。
19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
19:6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」

2021年8月15日日曜日

ヨルダン川を渡る(吉祥寺)

ヨルダン川を渡る(吉祥寺)
2021年8月15日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

ヨシュア
3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

2021年8月1日日曜日

原罪

原罪
2021年8月1日、秋田福音集会
岡本 雅文

ヨブ
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

先程、原罪というタイトルにさせていただきましたけれども、副題としては、『裸で生きよ』というテーマにしたほうがいいかもしれません。

ヨブ記は、1章の1節で、『この人(ヨブ)は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた』と始まっています。この1節を読むと、神は何か特別なことを告げようとしておられるのではないかと思わされます。なぜなら、ルカの5章の32説では、イエス様は、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです』と、告げておられるからです。正しい人、義人、ヨブ――この箇所は、ルカの5章の32節から見ると、どのような展開になるのか・・・・初めから、興味がわいてまいります。

2021年7月25日日曜日

ヨルダン川を渡る(市川)

ヨルダン川を渡る(市川)
2021年7月25日、市川福音集会
黒田禮吉

ヨシュア
1:2わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。
1:3あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

聖書では、ヨルダン川を渡るということが、大きな意味を持っています。イスラエルの民が、約束の地に入るためには、ヨルダン川を渡る必要があったのです。エジプトの地から出た時以来、約束の地に入ることが、イスラエルにとっての夢でした。けれども、それは、四十年間も閉ざされました。何が、彼らをこれまで阻んでいたのでしょうか?

2021年7月4日日曜日

神を誇る人間と自分を誇る人間

神を誇る人間と自分を誇る人間
2021年7月4日、町田福音集会
重田 定義

詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

こんにちわ。あらためて、このようにして、本当に久しぶりに、皆さんと一緒に礼拝を守ることができたこと、心から感謝しております。一年六カ月ぶりくらいだと思うんです。普段は、家内と一緒に、家庭で礼拝を捧げ、聖餐にあずかっておりました。また、毎日、朝晩、賛美と祈りを二人でしておりました。

コロナが、こんなに長引くとは考えもしなかったんですけども、この新しいコロナ・ウイルスというのは、未だかつて全人類があったことがないウィルスだと思うんです。それは、変異がきわめて速い。新しい変異の株が出現したと思ったら、もうすぐにまた、その次の変異株が来る・・・・こういう経験はおそらく、全人類がしたことがないのではないかと思います。そういうコロナの禍(か)――わざわいといいますが――によって、私たちは、全人類がですね、大変な目に遭っておりますけれども、本当にそのコロナによって、私たちの生活が、大きく変わったことは事実なんです。

2021年6月7日月曜日

自分の十字架を負う

自分の十字架を負う
2021年6月6日、静岡集会
黒田 禮吉

マタイ
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
16:25 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」

自分の十字架を負うとは、どういう意味でしょうか?世間で言われているように、自分の暗い過去や、罪などを背負うことなのでしょうか?イエス様は、そんなことを言っておられるのではありません。もしそうなら、『自分を捨て、十字架を負え』とは救いではなく、絶望へと突き進む命令ではないでしょうか?そこには喜び、希望はありません。

自分の十字架とはなんでしょうか?十字架とは、一般的には、運命や重荷のことと理解されているかもしれません。しかし、聖書で言っている十字架は、自分の運命のことではありません。

2021年6月6日日曜日

祈り

祈り
2021年6月6日、札幌集会
岡本 雅文

ピリピ
4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

今、読んでいただいたみ言葉の、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば・・・・』と書いてある、この短い、三節の短いみ言葉ですけれども、この中に、信じている私たちがなすべき、ほとんどのことが語られているのではないかと思わされます。

2021年5月30日日曜日

三つのうめき

三つのうめき
2021年5月30日、吉祥寺(Zoom礼拝)
重田 定義

ローマ
8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

今日は、このローマ人への手紙のみ言葉の中にある三つのうめきということについて、ご一緒に学んでみたいと思います。

2021年5月23日日曜日

金のように、銀のように

金のように、銀のように
2021年5月23日、吉祥寺(ZOOM)福音集会
岡本 雅文

創世記
18:9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。
18:10 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。
18:11 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
18:13 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。
18:14 主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」
18:15 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

2021年5月22日土曜日

どんなことでも、神にはできるのです

どんなことでも、神にはできるのです
2021年5月23日、秋田福音集会
藤田 匡

マルコ
10:27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

これは、イエス様が語られた言葉でございます。これは、弟子たちに、イエス様が語られた言葉ですけれども、この直前に、イエス様を一人の青年が訪ねてまいりました。その会話の後で、この言葉をイエス様が語られました。この青年とイエス様のやりとりの場面につきまして、少し見させていただきたいと思います。

2021年5月17日月曜日

木には望みがある

木には望みがある
2021年5月17日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

ヨブ
14:7 木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。
14:8 たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、
14:9 水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。

木には望みがある。私は若い頃、よく山歩きをしました。ですから、このみ言葉に出会ったとき、霊的な意味は分かりませんでしたが、本当にその通りだと思いました。以来、私の心の中にあったみ言葉でありました。そして、最近になって、『木には望みがある』とは、救われた私たちには、主にある希望がある――そういう意味ではないかと思うようになりました。ヨブ記を通して、ご一緒に考えてみたいと思います