2020年9月27日日曜日

恵みと報酬

恵みと報酬
2020年9月27日、御代田福音集会
古田 公人

マタイ
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
20:2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。
20:3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。
20:4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』
20:5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』
20:8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。
20:10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。
20:11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』
20:13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』

ぶどう園の主人は、労務者を一日一デナリで雇いました。夕方になって、主人は、賃金を支払いましたけど、労務者たちの中に、朝早くから働いた者の他に、九時ごろ、十二時ごろ、三時ごろ、そして、なんと夕方五時頃から働いた人たちもいましたけれども、支払われた賃金は、同じ一デナリでした。そのことを知って、朝早くから働いた人たちは、僕たちは一日中、労苦と焼けるような暑さの中で辛抱して働いたのに、同じ賃金では納得できないと、文句を言っています。彼らは、賃金は働きに応じて支払われるべきだと考えました。しかし、主人は、『私はあなたは一デナリの約束をした、私は他の人にも同じだけあげたい』と答えています。

イエス様は、このたとえ話によって、恵みと報酬の違いをお語りになったのではないでしょうか。

労務者は、賃金を労働に対して支払われる報酬だと考えました。この世では、当然の考えだと思います。でも、この労務者にとって、そもそも働く機会を得たことは、当然ではなく、恵みでした。そして、労務者は仕事を始めると、誰よりも先に仕事が与えられたときの喜びを忘れてしまいました。仕事がないときのことを忘れ、仕事ができるということが、どれほど幸せであるかも忘れました。また、仕事のないままに、生活の不安を抱えて、一日を過ごす人たちの心を思いはかることもできませんでした。彼らは、恵みを受けて働くようになったのですけど、仕事を始めると、それが恵みであることを忘れ、辛い労働だと思ってしまったのです。ですから、そこには感謝もなく、喜びもなく、ただ不平と不満しかありませんでした。

主イエス様が、私たちに与えてくださるものは、全て恵みです。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

恵みということを、そのまま受け取ることのできない人は、修行や勉強によって、あるいは、良い人だから救われると考えます。それに対して、生まれながらに、神を神とも思わず、人を人とも思わず、わがままで、人にさえ嫌われるものを、神様が義と認めてくださるというようなことはあり得ないと考えてしまいます。

今でも、聖書を勉強したり、研究することによって救われると考える人は、たくさんいらっしゃるのではないかと思います。でも、聖書もはっきりと、恵みによって救われると記しています。

エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

主人に誘われて働いた人は、朝から働いた人も、一時間しか働かなかった人も、同じものを受け取りました。恵みだったからです。良い人も、悪い人も、同じものを受けます。一方、最初から働く意思のない人、主人に誘われてもぶどう園へは行かなかった人、あるいは、ぶどう園の主人を信頼しなかった人は、恵みを受けることはできませんでした。彼らは、良い人であったかもしれないし、悪い人であったかもしれないのですけど、恵みを拒んだという点では、同じでした。恵みは、いただかなければ預かることができません。

私たちに信仰があるから、あるいは、親が信者だから、聖書を勉強したから救われるということはありません。恵みのゆえに、信仰によって救われるとありますけれども、それは、恵みは信仰の報酬であるということを言っているのとは違うんです。信仰は、恵みを受け取るための器のようなものだということを、この御言葉は言っています。器でありさえすれば、素材も形も、どんなものでもいいというのが、恵みであります。

ローマ
3:28 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

11:6 もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。

ぶどう園のたとえが示していますように、人は恵みをそのまま、恵みとして受け取ることが難しいということが言えます。恵みを受けていても、それが恵みだとは分からず、あたかも、自分の信仰に対する報酬であるかのように考えてしまいがちなんです。その一つの例が、典型的な例ですけど、初代教会の時代のエルサレム教会の兄弟たちでした。

使徒の働き
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。

そういうふうに記されています。ヤコブのところから来たエルサレム教会の兄弟たちは、恵みによって救われたとは考えませんでした。自分たちは、ユダヤ人だから救われた、約束の民だから救われた。だから、異邦人もユダヤ人にならなければ、救われることはないと考えたんです。救いは、ユダヤ人に対する報酬だと受け止めてしまいました。

異邦人は、救われるための条件を満たしていない。そのままでは、救いの恵みは、彼らには及ばないと考えました。ぶどう園で朝早くから働いた労務者と同じことを、彼らは考えたんです。結局、恵みとは何かということは、恵みの真っただ中にいても、人は、なかなかそれを受け取ることができないということを明らかにしています。

もう一つのたとえ話を見てみたいと思います。

マタイ
18:23 このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
18:25 しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。
18:26 それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。』と言った。
18:27 しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
18:28 ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。
18:29 彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。
18:30 しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
18:32 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』
18:34 こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。

王のしもべは、一万タラントの借金がありました。王様は彼に、自分も妻子も持ち物も全部も売って、奴隷となって返済するようにと命じたんですけど、彼がひれ伏して猶予を求めると、王様はかわいそうに思って、借金の返済を免除してやりました。一万タラントというのは、デナリで言えば六千万デナリとなります。その金額は、想像もできないほど大きなものです。言うまでもなく、私たちの罪の大きさを表しています。

しもべは、真剣に求めましたから、借金の返済を免除してもらいました。それは、王のあわれみ以外の何ものでもありませんでした。でもこのしもべは、同じしもべ仲間に百デナリを貸していました。百デナリと言っても、実は大金なんです。現在のお金にすると、少なくとも、三十万から百万くらいになる金額であります。そして、彼は、金を返すことができない仲間のしもべを、牢に入れてしまいました。一万タラント免除してもらった男は、しかし、免除してもらったからといって、お金があるわけではなかったのだと思います。だから、どうしても、百デナリを返してもらいたい。そうでなければ、明日から生活ができないというくらいに思ったのではないかと思います。

でも、これは、人間が誰でも考えることではないでしょうか。そして、同時に、このしもべは、莫大な借金が返済されたとき、ではなぜ、王は自分の願いを聞き入れて、借金を免除してくれたのかと、きっとその理由を考えたに違いないと思います。理由もなしに、一万タラントもの借金を、王様は免除してくれるはずがない。いったい、これは何なんだろう?そうすると、自分が真剣に願ったからか、あるいは、自分の日頃の働きが評価されて、王はその報酬として、報いとして、免除してくれたのではないだろうか・・・・などという考えに至ったのではないかと思います。いずれにしろ、免除された根拠は自分にあると考えてしまったのであります。

しもべは、借金が免除されたことを、恵みとして受け止めることができませんでした。そもそも、このしもべは、恵みということを、頭では知っていたかもしれませんけど、生活の中で、体験していなかったということが、言えるのではないかと思います。しかし、王がしもべを免除したのは、哀れみであり、恵みでした。しもべの行為を見た王の心から哀れみが消えたとき、王はこのしもべを牢に入れています。

イエス様はこのたとえ話を通して、恵みを恵みとして受け取るものだけが、救いにあずかることができる。ふさわしい感謝と、主への賛美を捧げることができる。このことなしには、結局、新しいいのちにある歩みができることはないということを、お語りになったのではなかったのでしょうか。恵みは恵みなんです。しかし、人間は、恵みをすぐに報いに変えてしまいます。

かつてある人は、私は親が信者だったから、子供のころからイエス様を知っていたと言いました。また、別の人は、自分はかつて教会で、牧師と二人三脚で働いていたと言ったんです。また、別の人は――この人は、集会の人ではありませんけど――、日本人は勉強が好きだから、福音を伝えるには、勉強を勧めるかたちが適していると書いています。

今、言ったような言葉は、でも、別に、おかしな言葉ではないかもしれません。誰でも口にしやすい言葉であるかもしれません、少なくとも、この世では全く問題のない言葉です。しかし、大切なことは、子供の時からどうだったのか、牧師とどうだったのかではなくて、今、イエス様との交わりの中に歩んでいるかどうかであります。イエス様との交わりの中にいるなら、子供の頃からどうであったかとか、牧師とどうであったかとか、勉強をすることによってどうであるとか、そういうことは、それほど大切なことではなくて、もっと大切なことがあると、小さくならざるを得ないのではないかと思います。

ピリピ人への手紙に、パウロは自分の心をこう表しました。

ピリピ
3:5 ・・・・きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし(・・・・ここからなんです。大切なことは、今、言ったようなことではない。大切なことは・・・・)、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。・・・・

こういうふうにパウロは語っています。イエス様は、あなたは今、持っているものを皆、十字架につけて、わたしに従ってきなさいと仰せになりました。

最初の一日だけ、十字架に付けて・・・・と仰ったのではない。当然ですけど、毎日、十字架に付けて、毎日、わたしに従ってきなさいと、仰せになったのではなかったのでしょうか。前に向かって歩むには、前に向かって歩む歩みには、恵みしかありません。報いという考え方は、むしろ、妨げになります。

主が用いてくださる信仰生活、喜びのある信仰生活が、恵みを恵みとして受け取ることなしにはあり得ない。そして、それは砕かれることなしには、決して、あり得ないということを、深く心に留めたいと思います。

最後に、第一テサロニケ人への手紙からお読みして、終わりたいと思います。

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

言い換えるなら、いつでも、どこでも、何事にも、恵みを見出しなさいというすすめではないかと思います。私たちもそのようでありたいと思います。

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