2020年10月18日日曜日

ふたつのパンの奇蹟

ふたつのパンの奇蹟
2020年10月18日、秋田福音集会
翻訳虫

マタイ
14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
14:18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。

(1)ベックさんのメッセージ

本題に入る前に、最近、ゴットホルド・ベック兄の古いメッセージを聴いていて、心に残った部分があったので紹介します。2014年の学び会で語られた『集会に集うべき態度』と言うメッセージの中で、ベックさんはこのように言われていました。

『イエス様は、人の魂を救うためにあなたを用いたいと計画しておられます。全能の主が一人ひとりを必要としています。』

私のようにぬるい信仰者にとっては、人間がイエス様を必要としているということ、これは、疑いようもない、信仰の土台とも言うべき事実です。しかし、ここでベックさんは、人がイエス様を必要とするのと同じように、主も、私たち一人ひとりを必要としていると言われています。

日本は世界でもっとも布教が困難で、多くの伝道者を挫折させてきた『宣教者の墓場』と呼ばれる国です。ベックさんのこのことばには、この日本での伝道に生涯を捧げ、たくさんの人を信仰へと導かれたベック兄が見出された深い真実が込められていると思わされました。

このメッセージのことは、また後でふれたいと思います。

(2)五千人の給食

さて、読んだところは、『五千人の給食』と呼ばれる、有名な箇所であります。

地上に住まわれたイエス様は、たくさんの奇蹟を起こされましたが、その中で、この『五千人の給食』は、四つの福音書のすべてに記録されており、弟子たちの心にも強く残った出来事であったことが分かります。

本日は、この部分を中心に、主イエス様の人とのかかわり方について考えてみたいと思います。

まず、この奇蹟の概要を振り返ってみます。イエス様と弟子たちが、神の国を告げ知らせる旅をしていたある日のことです。たくさんの群衆がイエス様とともに旅しています。

マタイ
14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」

夜が近づく中、群衆が空腹に震えていることを、弟子たちがイエス様に伝えます。これに対するイエスさまの応えを見てみます。

14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」

イエス様は、『あなたがたで』と言われました。これは大切な言葉ではないでしょうか。主は、自分一人だけで群衆の必要を満たすのではなく、これから行う奇蹟に、弟子たちを参加させようとしています。これに対する弟子たちの反応をお読みします。

14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」

イエス様は、この五切れのパンと二匹の魚を取り上げると、祝福を求めた上で、それを群衆に配らせました。すると、そのパンと魚が、尽きることなく増えてゆき、全ての人々が満腹するほどに行き渡ったとあります。

実際に、この群衆の目の前で、わずかな食べ物が、どんなふうに増えて行ったのかということは、聖書には詳しく書かれていないので、想像するしかありません。しかし、ただひとつ確かなことは、かごが、座っていた人々の手から手へと渡されていったということです。

そして、最後は、次のような言葉で締めくくられています。

14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。

イエス様は、この奇蹟を通して、信じる者たちをあり余るほどに祝福してくださることを、明らかに示されました。

さて、実は、このイエス様による五千人の給食から数千年前、旧約聖書の時代にも、同じようなことがありました。出エジプト記の16章にそのことが説明されています。やはり、神が荒れ野で民の飢えを満たされたこの出来事を振り返ってみたいと思います。

エジプトで奴隷とされていたイスラエルの会衆はモーセに率いられて脱出し、約束の地を目指しますが、その行程は非常に厳しく、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野で、民は飢えてしまいます。

出エジプト記
16:3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」

この民のつぶやきを聞かれた主は、モーセを通じて、パンを与えることを約束されます。

16:4 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。」

そして、主は会衆をあわれみ、約束されたとおり、天からのマナを降らせて、彼らの飢えを満たしてくださいました。

16:14 その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
16:15 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。」

イスラエルの会衆には、このあと、カナンの地に至るまで四十年にもわたって、天からのマナが降り続けたとあります。五千人の給食と同じく、ここでも、希望を失っていた民に、主が働かれ、有り余るほどの祝福が与えられたことが分かります。

このように、何千年と言う時間を隔てて、同じイスラエルの地で、内容的にはとても良く似た奇蹟が行われました。どちらの場合も、民は荒れ野と言う絶望的な状況に置かれ、その嘆きを聴いた神が哀れんでくださり、奇蹟の力によって人々の飢えを、豊かに満たされました。

しかし、このふたつの出来事を比べてみると、大きく明白な違いがあることに気付きます。旧約聖書の奇蹟では、天からマナが降り、会衆は神からの贈り物を直接、受け取りました。これに対して、五千人の給食では、食べ物のかごが、手から手へゆっくりと回されてゆきました。

実際に、この五千人の中に自分がいたと想像してみたらどうでしょうか?イエス様の近くにいた人たちは、かごがすぐに回って来たでしょうが、端っこの方にいた人たちはどうでしょう?遠くでパンと魚が配られているのは見えるけど、こっちにはまだ回ってこない、お腹が空いてイライラするし、パンが途中でなくなってしまうのではないかと心配したかも知れません。

しかし、結局は、全ての人が食べて、なおも十二のかごに余るほどの食べ物が備えられました。

神と同じ奇蹟の力を持ったイエス様には、五千人の上に瞬時に、パンを降らせることも簡単にできたことでしょう。しかし、ここでは、かごを受け取った人が、また、次の人へと手渡していったことに大きな意味があります。すなわち、ここに、イエス様の時代における神と人との関わりの性質が表れされているのではないかと思います。

ここで、初めにご紹介したベックさんのメッセージを振り返ってみたいと思います。ベックさんは、『イエス様は、人の魂を救うためにあなたを用いたいと計画しておられます』と言われ、続けて、同じメッセージの中で次のように語られています。

『救いを滅び行く人々に伝えるために、イエス様は一人ひとりの口を必要としておられます。霊的に死んでいる人々を、集会に招くためにイエス様は、あなたの足を必要としているのです。』

イエス様は、あえて、頭の上からパンを降らせることをせず、群衆の手から手へとパンが渡されるようにされました。私はこの奇蹟でイエス様が伝えようとしたのは、ベックさんが言われたように、主が救われた私たち一人一人の手を介して、福音が広まることを望んでおられるという御心ではなかったかと思います。

(3)病人を癒す

さて、ここで、パンの奇蹟から離れ、別の種類の奇蹟について見てみたいと思います。

聖書にはさまざまな奇蹟について書かれています。例えば、主は、常に病に苦しむ民をその奇蹟の力で助けてきましたが、ここにも、旧約聖書、新約聖書の時代に明らかな違いを見いだすことができます。

まず、旧約聖書の時代、神が人の病を癒す奇蹟は、隠れたところで、預言者を通して行われました。

その例をひとつ見てみます。第一列王記、17章で、預言者エリヤは、ツァレファテと言う町に行き、そこに住むやもめの女性に助けられました。しばらくのち、このやもめの息子が重い病気を患います。

第一列王記
17:17 これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
17:18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」

このやもめの嘆きを聞いたエリヤは、一人だけで主に祈り、この息子の癒しを神に求めます。

17:21 そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
17:22 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。

エリヤは、誰もいない部屋で、息子をよみがえらせました。そして、この奇蹟は、主と預言者と息子と言う、いわば当事者のあいだだけで行われています。

新約聖書においても、病を癒し、死者をよみがえらせる主の奇蹟が行われました。ここで特徴的なのは、どの場合も、イエス様と癒される者のあいだをとりもつ第三者が介在していたことではないでしょうか。その例として、有名なガリラヤ湖畔での奇蹟を見てみます。

マルコ
7:31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

ここで、主が、その人の耳と舌にふれて、『開け』と言われると、彼の耳はただちに開いたとあります。ここで着目したいのは、この人を、イエス様のもとに連れて来て、手を置いてくださるように願った人々がいたという記述であります。このように、イエス様が病をいやすとき、そこには何らかのかたちで、苦しんでいるものを主の下に導いた第三者がいたことに気付きます。このことは、マタイ伝4章の最後に次のようにまとめられています。

マタイ
4:24 イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。

イエス様は決して、父なる神と同じ力がなかったから、人の手の助けが必要だったわけではありません。主の奇蹟の力を信じた者たちが、今度は他の人たちを、みもとに導く、すなわち、救われた自分も、今度は主の奇蹟の力の一部となるように、主によって召されたということではないかと思います。そして、主はご自身の力で救ったものに告げています。

マルコ
5:19 ・・・・あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。

自分が受けた救いを、さらに多くの人に伝えるように命じました。こうして主は、ご自身の救いが広がっていくために、信じる者の手を求めることを明白に示されました。

(4)主の助け

それだけでなく、主は、そのような人の働きをご自身が支えてくれることを、み言葉の中で明らかにされています。

ヨハネ
14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。

イエス様を信じた者が、今度は主の手足となって、『さらに大きなわざを行う』、すなわち、信仰をさらに多くの人に伝えることを、主ご自身が、ここで証しされています。また、ベックさんは、先ほど紹介したメッセージの最後でこう言われました。

『主は何でもできるお方です。しかし、このお方は我々を必要としています。そしてこのお方は、わたしたちに必要な力を必ず与えてくださいます。』

これは、どちらも大きな勇気を与えてくれることばではないでしょうか。

(5)人類の救いの奇蹟

さて、ここまで、主イエス様は、神としての圧倒的な力を見せつけることをあえてなさらず、救いを受けた人々との関わりの中で福音を広めることを見てきました。

このみ心がもっとも明らかに表されたのが、主が進んでおかかりになった十字架ではないでしょうか。人の救いのために、地上に住まわれた主イエス様を、人間たちは受け入れることを拒んだばかりか、辱め、十字架に付けて殺しました。イエス様は、神の御子としての力を使って、ノアの洪水のように、自分を拒絶した人々を滅ぼすことも可能だったかもしれません。しかし、主は決して、そのようなことを望まれませんでした。

主が望まれたことは、わずかなパンと魚が、群衆の手から手へと渡されるうちに大きく増えたように、十字架での死とよみがえりを目撃した一握りの人々から始まって、人の手、人の口を介して、救いが伝わっていくようにされることだったのであります。

ここで忘れてはならないことは、イエス様の十字架から始まった群衆の輪の中に、今、私たちも入っているということであります。この輪の中にいる私たちは、主からの恵みとして、手渡されたかごを次の人に手渡すように召されています。受け取ったパンと魚を食べ、自分が満足しただけで終わるということは許されないのであります。

受け取った多くの恵みを自分も家族や親戚、まだ主を知らない多くの人たちに分け与えることを常に覚えなければならない・・・・これが、五千人の給食と言う奇蹟を通して、主が、私たちに今も、語っておられることではないかと思います。

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