2020年11月21日土曜日

しばらくするとわたしを見る

しばらくするとわたしを見る
2020年11月22日、秋田福音集会
岡本 雅文

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。

今、読んでいただいた御言葉は、先週、吉祥寺の集いで、最後にお読みした箇所のすぐ後に続く御言葉であります。イエス様が、十一人の弟子たちと共に最後の晩餐を終えて、弟子たちのために、父なる神に祈ってくださった、最後の祈りです。その祈りの最後の最後の数カ所であります。

ヨハネの17章は、全て祈りなんですね。最初から最後まで、26節にわたって、祈りが続いています。そして、イエス様はこのように祈られた後に、次の18章の一節に書かれているように、弟子たちとともに、ゲッセマネの園に出て行かれました。

ヨハネ
18:1 イエスはこれらのことを話し終えられると(・・・・最後の晩餐ですね。最後の晩餐での話が終わると・・・・)、弟子たちとともに、ケデロンの川筋の向こう側に出て行かれた。そこに園があって(・・・・ゲッセマネの園があって・・・・)、イエスは弟子たちといっしょに、そこにはいられた。

こうして、この園でイエス様は捕らえられ、十字架に向かって、まっしぐらに進んで行かれたのであります。ユダを除く十一人の弟子たちとともに祈ってくださった、最後の――先ほどのみ言葉、24節から26節――主の祈りは、本当に私たちの力になる祈りです。そして、この祈りの前に、この世に残される弟子たちに、イエス様は大切な遺言とも言われる御言葉を告げてくださいました。それらの御言葉は、二千年後の私たちにとっても、大切な大切なみ言葉であります。

ユダが、その最後の晩餐の場から出て行ったと書かれている、ヨハネの福音書の13章の31節から、16章の最後まで、33節までに、最後の晩餐の様子が、細かく記されています。最初の13章の31節、32節をお読みいたします。

ヨハネ
13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も、ご自身によって人の子に栄光をお与えになります。しかも、ただちにお与えになります。」

簡単な言葉が書かれている、短い箇所ですけれども、まったく人の言葉ではありません。『栄光』という言葉が、四回出てまいります。ユダが、裏切りを実行するために、彼らから離れて出て行った時、『栄光を受けた』と過去形で書かれています。神にとっては、目で確認できる前に、既に終わっているということを、聖書は何度も書き記しています。ここでも、そうなんですね。

ユダが出て行った時、もうイエス様は栄光を受けられた――決まった――ということですね。先ほども引用いたしましたけれども、19章の30節で、イエス様は、『完了した』と言われました。この十字架の上で行われた、あの出来事は、霊の中では、最後の晩餐でユダが出て行った時に、既に完了していたこと、すでに栄光を受けられていたということが分かります。

神様が考えておられる栄光とは、私たちの心のうちにあるストーリーとは、何と異なっているかということを、見ることができます。それは、現代の私たちの世界においても、同様でありましょう。

イエス様を信じる私たちに与えられる約束、喜び、平安、そして、栄光も、イエス様を信頼したる時、すでにかなえられているという神に対する確信のうちにあると、聖書を通して答えられます。それは、私たちが、この世で出会ったことのない、そういう種類の幸せであり、恵み、そのものではないでしょうか。また、聖書に記録されている、その後の弟子たちの歩みを見る時――それは、現代の私たちにも言えることですけれども――主なる神は、兄弟たち、また、姉妹たち、一人一人に、それぞれ異なった役割を与えられているというように思わされます。

聖書に出てくる――聖書が紹介している――兄弟たちは、一握りの兄弟たちですけれども、聖書に記されていない多くの兄弟、また、姉妹たちも一人一人、同じように、ペテロやヨハネやパウロたちと同じように、神にとって、同じ評価が与えられるだけの役割が与えられているということが分かります。

マタイの福音書の25章に書かれているひとつの例えが、それを表してるように思います。

マタイ
25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

しもべたちである十二弟子の主人、イエス様が旅立つ時のことでした。それは、最後の晩餐のあの席であったことではないかと思わされるんですね。その最後の晩餐に集った十二人の弟子たちに、能力に応じて、一タラント、二タラント、五タラントを分け与えてくださったのではないかと思わされます。能力に応じてとは、同じ新約聖書のローマ書の12章3節に書かれているように、信仰の量りに応じてということではないかと、思わされています。

ローマ
12:3 ・・・・だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

これが、タラントのたとえの意味のひとつではないかと思わされるのです。タラントは、私たちが普通に考える大きさ、能力の大きさという概念では、聖書は書かれていないのではないかと思わされます。今のローマ書、12章の3節の御言葉と重ね合わせて見ると、信仰の量りに応じた慎みの深さと考える方が御心に近いのではないかと思わされるんですね。私たちの考えや思いと全く反対の意味が、浮かび上がってまいります。

イエス様は、私たちの信仰の量りにふさわしい、あるいは、信仰の量りに相当する慎み深さの働きを期待して、主の財産を一タラント、二タラント、五タラントと一人一人にふさわしいように、ちょうどぴったりのそのような賜物の恵みを預けてくださってるのではないでしょうか。

主は、イエス様は、目に見える財産の大きさや、慎み深さの違いに関係なく、ただ一タラント分、与えられた人が、一タラント相当の慎み深さで働くなら、言い換えると、生きるなら、オーケーが出るのではないか。しかし、五タラント分け与えられた人が、五タラントに満たない慎み深さであったなら、アウトが宣告されるのではないかと、このみことばを何年も何年も読み続けていくうちに、次々と、新しい思いが与えられたのであります。

この最後の晩餐には、一タラントを土の中に隠して、思うべき限度を超えて思い上がっていたユダと、悩みながらも、まだ、躓きそうになりながらも、それぞれの信仰の量りに応じて与えられた二タラント、五タラントに相当する慎み深さで、イエス様の御言葉に耳を傾けようと願って、集っていた十一人の弟子たちが、共に主の旅立ちの現場に集ったのであります。

そして、ユダが去っていった後に、この地上に残されることになる十一人の弱い弟子たちに、イエス様は、彼らにこれから必要な励ましとめぐみの慰めと御言葉を伝えました。そして、最後に父なる神に、『父よ、時が来ました』と17章の1節から26節の長い祈りを弟子たちのために、主なる神に捧げてくださったのであります。

弟子たちは、イエス様が心を尽くして告げてくださった尊い遺言を、理解することはできませんでした。その御言葉の力を知るためには、約束された助け主が来るまで待たなければならなかったんですね。私たちも、この助け主がどうしても必要です。このイエス様の遺言に今日、ご一緒に耳を傾けてみたいと思います。

先ほども申し上げたヨハネの13章の31節から、16章の33節までの御言葉は、私たちが幾度も目にする箇所ですが、イエス様の十字架と復活から、二千年を経た今日においてさえも、この御言葉通り実現しているとは言えません。これらの遺言の中で、多くの方が知っておられる御言葉のひとつが、ヨハネ13章34、35節ではないかと思います。

ヨハネ
13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。・・・・

この『愛し合いなさい』を言い換えると、『ひとつになりなさい』ということでしょう。

ヨハネ
13:34 ・・・・わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

ひとつになりなさい

13:35 もしあなたがたの互いの間に愛があるなら(・・・・ひとつであるなら・・・・)、それによって(・・・・その愛によって、ひとつであるなら・・・・)、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。

この御言葉は、冒頭でふれた先週の吉祥寺の集いで引用した最後の御言葉、ヨハネ17章の22、23節と同じ御心を表しています。

ヨハネ
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました(・・・・弟子たちに与えました・・・・)。それは、わたしたちが一つであるように(・・・・ここでは、『愛しているように』ではなくて、『一つであるように』と言葉が変わっています。言い換えると、愛しているように・・・・)、彼らも一つであるためです。

彼らも愛するためである。

17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるため(・・・・すなわち、愛するため・・・・)です。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

この二箇所を読んでみると、非常に複雑な、何度も同じような言葉が繰り返されて、さっと読んだだけでは、頭に入りません。しかし、この御言葉を心に想い、胸におさめて、そして、あらゆる時に、この御言葉によって導かれるなら、ひとつひとつの御言葉が本当に大きな意味を持っているということを、私たちは知っています。ですから、多くの兄妹姉妹が引用されるのでありましょう。しかし、それでもなお、御言葉通りに実現しているとは言えません。

イエス様の願っておられる御心は、初めから終わりまで、一貫しています。言葉が変わったとしても、そこに流れる父の御心は、ひとつでありましょう。先ほども申し上げたように、愛し合うことと、ひとつになることは、同じ意味であることが、この二箇所から知られます。

これらのヨハネの御言葉は、よく読まれ、よく引用されている御言葉で、これほど多く引用される箇所も少ないと思われます。それなのになぜ、実現しないのでありましょうか?問題は、私たちが当時の、まだ、イエス様が去っていかれていない時、まだ、十字架についておられない、あの時の弟子たちのように、この御言葉にどのようにつながればよいかを、よく分からないことに大きな原因の一つがあるのではないか。

私たちが聖書を読む時に、甘い御言葉、耳ざわりの良い御言葉、そして、慰める御言葉が、心に響いてまいります。しかし、本当に聖書が私たちにとって大切なことは、どんな時にも、主イエス様、彼に信頼すること、そして、彼を通して、全ての導きを願い求めること、このようなことではないかと思うんですね。ひとつひとつの現象を通して、イエス様に近づくこと、そのために御言葉があるように思います。

今、何箇所か読んだ箇所は、さっと読んだだけでは、心にとどまりません。どのように御言葉につながればよいか。そのことを少し、考えてみたいと思います。

ヨハネの13章の31節から、16章の33節までのイエス様の遺言をよく見てみると、大切な二つのことが、弟子たちに繰り返し、告げられています。その二つのことを、彼らは最後の晩餐の時、主が生きておられる時には、まだ、理解することができませんでした。

そのひとつは、父とわたし、御子イエスは、ひとつであるということを、本当の意味で信じることができませんでした。イエス様は、何度も何度も、『父とわたしは一つである』と言われました。この御言葉をどのように受け取ればいいのか、わからなかったのではないでしょうか。

14章の7節では、こうイエス様は言われました。『もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです』と言われています。少しあとの10節では、『わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか』と、ピリポに言われました。

【参考】ヨハネ
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

この時のピリポは、弟子たちの代表として、十一人を代表して、質問したのでありましょう。彼らは、父なる神と御子イエス様がひとつであること、イエス様を通してでなければ、父なる神を知ることができないという真理を、そのまま素直に受け入れることができませんでした。理解できない言葉だったからです。今でも、同様です。現代の問題も同じではないかと思います。私たちは、三位一体の神を、本当に信じているのでありましょうか。御子、イエス様は、地上を歩まれた神であると、素直に心から信じているのでありましょうか。人間的なこの世の常識から、『人になった神』という奥義を、様々に解釈するようになるのでありましょう。

ただ、私たちが、この群れで教えられてきたこと、ともに語り合ってきたことは、理解することができなくても、信じることができるということでありました。

もうひとつの問題は、助け主が来られるということの意味が、彼らには、分かりませんでした。イエス様は、次のように約束されました。

ヨハネ
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

そして、重要な御言葉を告げれました。少しあと、16章のです。

ヨハネ
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現わします(・・・・わたしとはイエス様です・・・・)。わたしのものを受けて(・・・・イエス様のものを受けて・・・・)、あなたがたに知らせるからです。
16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて(・・・・イエス様のものを受けて・・・・)、あなたがたに知らせると言ったのです。
16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。

この御言葉が、最後の晩餐の時、十一人――ユダを除いた十一人――の兄弟たちに語られました。このイエス様の御言葉の意味が、彼らには、やはりわかりませんでした。そして、互いに言い合い、そして、イエス様も、それに気が付かれたのですね。とくに、16節の、『しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。』これは、どういうことなのだろうかと、彼らは話し合いました。

しかし、この16節こそ、彼らが分からなかったこの御言葉こそ、私たちにとって、そして、彼らにとっても、希望の御言葉でありましょう。イエス様は、しばらくして、天に帰られたため、彼らには、イエス様が見えなくなりました。昇天されたからであります。そして、しばらくすると、『わたしを見る――イエス様を見る――』と、言われたように、しばらくして、復活の約五十日後、あの五旬節のペンテコステの日に、聖霊が、弟子たちに臨んだのであります。この事実から、聖書は、わたし、すなわち、イエス様と聖霊、すなわち、御霊を同一視していると思わざる得ません。同じ人格を持った一人の神の現れ方の違いだけであって、イエス様が、『しばらくすると、わたしを見る』と言った通りに、彼らはイエス様に、聖霊として来られたイエス様と出会いました、三位一体の御子と聖霊を見たのです。

この二つのことから、何が言えるのでありましょうか。

イエス様と父なる神がひとつであることと、聖霊が私たちのうちに住んでおられることを信じるということは、イエス様に出会うこと、イエスを見ること、『しばらくすると、わたしを見る』と言ったあの御言葉が、私たち自身の人生の中で成就するということではないでしょうか。イエス様と父なる神がひとつであるならば、イエス様を見ることは、父なる神をも見ることになります。これが二つ目のことですね。

この二つの事柄から、何が言えるかということは、先ほど言った、一番目、イエス様と父なる神がひとつであること、聖霊が私たちのうちに住んでおられるということを信じる、その信じるという信仰は、イエス様を見ること、イエス様が約束された、イエス様――わたし――を見ることです、もうしばらくすると見ることです。本当にしばらくすると、彼らは見たのであります。

そして、私たちも同じように、イエス様を信じると、聖霊が私たちの内側に宿り、そして、イエス様を見ることになると、約束されています。そして、しかも、イエス様ご自身の言葉の中に何度も何度も出てきたように、『わたしと父なる神はひとつである。』もし、そうであれば、聖霊を信じ、そして、イエス様と出会うこと、イエス様を見ることを信じ、そうすれば、それは、父なる神を見ることになると、聖書は語っているように思えてなりません。そして、実際に信じたら、心に解放と平安と、そして、確信が与えられるという事実が、一人一人の人生の中に飛び込んでくる。これが、聖書が語っていることではないでしょうか。

もう三十数年前に、この群れに来て、そして、数百人の集会があった時、聞きに行きました。一人の兄弟がメッセージの中で、聖霊について話してくださいました。信仰を持って十年だと言われました。私は、その時、信仰を持ったばかりですので、十年というのは本当に大先輩である――もう信仰の大先輩であると思って、耳をそばだてて聞いてたんですね。聖霊というのが、分かりませんでした。そうすると、その兄弟が、『私も分かりません』と、さらっと言われたんですね。それを聞いて、私はがっかりして、肩透かしを食ったような気持ちで帰りました。そして、それから、誰にきいても、それは定義してくださる方はあるかもしれません。けども、聖霊は自分のうちでわからないままに、何年も過ぎました。

ひとつひとつ信じるということが、聖霊と出会うことである。信じるということが、イエス様と出会うことである。また、信じるということが、父なる神をも見ることである。この三位一体の神が、言葉では表現できない確信として、救われた一人一人に、ひとつひとつのあらゆる出来事を通して、つちかわれていくのではないかと、信じているのであります。

私たち自身が聖霊の宮であるという約束を信じる人、もしくは、信じることができないとしても、心から信じたいと願っている人は、ヨハネが、第一ヨハネの手紙の1章の3節で伝えているその御言葉が実現すると、私は確信しています。よく知られた言葉ですね。この御言葉が、私たち自身の一人一人の心の内側で現実になれば、本当に幸せでありましょう。御子イエス・キリストの交わり、御父、および、御子イエス・キリストとの交わりを持つようになると、この手紙に書かれたように実現いたします。

第一ヨハネ
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

この御言葉は、この手紙を見るものに、彼が伝えるその理由は、私たちがヨハネと交わりを持つようになるためであると言っています。そして、そのヨハネと交わりを持つ者は、ヨハネがどういう交わりをしていたかを知る必要があります。ヨハネは、『私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり』である。その交わりが、この手紙を通して、彼が伝えたい、そのことなのですと書かれています。

しかし、このヨハネの手紙の交わりに関わるこの箇所には、御父、および、御子イエス・キリストの名前はありますが、三位一体の神である聖霊、御霊は出てまいりません。しかし、私たちは、パウロの書いた別の手紙を知っています。

第一コリント
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

このパウロの手紙を受け取っています。ヨハネやパウロ、彼らが書いた手紙、そして、ヨハネの福音書、新約聖書の全体から、私たちは、主なる神の御心、イエス様の御心を知るようになるのではないでしょうか。

ヨハネの手紙から、聖霊が目に見えない要(かなめ)、あるいは、結びの役割をしておられるという御心が伝わってくるように思います。御父と御子の結びつきの中に隠れておられる神、すなわち、聖霊、助け主が来られるのは、私たちにとって大きな益になると、二千年前の最後の晩餐で、イエス様は十一人の弟子たちに、伝えてくださいました。

ヨハネの福音書の16章の7節ですね。これが、イエス様が弟子たちに伝えた遺言の御言葉の意味ではないかと思わされます。

ヨハネ
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

これが今、私たちの現実になっている。しかし、私たちの目には見えません。しかし、信じるということは、この御言葉を信じることであり、信じた時に、私たちがひとつ、イエス様に大きく近づくという体験をしていくのではないでしょうか。『わたしは真実を言います』と、イエス様ご自身が言われました。『彼が去っていくことは私たちにとって益。』パウロが、ローマ書の8章の28節で語った、すべてのことを通して益とされる、その根拠のひとつがここにもあります。

【参考】ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

私たちは、ひとつひとつのみ言葉は、確かに理解しにくい――そのような言葉だらけであります。それは、私たちが常識で考えることのできない、神の言葉ばかりが聖書に書かれているから理解できません。しかし、ひとつひとつを信じて、そして、心に留めて、そうすれば、その中から芽が出て、ある時に、私たちに大きな意味を与えてくださると信じます。

最後に、この二つのことを、私たち自身の信仰に当てはめて、考えてみたいですね。

私たちが互いに愛する、あるいは、私たち兄妹姉妹がひとつになるという喜びが与えられるのは、何度、この御言葉を唱えても実現いたしません。ただイエス様と父なる神がひとつであることと、聖霊が私たちの内に住んでおられる、そのことはイエス様を見ることであると言う、今日も一緒に考えていた認識を、確かなものとすることではないでしょうか。

私たちの経験は、同じ人を直接、愛することはできませんでした。ただ、聖霊が、私たちのうちに住んでおられる聖霊が、すなわち、イエス様が、私たちにできない自分自身の心を大きく変えてくださる唯一の方であるということを信じるときに、私たちは、新しい人生を踏み出しているということではないでしょうか。

御言葉を二箇所、お読みして終わりにしたいと思います。ひとつは、今、遺言と言いました、その中にある御言葉であります。短い言葉です。

ヨハネ
14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。

この御言葉は、二千年間、多くの兄弟、多くの姉妹を、慰め支えてきた言葉のひとつであります。それは、聖霊が私たち一人ひとりに、全ての信じるものの内側に住まいを定めてくださっている、いつも行動を共にしてくださっている、そして、私たち自身が傷つき、私たちが苦しむ時は、聖霊も苦しんでおられる。それ以上に、聖霊が、もっと私たちを考えてくださっているという証拠であります。その御言葉ですね。

そして、最後に、先ほど最初に読んでいただいたヨハネの17章の24節から26節のイエス様の祈りの中に、目に見えない聖霊が、これからも知らせますというイエス様の祈りの言葉の中に隠れておられるということを思いつつ、お読みしたいですね。『これからも知らせます。』イエス様が天に帰られても、イエス様が、『これからも知らせます』というのは、聖霊、助け主が知らせてくださるという予表、予言ではないでしょうか。

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。

この箇所は、弟子たちに語っています。『わたしにくださったもの』――イエス様を信じるようになった私たち一人ひとりが入ってます。そして、イエス様のいるところに、わたしと一緒におらせてください。二千年前に約束されたみ言葉です。ですから今、私たちはイエス様と一緒にいるという状態の中に、生きているはずでありましょう。

ヨハネ
17:24 ・・・・あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが(私たちが)見るようになるためです。
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたし(イエス様)はあなた(父)を知っています。また、この人々(弟子たち、また、私たち)は、あなた(父)がわたし(イエス様)を遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたし(イエス様)は彼らに(私たちに)あなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。・・・・

『これからも知らせます』と、書かれています。

17:26 ・・・・それは、父がわたし(イエス様)を愛してくださったその愛が(父の愛、神の愛が)彼らの中にあり(私たちの中にあり)、またわたし(イエス様)が彼らの中にいるためです。

私たちの中にいるためである。それは、今から、死に向かおうとするイエス様が、私たちの中にいるためであるという祈りをしてくださいました。私たちの中にいるのは、聖霊、名前は聖霊という名に変わりましたけれども、イエス様が私の中にいると言う遺言ではないでしょうか。

今日、ご一緒に、短い時間で――もっとも難しいと言ったら語弊がありますけども――理解のできない、その神の奥義について、本当に今日、話していいものかどうか迷いましたけども、一緒に考えさせていただきました。

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