2021年8月15日日曜日

ヨルダン川を渡る(吉祥寺)

ヨルダン川を渡る(吉祥寺)
2021年8月15日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

ヨシュア
3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、――ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが――
3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
3:17 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

今、読んでいただいたように、イスラエルの民は、主なる神によってせき止められたヨルダン川の真ん中のかわいた地を通り、その川を渡り終わった。その箇所を読んでいただきました。

かつて、モーセに導かれたイスラエルの民は、エジプトを出て行った直後に、同じように、海の真ん中のかわいた地を進んで、紅海を渡りました。ですから、彼らイスラエル人は、いわば、第ニの紅海の奇蹟を体験したのであります。このヨルダン川を渡ると言うことが、今後の彼らの勝利の生活の出発点となります。

エジプトは、この世を表します。そこから出てきたことは、この世から、神の所有の民となるべく、あがない出されたことを意味します。そして、ヨルダン川を渡って、約束の地に入ることは、霊的祝福を意味しています。けれども、彼らイスラエルの民は、出エジプトから、ヨルダン川を渡るまでに、実に40年間という時間を要しました。神への信頼を学ぶために、40年の波乱の生活が与えられたと言うことができるのではないでしょうか?

第一コリント
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。
3:3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

パウロは、ここで、御霊に属すること、つまり、神に関する事柄をどれだけ悟ることができるのかについて、三種類の人がいることを挙げています。ひとつは、生まれながらの人です。もうひとつは、御霊に属する人です。そして、さらにもうひとつは、肉に属する人であります。

生まれながらの人とは、神の御霊による新生体験をまだ持っていない人のことです。救われていない人であります。エジプトの中にいた、かつてのイスラエル人が、そのことをよく表しています。

御霊に属する人とは、主イエス・キリストを信じることによって、新しく生まれ、今は、肉ではなく、御霊によって支配されている人のことです。この人たちは、ヨルダン川を渡って、約束のカナンの地に入ったイスラエル人と言えるでしょう。確かに敵との戦いは、まだあります。けれども、実質的な勝利をおさめています。そして、そこを、自分たちの所有の地として、安息を得ることができるのであります。

さて、問題なのは、肉に属する人であります。イスラエル人で言えば、荒野の生活をしていた民であります。約束が与えられているのに、それを受け入れることができず、感謝することができていない人たちであります。パウロが、コリントの人たちを、『あなたがたの間にねたみや争いがある』と言っており、それでは、ただの人と同じではないかと言っています。でも、彼らは救われています。パウロは、彼らのことを、キリストにある幼子と書きました。幼子ですが、確かに新しく生まれたのです。

イスラエル人は確かに、紅海を渡り、エジプトから出て行きました。イエス・キリストの血によって、この世から救い出されたのです。

さて、どうでしょうか?イエス様を信じた私たちも、コリントの人たちのように、あるいは、エジプトから出てきたイスラエル人のように、この世の現実を見て、迷い悩むものではないでしょうか?イエス様を信じたはずなのに、信じる前に持っていた肉の欲望が、自我が、自分の内側から出てくるのを知って、まだ救われていないのではないかと、悩むかもしれません。自分はまだ、十分に救われていないのではないかとも思ってしまいます。

しかし、私たちは、泥沼から救い出されて、今、かわいた地にいるのです。けれども、体に付いた泥を、聖霊によって、いつも洗っていただく必要があります。私たちは、しばしば、自分の体に付いた泥を見て、まだ、泥沼の中に居ると勘違いするのです。でも、もう陸地にいるのです。

また、私たちは、コリントの人たちのように、イエス様を見上げずに、パウロやアポロといった兄弟姉妹を見て、人に頼り、そして、結果として、人につまずく者ではないでしょうか?問題は、イエス・キリストを自分の主として生きていないということではないでしょうか?確かに、自分の罪のために死んでくださった救い主を、心に受け入れました。けれども、イエス様を主と仰いでいく生活を送っていないで、相変わらず、自己決定、自己支配をしているものではないでしょうか?

旧約聖書の民数記の13章を――長いですけど――読みたいと思います。

民数記
13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。
13:29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。」
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」
13:31 しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」
13:32 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」
14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」

私たちは、今、民数記でイスラエルの民が、カナンを目前にして逃げ出した姿を見ました。カナン人の地の中に、数多くの背の高い巨人がいたのです。確かに、乳と蜜の流れる地ですが、そこには、同時に敵も多かったのです。

イスラエルの民は、現実を見て逃げました。敵と戦いたくないと思います。数多くの人が、同じように、敵に対峙しないで、逃げてしまいます。主イエス・キリストのみもとに来て、この方に、自分の身をゆだねさえすればよいのです。しかし、そこまで近付いていながら、『まあ、今の生活のままでいい』と、現状維持を選んでしまうのです。それは、ひとえに不信仰、神に対する信頼の欠如という問題に起因します。

そして、私たちには、神に従う信仰がないのだと、言います。いや、信仰はもともと、私たちにはなかったのです。問題は、信仰をお与えになる神に信頼していなかったからだということができます。荒野の生活を、神がイスラエルに与えられた目的は、神に信頼することでした。荒野においては、自分の必要を自分で満たすことはできません。そこで、彼らは、不平を鳴らすたびに、神が、彼らの必要を満たしてくださいました。

喉が渇けば、岩から水を出してくださいました。空腹になれば、天からマナを降らせてくださいました。そして、それは実に、ヨルダン川を渡る時まで、一日も欠かすことなく、続けてくださいました。この経験を通して、イスラエルの民は、主が真実な方であることを知り、必要を満たしてくださる方だと、知るようになったのであります。

私たちもイスラエルの民と同じように、つぶやくものであったのではないでしょうか?

マタイ
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

ピリピ
4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

どうでしょうか。けれども、自分で自分の必要を満たさなければいけないと思っていると、それが足かせになって、前進することができません。大声で泣いたイスラエル人たちと、同じようになります。そして、かつてのエジプトでの生活を懐かしむようになるのであります。

民数記
11:4 また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。
11:5 エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。
11:6 だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

イスラエルの民は、カナンの地に入ろうとした時に、巨人を見ました。彼らは、主がここまでエジプトから連れてきて、この荒野で死なせるつもりだったのだと嘆きます。そして、主なる神に対して、不平をもらします。主よ、こんな厳しい命令をなされるのですか?

もちろん、自分でやりなさいと主は命じておられません。『わたしはともにいる』と約束されました。主なる神が私たちを通して働いてくださり、神がことを成しとげてくださるのです。

エジプトにおいて、主の腕がいかに力強いかを、彼らイスラエル人は目撃しました。何よりも、紅海が別れたのを見ました。それを彼らは、自分たちで行ったのでしょうか?神が全てを行ってくださったのです。それにもかかわらず、巨人と戦う時に、自分たちですべて行わなければいけないと思うのでしょうか?ひとえに主が行ってくださることを信じられないという問題があったのです。

私たちの場合はどうでしょうか?これまで、私たちは自分の力で生きてきたと、そのように思い込んでいます。ですから、問題が生じたときに、自分自身を主に明け渡すことによって、主がその問題を解決してくださるということが分からないのではないでしょうか?

イエス様を信じた私たちは、さあ、今から、クリスチャンらしくきよく、正しい生活を送ろう。毎日、聖書を読み、祈り、礼拝を守ろうと、決心するかもしれません。しかし、信仰の諸先輩が、よくこうおっしゃっております。今から、クリスチャンらしい生活をする努力をやめなさい。どうせ、できないから。勝利の生活は、自分がどれだけイエス様の主権に自分を委ねることができるかに、かかっているのではないでしょうか?

勝利を得るのは、私たち自身の何かではなく、イエス様であります。勝利を得るのは、私たち自身の問題ではなく、イエス様が代わって生きてくださることです。勝利を得るのは、根本的には私と関係ない。勝利を得るのはイエス様であり、それは、私とは無関係であります。

ですから、私たちはみ言葉を握り締め、イエス様に頼りましょう。ガラテアの2章20節、ご存知の有名なみ言葉であります。

ガラテア
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

パウロは、ここでニつのことを話しています。ひとつは、自分は死んでいるということです。『私はキリストとともに十字架につけられました』と言っているのです。もうひとつは、生きているということであります。しかし、今、生きているのは、キリストが生きておられるからであり、キリストを信じる信仰によるのだと言うことであります。私は死んでおり、キリストが生きておられるのだと言うことであります。

ヨルダン川を渡るという経験は、自分の死をよく表しています。ヨルダン川を渡れば、残るは前進あるのみです。敵と戦うしかありません。もう、後には戻れません。そして、その敵とは、40年前にイスラエルの12人の斥候が見た強大な者どもであり、何も変わっていません。したがって、もう自分自身に、より頼むことはできなくなった。ひたすら、主なる神により頼む生活しか、残されていないということになります。

パウロは、『キリストと共に十字架につけられました』と言いました。けれども、私たちの肉は、それを拒みます。私には、もっとできることがあるのではないかと問いかけます。私は、そこまで悪いことをしていないと言い張ります。自分を神の前に主張してしまうのであります。けれども、確かに、私は、これこれの罪を犯していました。主よ、赦してください。私を哀れんでくださいと、もし、ひれ伏し、心から悔い改めるなら、その時に、哀れみの御霊が働いてくださいます。主が、心を変えてくださるのです。

変えてくださるためには、私たちは、自分で生きることを放棄することが、どうしても必要ではないでしょうか?

ガラテア
5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
5:18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

今、私たちは、あまりにも、自分の感情や考えを大事にする時代に生きています。多様性というんでしょうか?自分を愛すること、大切にすることを、ものすごく強調する時代です。それは、しかし、どんなに言い繕っても結局、自己中心であり、わがままではないでしょうか?それで自由になったのかというと、かえって、不幸が訪れます。自由になろうと思ってもなれないのではないでしょうか?

ヨハネ
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」
8:33 彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自由になる。』と言われるのですか。」
8:34 イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
8:35 奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。」

救われた当初、私たちは、よろこびに満たされていました。けれども、そのような私たちも、知らないうちに不自由になってしまい、よろこびをなくしてしまいます。自由というのは、実は、主イエス様のもとに自分の身を置き、主に従うことによって得られるものです。その時に、私たちはもっとも自由になれるのではないでしょうか?

最後に、第ニコリント5章を読んで終わりにしたいと思います。

第ニコリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

新型コロナウイルスによる感染拡大によって、私たちは、家に閉じ込められ、自由が制限される日々を過ごさざるを得ません。けれども、その制限された中に、主の守りと平安と、そして、主にあるもっとも自由な時が与えられるのだと思うことができれば、本当に幸いであります。

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