2015年7月26日、御代田喜びの集い
ゴットホルド・ベック
第一テサロニケ
1:1 パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神および主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:2 私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、
1:3 絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。
1:4 神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。
1:5 なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
1:7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。
1:8 主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
このテサロニケ第一の手紙とは、パウロの初めて書いた手紙です。親切ですねえ。心配する人がいるとありがたいね。
この手紙はだいたい50年に書かれたものであり、場所はコリントです。三つの安息日で、パウロは、イエス様を紹介しました。結果として、テサロニケの信者の群れができたのです。彼らの心からの信仰と真の愛こそが、パウロの感謝の原因だったのです。
題としては、『生ける真の神に仕えるため、主に立ち返り、イエス様が天から下って来られるのを待つこと』と、付けることができるのではないかと思います。
三つのことを中心に考えてみたいと思います。その第一は、手紙についての一般的な事柄。二番目、手紙の言わんとしていることは何でしょうか。三番目、テサロニケにおける教会の発生についてです。
ここで、テサロニケと呼ばれている都市は、かつて、サロニケと呼ばれていました。サロニケという村は、昔からあった小さな村でした。けれども紀元前315年、アレクサンダー大王の後継者の一人である、カサンドロス、すなわち、マケドニアのカサンドロスが、新たに獲得して作られたものが、テサロニケと呼ばれた都市になったのです。けど、テサロニケという名前の由来は、アレクサンダー大王の妹、すなわち、カサンドロの妻の名前にちなんで付けられたと言われています。それがパウロの時代には、10万人の住民を擁する人数を大都市になったんです。
テサロニケには、ユダヤ人も少なからずおり、ユダヤ人の会堂もできていたのです。また、そこは港でもあり、大きな商取引が行われた場所だったようです。
この手紙の作者はパウロであり、パウロと一緒に、シルワノとテモテもいたことが分かれます。シルワノは、アンティオケからパウロと一緒になり、テモテは、ルステラから一緒になったのです。途中で、導かれるようになりました。手紙の受け取り人は、言うまでもなく、テサロニケ住んでいる兄弟姉妹です。
西暦52年、パウロは、二回目の伝道旅行をしましたが、その時、テサロニケにやってまいりました。彼は、ピリピからやってきました。
ピリピに滞在していた時のパウロの生活は、人間的に見るならば、失敗のように見えますけど、そこから小さな集会が発生した事実は、非常に重要な意味を持っています。確かに人間的に見るならば、パウロが捕らえられたことは、失敗のように思われますけど、実際はその反対で、パウロは大喜びで、力強く、テサロニケにおける伝道活動を続けました。
彼が、三つの安息日に、イエス様を紹介した結果、大成功をおさめました。それを通して、ユダヤ人もギリシャ人も、また、少なからぬ貴婦人たちも救われたのです。それは、パウロにとってもっとも喜び、感謝の原因だったのです。
パウロは、イエス様だけを紹介したい、十字架につけられたキリストだけを述べ伝えたいと、切に望んだのです。パウロは、もちろん、他人の世話になることを望まなかったのです。他人から悪口を言われることを望まなかったので、自分で働いて、生活しなければならなかったのです。
パウロはこのようにして、悪口を言われないように、働いたのです。それにも関わらず、大きな反対が持ち上がったため、信ずる者のことを考えて、テサロニケから離れました。その後で、パウロは、テサロニケから出た二人の同労者、アリスタルコとセクンドを与えられたのです。パウロはテサロニケに、わずか四週間しか滞在しなかったのですけど、豊かに祝福されました。
パウロは、テサロニケを離れて、ベレヤへ行き、そこで伝道活動を続けましたが、結果は同じようなものでした。陰謀のため、そこも離れざるを得なくなったのです。それで、アテネへと向かったんです。そして、アテネでは、非常に豊かな実を結ぶことができたのです。
ずっと使徒行伝17章16節から18章1節までを読むと、主はいかに祝福したのか、知ることができます。けれども、テサロニケのことを思うばかりだったパウロは、シルワノとテモテと、アテネから帰ったのです。
パウロは次に、コリントへとやってまいりました。このコリントで、パウロは、再びシルワノとテモテに出会い、二人からテサロニケで見聞きしたことをつぶさに聞いたのです。テサロニケの集会は、ユダヤ人から大きな攻撃を受けたにもかかわらず、模範的な信じる者の群れに成長したのです。
そして、この二人の報告を聞いた後、西暦53年に、パウロは、コリントでこの手紙を書いたのです。このテサロニケの手紙は、パウロが、いちばん最初に書いた手紙です。パウロがこの手紙を書いた目的は、信ずる者にとって、いちばん大切な目標を指し示すことでありました。
新約聖書の中にある手紙はすべて、もちろん、信ずる者のために書かれたものであり、信者の信仰がますます成長し、いっそうイエス様により頼むようにと、記されているものであります。
次に、この手紙が言わんとしていることは、いった何なのでしょうか。主な内容は、1章10節、3章13節を見ると分かリます。すなわち、イエス様が自分を待つ者のために、必ず来られるということです。
【参考】第一テサロニケ
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。
すなわち、イエス様の再臨、並びに、それが持つ信者の体験との関係がいかなるものであるかを説明することを、目指しているのです。イエス様の再臨は、いかにも、一つの教義であるのみならず、信ずる者の信仰生活において、生き生きとした力を表す秘訣にもなっているのです。
どの章を見ても、その終わりには、必ず主は、再臨されるという御言葉が結びとして、書かれています。
第一テサロニケ
1:6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。
2:14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となったのです。彼らがユダヤ人に苦しめられたのと同じように、あなたがたも自分の国の人に苦しめられたのです。
結局、彼らは、イエス様の再臨を、心から待ち望んでいたからこそ、何があっても、耐えることができたのです。
主イエス様の、再臨はいったい、いかなる影響を及ぼすのでしょうか?
この各章ごとに、一つのテーマを取り上げて、考えてみることができます。全部で5章になりますけれども、パウロは5つの答えを出していることになります。
第一章において、主の再臨が、主なる神に立ち返ることに対していかなる影響を及ぼすかを、考えてみましょう。これに対してパウロは、新しく生まれ変わった信者には、主の再臨が生き生きとした望みを与えると答えています。
二章においては、主の再臨が、信者の奉仕に対して、いかなる影響を及ぼすかという問いが出されます。この問いに対しては、忠実な主のしもべに対して、主の再臨は、力をつけ、勇気をつける望みを与えると答えられています。
第三章においては、主の再臨が、我々の心の状態に対していかなる影響を及ぼすかという問いが考えられます。それに対して、主の再臨は信ずる者に、きよめる望みを与えると答えられています。
第四章の後半においては、主の再臨が、信ずる者の死に対していかなる影響を及ぼすかと、問われています。これに対して主の再臨は、残されたものに対して、慰めを与える望みを約束していると答えられます。
第五章においては、主の再臨が、信者の目を覚ましている状態に対していかなる影響を及ぼすかを考えてみると、主の再臨はまどろんでいる信者を呼び覚まし、完全な献身へと導いてくれるのです。
従って、このようなことからも分かるように、この手紙全体の中心点は、まさに主の再臨であると言えるわけです。そして、主の再臨こそ、我々の全生涯を根本的に作り変えるべきなのではないでしょうか。主の再臨がなければ、我々には、何の望みもありません。主の再臨がなければ、何ら、力づけ、勇気づける力は存在しないことになります。
ただ主の再臨を待ち望むものだけが、ますます、清められ、ますます、高められるのです。主の再臨がなければ、私たちが、前に死んだ信者と再会する望みもなく、何らの慰めもないことになります。もしも主が再臨なされなければ、献身の生活も全く価値のないものになります。けど、イエス様は、必ず再臨なさいます。これこそ、パウロが力強く言わんとしたことに他ならない。
信者は、正しい道を歩もうとする限り、絶えず主の再臨に心の目を向けていなければなりません。我々の人生を徹底しているものは何でしょうか。目の前にあるいろいろな出来事でしょうか。それとも、主の再臨でしょうか。
三番目、テサロニケにおける集会の発生について、ちょっと考えてみたいと思います。
パウロがテサロニケに送った手紙は、非常に平易に、分かりやすく書かれているため、誰が読んでも理解できます。そして、ローマ人への手紙のように、教義の手紙ではありません。また、ガラテア人への手紙のようにいろいろな対立の問題を含んでいる手紙でもありません。
この手紙は、まさにパウロが、テサロニケにいる信者一人ひとりに対して、真心を込めて書いた手紙です。それですから、私たちはテサロニケの集会を、よくよく知るべきなのではないでしょうか。
詳しく書かれているのは、使徒行伝の17章、ずっと一節から十節までです。すでにご存知のように、ヨーロッパで最初に発生した集会は、ピリピの集会でした。パウロとシラスは、ピリピで捕らえられ、ひどく取り扱われたのです。けど、彼らは、決して周囲の人間を見ることなく、絶えず、復活されたイエス様を見上げました。
だから、不調においても絶えず喜び、感謝することができたのです。彼らは、囚われの身から解放された後、テサロニケへ行き、そこでも同じように、喜びと感謝をもって、イエス様を述べ伝えたのです。
そこで、三つのことについて考えましょうか。まず第一に、パウロはテサロニケでいかなる働きをしたのでしょうか。二番目、福音はテサロニケでどのような影響を及ぼしたのでしょうか。三番目、テサロニケにおける迫害の懸念は、なんだったでしょうか。
まず、パウロは、テサロニケでいかなる働きをしたのでしょうか。
使徒行伝17章1節を見ると、パウロの一行がテサロニケにあるユダヤ人の会堂に行ったことが分かります。
【参考】使徒行伝
17:1 彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。
パウロはそこで、もちろん旧約聖書に基づいて、彼らユダヤ人と論じ合いましたとあります。
旧約聖書は、パウロにとって、最高の権威でした。パウロは、イエス様によって捉えられたものとして、人間が聖書についてどう思うかではなく、反対に、聖書は人間について何と言っているかということが、非常に大切であることを強調しました。
聖書が、絶対的な権威を持っていると信じない者は、聖書について話す権利を持っていません。そして、パウロは、福音の中心となるいちばん大切なことを、すなわち、イエス様が苦難を受け、死人の中からよみがった事実を説明しました。
その時パウロは、自分が復活したイエス様を見、かつ、主イエス様の御声を聞いたことを、つぶさに話して聞かせたのです。そして、イエス様の復活は、イエス様が約束された救い主、メシアであり、油注がれた者であることを証明した事実に他ならないことも論証したのです。
けど、社会問題や政治の問題に立ち入ることはせず、ただ、十字架につけられ、復活されたイエス様だけを語ったのです。また、イエス様こそ、聖書で約束され、イスラエルの民が長い間、待っていたメシアであり、すべての主であることを述べ伝えたのであります。したがって、福音の中心というものは、決して、道徳の教義ではなく、イエス様がなされた御業と、それが今日、持っている意義に他ならないのです。
次に、この福音は、テサロニケにおいて、いかなる影響を及ぼしたのでしょうか。使徒行伝17章4節を見ると、その中には、信心深いギリシャ人が多数あり、信者になった、貴婦人たちも少なくなかったことがわかります。
また、単に、ユダヤ人のみならず、異邦人もイエス様を信じたのであります。けど、5節を見ると、そのために迫害、暴動が起こったこともわかります。
【参考】使徒行伝
17:4 彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。
17:5 ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。
したがって、福音は、二重の、あるいは、二面的な効果を持った影響を及ぼしたということができます。すなわち、一方において、イエス様を信じ、受け入れた者があり、他方において、それを拒み、迫害や暴動を起こす結果を招いたのです。
すなわち、一方においては、主のみ言葉を聞いて、それを信じ、全く新しいものに作り変えられることが、起こるわけです。その時までは、主に対してメクラであった罪人が、御言葉を信じ、イエス様を受け入れることによって、イエス様に従う新たな決意を、持つように導かれたのです。
私たちもこの大いなる主の力に、徹頭徹尾より頼み、信頼しようではありませんか。そうする者は、大いなる主の奇蹟を体験することができます。テサロニケにおいては、このようにして、イエスを信じたユダヤ人も、ギリシャ人も、イエス様にあって一つのものとなりました。
けど、ユダヤ人が異邦人と一緒になるなどということは、以前にはとても考えられなかったことだったのです。イエス様によって、統一と、ひとつの信ずる者の群れが生まれたのです。
福音は、ユダヤ人をはじめ、そして、ギリシャ人にも、全て信ずる者に、救いを得させる神の力であると、パウロは、書いたのです。したがって、福音は決して、一つの教えではありません。救いに至る、救いを得させる神の力そのものです。
この力を、ユダヤ人も、ギリシャ人も、すべて信じる者は、共通に体験することができるのです。かつては、憎み合い、軽蔑し合っていたユダヤ人と異邦人が、主イエス様を信じて、今はお互いに一つになり、交わりを持つことができるようになったのです。
けど福音は、全ての人に対する神の力ではなく、イエス様を信ずる者にとってのみ、神の力となります。福音は、ユダヤ人の死んだ信仰を取り除き、異邦人のむなしい試みから解放したのです。
主イエス様のみが、イエス様を信ずるユダヤ人と異邦人の目標と中心となりました。組織と結びつくのではなく、聖霊によって一つになることが事実になり、実現されました。イエス様のいのちが、彼らの中に生き生きと脈打っておりましたが、故に一つの生き生きとした、御体なる教会になることができたのです。
けども、イエス様が啓示されるところでは、どこでも、必ず、悪魔の攻撃が試みられるものです。悪魔の働きと攻撃を感じなければ、我々の信仰は、主の前に全く役に立たないものであると言えるのではないでしょうか。
そこで次に、迫害の原因はいったい何だったのでしょうか。使徒行伝の17章6節、『世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも入り込んでいます。』これこそ、パウロの反対する告訴の一つの点でした。
【参考】使徒行伝
17:6 しかし、見つからないので、ヤソンと兄弟たちの幾人かを、町の役人たちのところへひっぱって行き、大声でこう言った。「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。」
福音の述べ伝えられているところでは、人の心が動かされるものです。罪の赦しを提供した者は、正しい望みを持つことができるようになったのです。イエス様を知っている者は、かつて、人生の虚しさを感じていた状態から解放され、はっきりとした一つの目的を持つことができるようにされているのです。
福音によって、一つの革命が引き起こされました。そして、この革命は、永遠の滅びから救われるために、どうしても必要なものなのです。
この使徒行伝17章、告訴の第二の点は、パウロたちが、イエスという別の王がいるなどと言っていることでありました。しかしながら、この点こそ福音の中心なのです。すなわち、本当の王は、ローマの皇帝ではなく、イエス様であるというこのことこそ、まさに福音の中心をなすものです。
イエス様は、天においても、地においても、全ての権威が私に与えられていると言うことができたのです。イエス様は、今日でも、全宇宙を支配しておられるお方です。
テサロニケにおいては、信者も未信者も、友も敵も、すべての人が、イエスが王であることを知るようになりました。そして、この証しの事実こそ、テサロニケに起こる小さな集会の存在にかかっていたのです。
異邦人の地において、主なる神と敵対している者が、大勢いる真ん中に、イエス様を愛し、忠実に従う信じる者が建てられ、そこからいのちと光とが出ていたのであります。
今日も、私たちの周囲は、その当時、テサロニケにおいて見られたのと同じような状態であると言えるのではないでしょうか。けども、今日も、主の御言葉が人の心を新しく作り変え、悪魔の奴隷から解放して、神の子供にしてくださる力を持っています。
神の言葉は、事実、神の力である。奇蹟を行う力、そのものです。私たちはこの主の御言葉に対して、自分の心を開けば、大いに祝福されます。
我々が心の平安と真の安らぎを、本当の喜びを持つことができるか。それとも、望みなく、永遠の滅びに沈んでいくかということは、我々自身の心の態度にかかっているのです。
ただ、イエス様だけが王であり、イエス様以外に王はいないと、確信をもって、また、喜びをもって、言うことができるものは、本当に幸いと思います。
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