2026年8月21日金曜日

光に照らされること

光に照らされること
2016年1月21日、秦野家庭集会
ゴットホルド・ベック

使徒行伝
26:1 すると、アグリッパがパウロに、「あなたは、自分の言い分を申し述べてよろしい。」と言った。そこでパウロは、手を差し伸べて弁明し始めた。
26:2 「アグリッパ王。私がユダヤ人に訴えられているすべてのことについて、きょう、あなたの前で弁明できることを、幸いに存じます。
26:3 特に、あなたがユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるからです。どうか、私の申し上げることを、忍耐をもってお聞きくださるよう、お願いいたします。
26:4 では申し述べますが、私が最初から私の国民の中で、またエルサレムにおいて過ごした若い時からの生活ぶりは、すべてのユダヤ人の知っているところです。
26:5 彼らは以前から私を知っていますので、証言するつもりならできることですが、私は、私たちの宗教の最も厳格な派に従って、パリサイ人として生活してまいりました。
26:6 そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。
26:7 私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。
26:8 神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。
26:9 以前は、私自身も、ナザレ人イエスの名に強硬に敵対すべきだと考えていました。
26:10 そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限を授けられた私は、多くの聖徒たちを牢に入れ、彼らが殺されるときには、それに賛成の票を投じました。
26:11 また、すべての会堂で、しばしば彼らを罰しては、強いて御名をけがすことばを言わせようとし、彼らに対する激しい怒りに燃えて、ついには国外の町々にまで彼らを追跡して行きました。
26:12 このようにして、私は祭司長たちから権限と委任を受けて、ダマスコへ出かけて行きますと、
26:13 その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
26:15 私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現われたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現われて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』
26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、
26:20 ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。

光に照らされる必要性、可能性、また、素晴らしさについて、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。

今、読んでもらいました箇所はパウロの告白です。彼も光に照らされることによって、全く違う人間になってしまったのです。13節を見ても分かりますね。

26:13 その途中、正午ごろ、王よ、私は天からの光を見ました。それは太陽よりも明るく輝いて、私と同行者たちとの回りを照らしたのです。
26:14 私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。』
26:15 私が『主よ。あなたはどなたですか。』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』

この一文章によって、彼はどういうショックを受けたのか、もう言葉に言い合わせないほどのものです。『わたしはあなたが迫害しているイエスです。』イエスは、だって、十字架につけられて殺されたじゃないの。殺されたのは本当によかった。もう大嘘つきだった。詐欺師だった。けど、このイエスはまだ生きておられるとは、もう考えられない。けども、光に照らされて、天からの声を聞いて、彼は変わりました。

『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。』もし、わたしは、天と地を創造した造り主です。わたしは、すべてを背後で支配している主です・・・・と言われたら、パウロはすぐ、『ああそうか、そう思ったよ』と言ったに違いない。

けど、わたしはあなたを迫害しているイエスだと聞いた時、もう結局、世界一の馬鹿とは私だと、彼は認めざるを得なかったのです。どうしてそんなに、メクラにされてしまったのか。考えられなかった。

何ですか?イエスというものは生きているの?十字架の上でで死んでしまったじゃないの?このイエスの思い出を殺すために、私はイエスを信じる者たちを迫害しているのではないの?イエスはまた生きているのか?

彼は光に照らされた瞬間、イエス様によって捕らえられたものになってしまったのです。イエス様によって閉じ込められ、監禁されてしまったのです。考え方、感じ方が全部、いっぺんに変わりました。

光に照らされたことによって、彼は自分自身の本当の心の立場、自分の状態を見ただけではなくて、イエス様の価値、イエス様の偉大さをいっぺんに分かったのです。その結果はどういうものだったでしょう?彼は後でいろいろな手紙を書くようになったのです。我々の宝物です。

例えば、ガラテア書から、そして、ピリピ書から一箇所ずつ読んでみましょうか。ガラテア書1章の12節、一文章だけですけど、非常に考えられないほど大切な言葉です。彼はどうして変わったか、変えられたかと説明しています。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

結局、上からの光によって照らされて、確信するようになりました。結局、人間が何を言っているか、何を述べ伝えているか、思っているかは、別にどうでもいい。イエス様の啓示によって変えられることこそが大切です。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

光に照らされたパウロの証しとはそういうものです。そして、イエス様によって捉えられたパウロの使命とは、いったい何だったでしょうか?使徒行伝の中で、彼は次のように告白したのであります。

使徒行伝
26:17 わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
26:18 それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。

このパウロこそが、光に照らされることによって、他の人々にも同じことを経験してもらいたいと、切に臨むようになったのです。イエス様の弟子の一人であるヨハネは書いたのです。

第一ヨハネ
1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

イエス様は、ご自身を光の父と呼んでおられます。この主なる神は近づきがたい光に住んでおられます。悪魔の罪の結果は、荒廃と闇夜でした。神は世を光らせました。ですから、地は闇となったけど、神の言葉によって光ができたとありますね。よく知られている創世紀の一章を見ると、次のように書かれていますね。

創世紀
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

詩編の作者であるダビデは、また書いたんです。

詩編
33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

光のない世界はどんなでしょう?考えることができませんけど、喜びのない世界であることは確かです。光は主なる神から出るいのちの力です。光はいのちであり、闇は死です。

神が「光よ。あれ。」といわれた。すると光があった。我々にとって考えられない。けど、主にとって簡単なことです。主が命令すると、命令通りになります。人間も確かにいろいろなものを作ります。材料ががあれば。なければおしまい。みじめだよ。主には、材料は必要ない。命令すると、命令通りになります。パウロはまた、コリントにいる人々に、次のように書いたのです。

第二コリント
4:6 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

私たちはすでに、これを経験したのでしょうか?主なる神は我々の生活に、また、我々の暗き内にすでに語りかけたのでしょうか?光よあれ。

人間の生活にも回復の奇跡が行われます。それは、十字架への道です。もし、神の御霊である聖霊が、我々の心の奥底を照らすならば、その時、私たちの心の目は開け、どうしようもないものであることを悟り、イエス様なしには、もう終わり、永遠に滅びることを知るようになります。

いくら顔が汚く汚れていても、夜では見ることができないでしょう。そんな時、灯りがついたら、汚さに驚いてしまいます。上からの神の示しがない限り、光に照らされることがない限り、誰も自分の心の汚さを認めることはできません。我々の不幸な暗い心の内に、『光、あれ』という主の御声が聞かれる時に、私たちは結局、新しく造られます。もし主なる神が今日、我々の暗い心に『光あれ』と言われば、我々の心に光りが差し込みます。イエス様は、次のように言われました。すばらしい約束です。『わたしは世の光である。わたしに従ってくる者は、闇の内に歩まず、いのちの光を持つ』と、約束してくださったのです。

私たちは皆、すでにいのちの光を持っているでしょうか。もし主に従わなければ、その光を持つことはできません。従って必要なのは、選ぶことです。私たちは主の光を持っているのでしょうか。あるいは、自分の闇夜なのでしょうか。意味は、主の光として受け入れるか、拒むかのどちらかです。『光あれ、すると光があった』と、経験する人々は本当に、幸せです。

光に照らされるとはいったい何なのでしょうか?光に照らされることは、結局、新しく生まれ変わることを意味します。もう一箇所、読みます。ヨハネ伝3章の5節ですけども、よく引用されるみ言葉です。

ヨハネ
3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」

宗教を持つことは大切ではない。主の彼に光に照らされることが、もっとも大切なのです。当時のニコデモという聖書学者、ユダヤ人の指導者は、彼は夜中、ずっと、イエス様のところにいたんです。どうして、夜、行ったのか?昼間に行っても、個人的にイエス様と話すことはむり、まわりにいつも、いっぱいのお邪魔虫がいるから。夜中だったら大丈夫。彼は、成功しましたよ。

彼は、ユダヤ人の指導者であり、非常にいわゆる良い人、立派な男でした。イエス様でさえも彼に、あなたはイスラエルの教師であると言われたのです。彼も、他の宗教家たちと同じように、毎日、祈るために宮にのぼりました。また、彼は確かに、一週に二度、断食しており、全収入の十分の一を捧げました。けど彼は、神の国を見ることができなかった。なぜならば、彼はまだ、上からの光に照らされていなかったからです。

彼ははじめから、イエス様を先生として認めていたのです。けども彼は後で、光に照らされて、イエス様を信じたに違いない。ヨハネの福音書の中で、また書かれています。

ヨハネ
7:50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。
7:51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

結局、知らないうちにイエス様の側に立ったんです。それから同じく、ヨハネ伝19章を見ると、次のように書かれています。

ヨハネ
19:39 前に、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬とアロエを混ぜ合わせたものをおよそ三十キログラムばかり持って、やって来た。
19:40 そこで、彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、それを香料といっしょに亜麻布で巻いた。

このニコデモは、興味を持っていただけではなく、真理を求めた。イエス様との出会いによって、本物を得るようになったと言えます。光に照らされることは、結局、救いを経験することです。パウロはエペソによる兄弟姉妹に書いたのです。

エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

贈りものです。多くの人は働きによって、行いによって、救われると思い込んでしまっているのです。救いを働いて自分のものにしたい。けども、これはとんでもない間違いです。神の光に照らされた人には、救いは完全に贈りものです。すなわち、無料(ただ)なんです。本物は全部、ただじゃないかな。偽物を得るためには、勉強しなくちゃいけない。分からないとダメだから。分かるものじゃないのに。偽物を得るためには、やはり努力してがんばらなくちゃいけない。いい子にならなくちゃいけないから。

人間なんて死ぬまで、わがままなんです。偽物を得るためには、今、話したように努力しなくちゃいけない。がんばらなくちゃいけない。プラスアルファ、そこに金もかかる。あらゆる宗教は、どうして存在しているかと言いますと、金儲けのため。汚い!まことの神は、人間の金は欲しくない。いわゆる頭の知識も、別に要求されていない。

イエス様のなされた救いは、お金なしに、値段なしに、受け取ることができます。もし、私たちがイエス様のところに行くならば、そして、イエス様が十字架で完成された働きに任せるなら、そして、また私たちがこの瞬間に、イエス様に頼るなら、私たちは救われます。光に照らされることは、結局、イエス様を受け入れることです。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

ひとつの人格、すなわち、イエス様を受け入れることが大切です。だから、聖書ははっきり言っています。福音を信じ、イエス様のためにあなたの心の扉を開き、イエス様を心に入れてください。イエス様は入ることを待っています。入ることを心から願っておられます。聖書のいちばん最後の黙示録の中で、次のような言葉があります。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

食事をすることとはもちろん、一緒に食べることではない。親しい交わりを持つことを意味しているのです。イエス様は扉を叩いている。我々は扉を開けないままでいるのでしょうか。言うまでもなくイエス様は強制しません。鍵はまだ、内側に、すなわち、人間の側にあります・・・・ということを絶えず考えるべきではないでしょうか。

人間はその扉を開かなければならない。扉を開いた瞬間、イエス様は入ってこられます。『わたしは入りたい』とイエス様は言っておられます。どうでしょうか?イエス様を受け入れるでしょうか。この恵みの提供を受け取れないと、いつか必ず後悔します。遅くなるかもしれない。

光に照らされることこそが大切です。どうして?光に照らされることとは今、話したように、新しく生まれ変わることを意味しますし、それから、救いを自分のものにすることを意味しているからです。光に照らされることとは何でしょうか?もちろん、主に立ち返ることを意味します。テサロニケ第一の手紙の一章の9節を見ると、次のように書かれています。

第一テサロニケ
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり・・・・、

光に照らされた人は、生きる真の神を礼拝するようになります。本当の礼拝とは、他のもの全部が意味のないものであり、偶像礼拝であるということを意味しているのです。私たちはいったい、どうしてイエスはも信じるようになったでしょうか?分かったからですか?理解したからですか?勉強したからでしょうか?決してそうではない。前に読みましたガラテヤ書1章の12節に、パウロは証ししました。非常に大切な告白です。

ガラテヤ
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

上からの光によって照らされたから。

1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、・・・・

イエス様は比類なき救い主です。主なる神が、御子イエス様を、我々の内に啓示してくださることこそが問題です。これこそ我々の生活の根本であるべきです。使徒行伝の中に、またパウロの証しが載っています。

使徒行伝
14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」

光に照らされることこそが大切です。どうして?一番目の答えは、新しく生まれ変わることだから。二番目、救いを自分のものにすることであるから。そして、三番目、主に立ち返ることを意味するからです。

四番目、光に照らされることとは、どうしてそのに大切か?悔い改めることを意味するからです。有名なルカ伝15章、いわゆる放蕩息子の話も出てくるんですけども、ルカ伝15章の7節を読みます。

ルカ
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

悔い改めることとは、悔い改めとは、自分の過ち、自分のわがままを認め、告白し、憎み、抑制することです。自分の罪を認めることは、主なる神から与えられる大きな賜物です。すばらしい贈りものです。そして、誠実な告白をするということは、もっともっと大きな贈りものなのではないでしょうか。けども、その罪人が自分の罪を憎み、捨てるならば、そして、元通りに抑制するならば、それは主なる神の目的を達したことになります。

悔い改めることとは何でしょうか?悔い改めることは、180度、転換することです。光に照らされた人は、罪を犯したくないと思っています。もちろん、日々、罪の試みと力を感じます。そして自分の弱さも知っている。光に照らされた人は、自分の力で自分を救うことはできない。絶対に、できないと悟った人です。また、光に照らされた人は、自分で自分を救う努力が全く意味のない無駄なことであることを教えられています。

光に照らされることこそが大切です。どうして?今、話したように、新しく生まれ変わることを意味しているから。救いを自分のものとするから。主に立ち帰ることであるから。そして、悔い改めることを、意味しているからです。

もう一つの答えは、赦しが提供されていることを意味しているからです。パウロはエペソによる人々に書いたのです。

エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

ローマ
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

私たちは、イエス様の働きによって、イエス様の血によって義とされます。ですから、私たちはイエス様の働きによってのみ、義とされるのであり、我々自身の行いや手柄によっては、義とされません。我々の義とされる根拠はただ一つです。それは何でしょう?イエス様のしみのない義、すなわち、汚れたところのない正しさ、私たちが当然、受けるべき刑罰をイエス様が支払ってくださったこと、ここに、私たちが義とされるただ一つの根拠があります。

私たちは免れがたいただ一つの選択を迫られています。私たちは、自分の罪を欲しいのか、それとも、十字架にかかったイエス様を欲しいのか。私たちは、罪過の赦しを受けたと言えますか?その咎が赦され、罪が消されるものは、幸いであると三千年前にダビデという王様は告白したのであります。

私たちは、自分がまだ、救われていないことを知っているかもしれない。そして、私たちは、それ(救いの受け入れ)を先延ばしにしている。しかし主なる神には、「後でもっと適当な時」などというものはありません。主は言われます。『見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日です』と。

光に照らさることは、今、話したように新しく生まれ変わることであり、救いを自分のものとすることであり、また、主に立ち帰ることを意味します。また、悔い改めることも意味するし、赦しが提供されることも意味します。

結局、決定せざるを得ない。有名な山上の垂訓――マタイ伝5章、6章、7章が山上の垂訓であります――その最後の7章、マタイ伝、7章の13節を読むと次のように書き記されています。

マタイ
7:13 狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
7:14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

イエス様は結局、たとえをもって、救いの道を教えてますね。すなわち、この世には二つの門がある。ひとつの門は広く、ひとつ門は狭い。また、この世にはふたつの群れがある。ひとつの群れにはたくさんの人がおり、もうひとつの群れには少しの人しかいない。また、この世にはふたつの目標がある。ひとつは永遠の滅びであり、もうひとつは永遠のいのちである。このようにイエス様は全世界の人々をふたつに分けたのです。

イエス様は我々の心の深みまでご存知です。イエス様が我々を見られるのと同じ目をもって、私たちも自分自身を見ることができたら幸いです。

もうひとつ、光に照らされることとは何でしょうか?イエス様のところに行くことです。イエス様を知る道はもちろん、イエス様に来ることです。イエス様に話すことです。イエス様は必ず答えてくださる。『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのです』と、イエス様は約束しました。

ヨハネ
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

決して捨てないとは、永久的に受け入れるということです。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

とイエス様は言われたのです。光に照らされるとき、結局、大切なのはただイエス様に頼ることです。聖書の中でいちばんよく知られている箇所は、言うまでもなくヨハネ伝3章の16節でしょう。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

信仰とは、望みを持って、揺るぐことなく、恵みの神を信頼することです。信仰とは、さし出されている主イエス様の手を掴むことです。

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