2025年7月6日日曜日

自分を誇る人間と神を誇る人間

自分を誇る人間と神を誇る人間
2025年7月6日、町田福音集会
重田定義

詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

今日は今、読んでいただいたこの詩篇の御言葉から、人間には自分を誇る人間と、神を誇る人間の二通りの人間があるということにつきまして、ご一緒に考えたいと思います。

まず、自分を誇る人間というのはどういう人間でしょうか。

今、読んでいただいた御言葉にある『いくさ車』というのは、当時、いくさのために使われていた二頭の馬に引かれた二輪馬車のことを言います。そのいくさ車を誇るというのは、戦いに強い強力ないくさ車を持っていると自分を誇るということです。また、馬を誇るというのは、戦いに強い俊足な強靭な馬を持っていると、自分を誇るということであります。

このように、昔は、強力ないくさ車を持つことや、優れた馬を持つことは、自分の力を誇示するものであって、多くのいくさ車や優れた馬を持っている人間ほど、強力な支配者としての地位を保つことができたのであります。

これは、現代でも同じです。昔のいくさ車や馬は、現代では、強い権力、高い地位や身分、立派な経歴、豊かな財産などに置き換えられるでありましょう。そして、現代の人間は、これらを持っていることによって、自分を誇っているのではないでしょうか。

けれども、人間が誇りとするこれらのものは、いったい私たちにどんな保障を与えてくれるのでありましょうか。

イザヤ
31:1 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。

31:3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。

これは、イスラエルが、強国のアッシリアに攻められて、エジプトに助けを求めた時のことであります。イスラエルがエジプトに助けを求めた理由は、エジプトが、多数の戦車と強力な騎兵隊を持っている強国であったからであります。

けれども、本当にイスラエルを助けることができるのは、イスラエルをご自分の民として選ばれた主なる神様なのであり、神様は、これまで何度となく、イスラエルの危機を救ってくださいました。しかし、イスラエルは、そのことをすっかり忘れて、多数の戦車や強力な騎兵隊を持つエジプトに頼ってしまったのです。そして、神様は、エジプトに頼っても無駄だと、自分が手を伸ばせば、助けるエジプトも、助けられようとしているあなたがたイスラエルも、ともに滅び果ててしまうからだと言っておられるのであります。

次に、冒頭の御言葉にあります『私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう』ということを、考えてみたいと思います。

私たちの神様とは、聖書の神、すなわち、天地万物の造り主であり、支配者である永遠に生きる偉大な神様であります。その神様を誇る人間とは、どういう人間でありましょうか。また、神を誇る人間となるためには、いったいどうしたら良いのでありましょうか。

エレミア
9:23 主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。
9:24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」・・・・

主なる神様は、誇る者は、自分の知恵や強さを誇るのではなくて、ただ悟りを得て、ご自分を、すなわち、神様を知っていることを誇れとおっしゃっているのであります。

ここで大切なことは、神様を誇るには、ただ神様を知識として知るのではなくて、悟りを得て知ることなのであります。では、悟りを得て知るとは、いったいどういうことなのでありましょうか。その例を、ピリピ人への手紙の3章のパウロの証しから見てみたいと思います。パウロはこう証しております。

ピリピ
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。・・・・

このように証しをしております。パウロは混じり気のない生粋のユダヤ人であり、中でも、ベニヤミン族というイスラエル民族の中でも誇り高い部族であり、律法、すなわち、神様からイスラエルの民に与えられた命令、掟を忠実に守ろうとするパリサイ派というグループに属しておりました。

それゆえ、イエス様を救い主と信じる人たちを、律法に反する敵として迫害することは正しいと信じて、それを実行しておりました。しかし、これらの誇るべきパウロの血統や経歴も、彼が復活のイエス様に出会って、霊が開かれ、自我が粉々に砕かれて、パウロの言葉をそのまま引用すれば、『私の主であるキリスト・イエスを知ったことのすばらしさのゆえに、私にとって得であったこれらのものを、すべて損と』思うようになりましたと、告白するまでに、変えられたのであります。

そして、パウロは、それまで律法の敵と思い込んでいたイエス様を、『私の主、私のキリスト・イエス』とお呼びするように一変しました。これが、悟りを得て、主を知るということであります。

悟りを得て、イエス様を主と信じたパウロは、エペソ人の手紙の2章でエペソの信者や教会の信者に対して、次のように言っております。

エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ない(・・・・これは良き行い・・・・)によるのではありません。だれも誇ることのないためです。

そのように救いというのは、神様の恵みによる賜物なのであって、自分の行いが良かったから救われたと自分を誇ることのないようにと、信者を戒めております。

そして、さらに、ガラテアの教会の信者に送った手紙の6章の14節では、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外、すなわち、私たち人間の神様に対する背きの罪を身代わりに負って十字架にかかってくださった主イエス様以外に、誇りとするものは決してあってはなりませんと、言い切りました。

【参考】ガラテア
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。

パウロのように私たちは、イエス様だけを誇りとするということができるでしょうか。また、そのように言い切るにはいったい、何が必要なのでありましょうか。

ここで、私自身がどのようにして、イエス様を誇るようになったかを証しをさせていただきます。

私は、子供の頃は日曜学校に通い、医学生になってからは、教会に集い、洗礼――これは、滴礼による洗礼でしたけれども――洗礼も受けました。しかし、ある問題で、牧師を批判して教会を離れてからは、教会制度に反対し、無教会主義を掲げた内村鑑三や矢内原忠雄、塚本虎二などの書いた著書を書いた読んで満足する、そのような自己中心的な信仰にとどまっておりました。

けれども、そのような私にも誇りが与えられたのであります。

私たち夫婦が結婚してから十年目に、一人の娘が与えられました。私たちは喜んで、真理という名前をつけました。真理は幼い頃からたいへん賢く、また、素直で心の優しい子として、周囲から愛されておりました。そして、私はそのような娘を自分の誇りとするようになったのであります。

私は、娘に大きな期待を持ち、娘のためと自分勝手に考えて、娘と相談もしないで、自分の立てた計画を娘に押し付けました。娘が、黙って私の計画に従っておりましたので、私は何の問題もないと思っておりました。しかし、それは大きな思い違いでありました。娘は、懸命に私の言うことを守ろうとしていたのであります。私は、そのことに気がつかずに、娘に重圧をかけ続けていたのです。

娘は、私の勧めた大学に入学し、寮生活を始めましたけれども、間もなく重症の鬱病にかかってしまいました。あの元気な子が・・・・と、私は驚き、すぐに大学の精神科に治療をお願いし、また、親子ともに吉祥寺キリスト集会に導かれ、信仰生活を始めました。

娘は、熱心に聖書を読み――これは今、娘の聖書を開けてみますと、赤い線がいたる所に引いてあって、どんなに一生懸命に聖書を読んでいたかが分かります――そのように聖書を読み、ベック兄を始め、集会の兄弟姉妹に愛され、交わりを楽しんでいるようでありました。娘の病は解放に向かったように見え、私はほっと安心しました。しかし、娘の苦しみは、続いていたのであります。

娘の苦しみを見ておられた主は、愚かな私に娘を任せておくことはできないと、突然、高松のベック兄の知人の宣教師の下でリハビリをしていた娘を、みもとに引き上げられました。私の唯一の誇りは、こうして取り去られました。

私は、悲しみのどん底に沈みました。私は、主からお預かりした娘を育てることができなかったばかりか、その命すら守ってやれなかったという大きな罪を犯してしまったのです。

私の自我は、粉々に砕かれました。娘のために生きるという希望を失った私は、呆然自失の日々を過ごしていました。頭が冴えて、夜も眠れませんでした。これまで娘と過ごした思い出が走馬灯のように現れては消えていきました。主はそのような私を憐れみ、なおも愛してくださいました。

そして、お前の罪は、わたしの命によって贖った。これからは、わたしのために生きなさい、わたしに従って生きなさいと、声をかけてくださいました。なんという温かい御声だったでありましょう。私は霊が開かれて、こんな愚かな私をもお見捨てにならずに、尊いいのちによって贖ってくださってまでして愛してくださる主こそ、主イエス様こそ、自分の誇るべき唯一のお方であると示され、イエス様を誇る者へと変えられました。

そして、これからは、古い自分は死んで、新しく生まれた者として、すべて、イエス様にお委ねして生きていくことだけが、イエス様の愛に報いる道であると決心して、今日に至った次第であります。

旧約聖書のダビデをはじめとする預言者たちや、新約聖書のパウロや弟子たちもまた、様々な試練や患難に遭い、自我が砕かれ、霊が開かれて、イエス様がそのような時も自分を守ってくださったことを知って、イエス様の御名を誇る者へと、変えられたのだと思います。

私たち信者は、信仰の歩みを続ける中で、様々な試練や  患難が生じます。それは、私たちの肉にとっては、辛く苦しいものです。しかし、そのような試練、患難は、私たちが主を信じてはいても、まだ、自分の中に残っている自我を砕き、それまでは、自分の思いを中心に生きてきた私たちを、主のために生きるように導いてくださる主の愛のむちなのであります。

しかも、主は、私たちが耐えられないような試練、患難は、お与えになりません。こうして私たちは、主に導かれ、自我砕かれて、自分の誇りを捨て、主の御名のみを誇る者へと変えられていくのであります。

最後に、詩篇の五章の十一節をお読みいたします。

詩篇
5:11 こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

ありがとうございました。

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