2021年1月24日日曜日

奇蹟の起きるとき

奇蹟の起きるとき
2021年1月24日、御代田福音集会
菊池 有恒

ヨハネ
5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。
5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。
5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。・・・・

本題に入る前に、ちょっと、私ごとを述べさせていただきたいと思いますが、お祈りのうちに無事に、一月の五日、それからこの十九日に、左右の白内障の手術を無事に終えることができました。今かけているメガネは、保護メガネなんです。ちょっと色が付いていて、度数が入ってないんですが、とても、ものがきれいに見えるようになって、『よかったな』と思っています。目にメスを入れるなんて言うと、ものすごく怖い気がするんですけども――怖いのは事実なんですが――全く、痛みはありませんでした。この中にも既にご経験の方がいるかも分かりませんし、これからおやりになる方は、ぜんぜん痛くありませんので、そのことだけはお伝えしておきたいと思います。

よく見えるようになったんですが、私も歳ですから、老眼なものですから、手元は裸眼では見にくいんです。新聞だとか、聖書が読めないもんですから、とりあえず、視力の安定するまで、老眼鏡をかけるんですが、病院の看護師さんに、どうしたらいいかときいたら、『百円ショップに行きなさい、老眼鏡いくらでも売ってますよ』と。行ってみましたら、本当に売っていました。それぞれ、強さがメガネに書いてあるんですけども、これぐらいの強さがいいですよと言われたのを買いましたら、手元がよく見えるようになりました。視力が安定するには、ひと月以上かかるそうですから、やがて、きちんとした眼鏡に変えたいと思ってます。余計なことを言いました。

それでは、本題に移らせていただきます。

ベテスダの池のほとりでの出来事については、皆さん、よくご存知のお話だと思います。私は、残念ながら行ったことはありませんけれども、今も、エルサレムの近くには、ベテスタと呼ばれる池があるそうです。

イエス様が、『起きて、床を取り上げて歩きなさい』と言われて、病の人を癒されました。この癒しの奇跡が、安息日に行われたことを取り上げて、イエス様を苦々しく思い、抹殺しようと考えていたユダヤ人とのやり取りが、9節の最後のところから10節以降に続いて、書かれていますけれども、今日はそのことではなくて、2節から9節に語られているベテスダの池のほとりでの奇蹟の出来事に絞って、みこころを訪ねたいと思います。

これまで、私がこのベゼスタの池の出来事についていて知っていたのは、時々、この池の水面が動くことがあって、水が動いた時、いちばん最初に飛び込んだものは、どんな病でも癒されると言われていて、そのために、大勢の病を持った人や体の不自由な人が、水が動いたとき、先を争って、いちばんに飛び込もうとしているということでした。ところが、今、兄弟に読んでいただいた引用箇所は、私が思っていたのと、ちょっと話が違います。7節では、『水がかき回されたとき、自分を入れてくれる人がいない』と、病で伏せっている人が言っていますけれども、どこにも、水が動く時、最初に水に入れば、病が癒されるとは書かれていません。

このことは後ほどふれるとして、今回、気が付いたことがあります。この章には、4節がありません。3節のすぐ後に、5節が置かれています。最初は、どうしたのだろうと、初めの時、びっくりしましたけれども、それでもよく見ると、3節に※印があって、脚注があります。次のように書かれています。下の脚注をお読みします。

※異本に三節後半、四節として、次の一部または全部を含むものがある。「彼らは水の動くのを待っていた。
(4)主の使いが時々この池に降りてきて、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである」

私が知っていたのは、この脚注に書かれていることを含めてのことでした。聖書には、読んでも分からないことがたくさんあります。私は、別に分からなくてもいいのだと思っています。分からなくても、私たちが、そこから何かひとつでも、イエス様の御心を聞き取ることができたら、それで十分です。私たちが今、使っている聖書は、この脚注にある3節の一部と4節に当たる部分を、本文から除外しています。この部分を、本文に入れておくのは問題があるから、脚注にもって行ったのです。

随分、前ですけれども、カトリックとプロテスタントの中枢にいる方たちが、聖書が別々なのはいけないから、聖書を一つにしようということで、新共同訳という聖書が出されましたけども、その聖書も、やはり、これを脚注に持って行っています。もうひとつ余計なことを言いますと、ベック兄弟が日本に来られた時に、最初に使った聖書は、文語体の聖書だったそうです。口語体の聖書がなかったようです。私のところにも古い文語体の聖書があるものですから、引っ張り出してみたら、文語体の聖書は、カッコ書きでこの中に残っていました。

イエス様は、この病人を、水がかき回されることとも、水が動くこととも無関係に、それどころか、池の水と無関係に、この病人を癒されました。池の水が動くのか、かき回されるのかについて、後でふれると言いましたけれども、私が家内と二人で集会に集うようになった30年ほど前、それまでの教会で使っていた聖書では、この脚注の部分は、括弧付きですけれども、本文に載っていました。つまり、4節は、括弧付きですけれども、欠番にはなっていませんでした。

その聖書の七節は、まだ、『水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません(口語訳)』と書かれていました。仮に、このベテスダの池の水面に何か変化が起こったとき、最初に入ったものの病が癒されるとしましょう。ところが、イエス様がこの池のほとりにおいでになったのです。主ご自身が、三十八年間も病に苦しんでいた人の癒しをなさったのです。

なぜ、この病で伏せっている人を、水に入れて癒やされなかったのでしょうか。水に真っ先に入ると癒されると言われていることと、イエス様がなさったこの癒やしと、どういう関係があるのでしょうか。イエス様がおっしゃることは、まことに明快です。『よくなりたいか。』ただ、それだけです。『水に入りたいか』とは、おっしゃってません。池の辺(ほとり)にいる大勢の病の人々は、皆、水が動くとき、真っ先に水に入ることで病が治ると信じているのです。まして、この病の人は、三十八年間も、真っ先に水に入ることを、待ちに待ったのに、イエス様に向かって――『池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけるともう他の人が先に降りているのです』と、これまでの状況を説明はしていますけれども――『水に入れてください』とは、一言も言っていません。

イエス様も、『起きて床を取り上げて歩きなさい』と、言われましたが、池の水に何の関心を示しておられません。そして、癒しの奇蹟を、この池の水とは、無関係になさいました。言うまでもなく、イエス様は父なる神とひとつです。父なる神の御心をなさるために、地上に来られました。そして、池の水とは無関係に、病の人を癒されたのです。

ヨハネ
10:30 わたしと父とは一つです。

5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」

このようなみ言葉があります。このベテスダの池の水に、何か特別な意味があるのでしょうか?

ご承知の通り、聖書には、イエス様がなさったたくさんの奇蹟が語られています。そして、その時は、必ず奇蹟をなさるご自分の意思を、言葉か、あるいは、行動で、はっきりとお示しになっています。例えば、『きよくなれ』であったり、『立って歩きなさい』であったり、『あなたの罪は赦された』、『手を伸ばしなさい』、『サタンよ、出ていけ』などです。また、病人に手をおいて癒されることも、病の箇所に触れて癒されることもなさいました。いくつか、例を見ていきたいと思います。

マタイ
8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。

8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。

8:15 イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
8:16 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。

マルコ2章には、屋根に穴を開けて、そこからつり下ろされた中風の人の癒やし、同じ5章には、十二年間の長血の女の救いの奇蹟、また、会堂管理者の十二歳の娘の奇蹟、ルカ13章には、十八年間、病の霊に取り憑かれた女の奇蹟、ヨハネ11章には、墓からよみがえるラザロの奇蹟が語られています。

使徒たちが行った癒やしもそこには、イエス様から与えられた、イエス様のはっきりとした意志があります。

マタイ
10:1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

このように学んできますと、このベテスダの池の話は、ちょっと合点がいかなくなります。病の人や体の不自由な人たちが癒されたいと思うのはもっともです。しかし、脚注になっている4節に、『主の使いが時々この池に降りてきて、水を動かす』、そして、そのとき、『最初にはいった者は、どのような病気にかかっていてもいやされたから』とあっても、そこから、私には、主である父なる神、そして、父なる神と一つである御子イエス様の癒すという意思が、言い換えると、ご愛が伝わってこないように思えてなりません。そこには、イエス様の癒やしのためのみ言葉も、具体的な行動もありません。それが感じられません。

この池の辺に集まっている病の人や、体の不自由な人たちには、主に信頼して熱心に祈ることも、なりふり構わずに、主にすがる様子もありません。いつか分からない水の変化を待っているだけです。主なる神への確固とした信頼のないところに、奇蹟はありえません。また、仮にこれまで水の変化があった時、誰かが飛び込んで癒された人があったとしても、その人が感謝する証しも、癒されたことをよろこんで、その御業を褒め称えることも、聖書のどこを探しても見当たりません。

この思いを一層、強くするのは、私たちの使っている新改訳聖書が、この本文の4節を、あえて脚注にしていることです。私は、その経緯は分かりませんけれども、このことは簡単なことではなかったと思うのです。

ここまで学んでくると、御心は何か悩んでしまいます。御心は、祈っていただくほかありません。ひとつ、み言葉が浮かびます。

第二コリント
11:14 しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

聖書から、自分に都合のいい言葉を探して、あそこにこう書いてある、ここにこう書いてあると言って、自分を納得させるとすれば、それは、イエス様の御心に反した行いだと思います。それでも、はっきりしてるのは、このベテスダの池のほとりで、三十八年間も病に臥せっていて、ただただ水に入りたいと、ひたすら望んででいた者が、池の水と全く無関係に、イエス様に癒された事実です。

この病人は、イエス様に、『よくなりたいか』と尋ねられて、即座に、『主よ』と言ったのです。この病人は、一言、声をかけてくださった方が、誰であるか分かったのです。声をかけていただいたその時、何のためらいもなく、思わず、『主よ』と、口をついて出る、揺るぎない主への信頼へ、一瞬のうちに導かれたのだと思います。

それでも、その後で、水がかき回された時、助けてくれる人はいないと、水に入ることを願っているようなことをも言っています。なんだか、主に信頼していると言いながら、別の思いも捨てきれない、私たちの姿を見るようです。イエス様は、そんなことは全く気にもされず、この病人が、『主よ』と言った、その信頼をよしとされました。イエス様に、『起きて、床を取り上げて歩きなさい』、このように言われた病の人は、イエス様に信頼し、言われたとおりにしました。イエス様の、『起きて、床を取り上げて歩きなさい』という短い御言葉の中に、主の愛に満ちた、はっきりしとした癒しの意志が明確に示されています。

主の限りない御愛に満ちた、明確な救いの意志と、主に対する揺るがない信頼――そこに奇蹟が、起こるべくして起こったのだと思います。先ほどお読みした癒しの具体例を一つ思い出してください。百人隊長のもとにいた、中風病みのしもべの話です。

マタイ
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」

イエス様が驚くほどの揺るがない信仰が、百人隊長のうちにあり、「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように」、この御言葉に、明確な救いのイエス様の意志があり、起こるべくして奇蹟は起こりました。

話を戻します。五つの回廊に囲まれたベテスダの池とその辺に集まっている大勢の病の人、盲人、足なえ、瘠せ衰えた者を、皆さん、頭の中にちょっと思い浮かべてみてください。何のことない。これは、地上の世界のことではないでしょうか。地上を歩み、旅をしている者は、皆、病人です。自分は病人ではないと思っている方も、誰もが、罪とその性質を持っていますから、この地上には健康な人は誰もいません。誰もが、罪の病を持っています。イエス様が神の一人子でありながら、地上に来られたのは、全ての人を救うためです。『全ての人』とおっしゃるのは、全ての人が罪の病人だから、『全ての人』とおっしゃるのです。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

第一テモテ
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

罪の病を持った者が大勢、昼も夜も、少しでも前に出ようと、この世の競争をしています。何かチャンスがあると、我先に殺到します。バーゲンに殺到して、台の上の商品をかき回すのは、ちょっとユーモラスですけれども、バーゲンのはなしとはわけが違います。人は生存競争をしているのです。

何らかの力で水が動く、かき回されるとは、世の中に変化がある時のことではないでしょうか。それは、ある意味では、チャンスなのです。すばしこい、抜け目のない人たちは、その時、機敏に動いて、地上の成功者になります。このことを、私たちは皆、肌で知っています。私たちは、信仰のことには鈍くても、この世のことは皆、よく知っています。

私たちは誰でも、少しでも池の水に近い所に行こうとします。自分の子供には、少しでも池の水に近いところに座らせようとするのではないでしょうか。このことを批判することは、容易いことです。しかし、聖書は、姦淫の女に石を投げることのできる者は誰もいませんと、言っています。御言葉はこう言っています。

マルコ
9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

ベテスダの池で行われていることは、まさに、地上の縮図に思えます。先程、お読みした箇所と一部、ダブりますけれども、ローマ人への手紙からお読みします。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

三十八年間は、人にとって短い年月ではありません。振り返ると、私は長いあいだ、ベテスダの池に真っ先に飛び込もうとして、そのことに捉われて日々を送ってきました。いえ、過去形で語るのは間違いかも分かりません。この歳になっても、信仰に導かれた今も、イエス様を信頼してる今も、ともすれば、人を押しのけてでも、ベテスダの池の水の近いところへ、近いところへと、行こうとしがちだと思います。『自分は違う』と言い切れる方は、誰もいないのではないでしょうか。

肉の私たちは、このような地上の罪の支配から、自分で抜け出すことはできません。なかなか、そこから抜け出せません。私たちも、ベテスダの池に群がっている者たちなのです。そのような者さえも、主に信頼すれば、三十八年間という長い孤独と病の苦痛から解放してくださるのです。池の水に入ることは、必要ではありませんでした。救いをいただくために、何かをしなければならないことなどひとつもありません。主を信頼すれば、一瞬のうちに、一方的に罪の深みから、私たちを救い出してくださるのです。イエス様の御愛は限りない御愛です。

ベテスダの池と、そのほとりでなされたイエス様の癒しは、地上の深い罪と、そこからの救いの鮮やかな対比を、私たちに語ってくださっているのではないでしょうか。

私たちは、この地上の様々な重荷や苦しみの中にあって、そのことを通して、自分の罪を自覚し、救い主、イエス・キリストに出会うことができます。イエス様に出会い、この方こそ、唯一の救い主と確信する時、罪から解放されます。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

私たちには、イエス様からの真(まこと)の救いと癒しが与えられていることを、感謝したいと思います。

ローマ
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

このように、私たちに約束をしてくださっています。これほどまでに、イエス様が私たちを愛してくださっていることを、あらためて覚えることができると、人間に生まれてきたことを感謝することができます。イエス様を見上げて、日々、歩めば、年齢に関係なく、私たちには、明るい希望にあふれた未来があります。私も歳ですから、この『年齢に関係なく』ということを、しっかり言っておきたいと思っています。

今日は、ご用意させていただいて、私も人間に造られた喜びをいただくことができました。私たちは、誰でも皆、イエス様の限りない御愛の手から漏れることはありません。信仰に導かれた私たちは、皆、心配はいりません。皆、大丈夫です。なぜなら、誰でも皆、神の子供だからです。

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